第二章 瑠璃色の甍 ~第六節~

 うまい料理といっしょにひさびさのいい酒を心ゆくまで飲みたい気持ちをぐっと押さえ、文先生はシャジャルに尋ねた。

「ところで、異国生まれのシャジャルさんがこうなるにいたったのには、何か深い事情がおありなんですよね? そこのところをあらためてご説明いただけませんか? もしかしたら、私たちが何かお役に立てるかもしれませんし」

「それは……わたしにも、まだよく判っていないところも、ある……」

「そもそもいったい何があったんだ? あんたを助ける時におれがぶちのめしたのは、みんな頭も人相も悪いでくの坊だったが、あいつらにさらわれたのか?」

「……たぶん、そう」

 獅伯のいいようがおかしかったのか、シャジャルは小さく笑った。

「わたしは……わたしがお仕えする、若さまたちといっしょに、商売のために、西域から来た……でも、途中、わたしだけすべり落ちた」

「すべり落ちた?」

「山……崖? から」

「え!? 崖から落ちてよく無事だったね……?」

「運が、よかった……でも、それではぐれた。そのあと、若さまたちを捜しているうちに、熱が出た。金も、薬もないから、壊れた家に隠れて、寝てた。寝てれば治るかもって思ったから」

「そりゃあ無茶だろ。病にかかって食うものも食わず野宿を続けていたら、大人の男だって治りゃしない」

 獅伯の指摘ももっともだが、シャジャルがそうせざるをえなかった理由も判らなくはない。蒙古軍に対する恐怖がまだ色濃く残っている今、明らかに異国人と判る風貌のシャジャルと出会った場合、この土地の人間が真っ先にいだくであろう感情は怒り、あるいは恐れ――そしてそのどちらも、容易に敵意へとすり替わってしまう。彼女が人目につかないように行動していたのは正解だった。

「――つまり、折から病で弱っていたところをあの男たちに見つかり、捕まってしまったというわけですか。やはりあの男たちは人買いだったのかもしれませんね」

 シャジャルのような異国の美しい娘なら、臨安や蘇州そしゅう揚州ようしゅうあたりの新しもの好きな金持ちなら、大枚をはたいてでも手に入れたがるに違いない。出会った時のいでたちを考えれば、おそらくシャジャルは異国の舞姫なのだろうし、しかもこの国の言葉が通じるとなれば余計に高値がつくはずだった。

 シャジャルの粥の碗にせっせと鴨肉を乗せていた白蓉が、ふと思いついたように疑問の声をあげた。

「そういえばぁ、そもそもシャジャルはどこで生まれたの?」

「……アンティオキア」

「あ、あん……? あんて――はい?」

「……アンティオキア、ですか」

「おい、訳知り顔でうなずいてるけど、知ってるのか、先生?」

「もちろん知りませんよ。今初めて聞いた地名です。ただ、やはり異国の地名は響きからして面白いですね」

 文先生は目の前の皿や碗を押しのけ、酒で濡らした指先で卓の上に簡単な地図を書いた。宋と蒙古、吐蕃とばんや大理といった各地の大まかな位置だけを丸で囲んでしめし、

「ここを我が国、ここが吐蕃だとすると、そのアンティオキアという街は、この地図でいうとどのへんにありますか?」

「…………」

 つたない地図をしばらく見つめていたシャジャルは、

「……その碗、どけて」

「はい?」

「先生から見て、もっと……左」

「えっ? つまりもっと西? ひょっとしてアンティオキアというのは、大秦だいしんのそばにあるんですか?」

「大秦……? ああ……たぶん、そう」

 古い漢の頃の書物に、大秦という西方の大国の記載があった。この大陸の西の果ての、さらにその先の内海を越えたところにあるという話で、命懸けの厳しい旅路に二年も耐えてようやくたどり着けるのだという。

 シャジャルの話によれば、彼女が生まれたアンティオキアは、その内海の手前に位置する街らしい。

「……ただ、今はもう、街はないかも。わたし、知らない」

「どういうことだよ?」

「あのへんは……この国でいう、回教徒たちが強くて多い。たくさんの小さな国ができて、なくなる。その繰り返し。それでわたしは、親がいなくなって、奴隷になって、別の土地に売られてった……」

「そんな……」

 淡々としたシャジャルの告白に、白蓉は痛ましげな表情を見せた。

「それで、これからどうするとかあてはあるの?」

「それは……若さまたちに、会いたい」

「その若さまってのは誰なの? 商人か何か?」

「若さまは、旦那さまの息子。一番上。いずれ旦那さまになる。狩りが好き。一族で一番強い。誰もかなわない」

 西域からはるばる旅をしてこの国までやってくる商人たちは、精神的にも肉体的にも頑健な男たちが多い。おそらくシャジャルの主人であるその若さまとやらも、よく日に焼けた肌の屈強な大男なのだろう。

 そして、シャジャルはその男に恋心をいだいている。やや熱を帯びた幼い少女の口調からそれを察し、先生は思わず微笑んでしまった。

「で、その若さまは何て名前なんだ?」

「…………」

 シャジャルはうつむき、何やら考え込んでいる。

「……? 名前を知らないわけじゃないだろ?」

「名前は、いうな。いわれてる」

「名前をいうな?」

「でも、この国では、綽号で通すといってた。百眼ひゃくがん魔手ましゅ

「は?」

 獅伯の箸先から羊の腸詰の薄切りがぽとりと落ちる。

「この国では、強い男は、強そうな綽号で呼ばれるから……」

「……そうなんですか、獅伯さん?」

「いや、まあ……でもそういう綽号って自分で名乗っちゃう、ふつう? 人々の噂になるくらい強くて、自然と異名がつくっていうなら判るけど……」

 意見を求めるように獅伯が白蓉を見やると、白蓉は箸を置いて眉を吊り上げた。

「いっておきますけどぉ、姐さまの綽号だって他人がいい出したものですからね?」

「判ってるって。誰がいうともなく呼ばれるようになった綽号もあれば、見栄で自分から名乗っちゃう奴もいるし、人によっては本名を名乗れないから代わりに名乗るってこともあるわけでさ。……まあ、その若さまがどうなのかは知らないけど」

「考えてみれば、獅伯さんも本名を名乗れない口でしたね」

「だからっておかしな綽号なんかつけてないからな、おれは」

 文先生と獅伯のやり取りを見ていたシャジャルは、わけが判らないといいたげに首をかしげている。そこで文先生は獅伯の事情について簡単に説明し、

「そうそう、そうでした! 獅伯さん。その剣の鞘、シャジャルさんに見てもらったらいかがです?」

「あー……いわれてみればそうだな」

 獅伯は背負っていた剣を抜き、鞘だけをシャジャルに渡した。

「あんたに読める文字があるといいんだが」

「この国の文字以外に、シャジャルさんが目にしたことのある文字はありますか?」

 文先生が尋ねると、シャジャルは小さくうなずき、鞘に刻まれた紋様めいた文字列の一部を指でなぞった。

「……ここからここまでは、大食たいしょくの文字。西域で商売をするには、読めないと話にならない言葉」

「じゃあ読めるのか?」

「少しだけ。……でも、これは文章じゃない」

「文章じゃないということは……単語ですか?」

「うん。たぶん、フィラースと読む」

「フィラース……? 意味は?」

「大きくて、獰猛な、乾いた草原に棲む――」

 あれこれと頭の中で言葉を捜しているのか、ぶつぶつと小声で呟いていたシャジャルは、鞘を返そうとした時に獅伯の顔を見て、あっと声をあげた。

「そうだ、獅子」

「は?」

「フィラースは、確か、この国で獅子」

 それを聞いて、文先生は思わず獅伯と顔を見合わせていた。

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