第二章 瑠璃色の甍 ~第五節~

 窓枠に尻を乗せ、川面を渡るしっとりとした風に吹かれていた獅伯は、向かいの桂花殿の露台に、川の流れを眺める男女の姿があることに気づいた。

 身なりのよさからすると。どこかの良家の夫婦のようだった。夫らしきほうは四〇前後のやや太り気味の男で、一方の奥方はほっそりとして背が高い美女で、年齢でいえば三〇手前ほどだろう。ぴったりと身を寄せ、何ごとかささやき合っているふたりの姿はいかにも仲睦まじげに見える。

「……李白が大好きっていうのはあの旦那か? よく知らないけど、李白ってやつはどうしてそんなに人気なんだ?」

 疲れから来るあくびを噛み殺し、獅伯は静かに部屋の中に戻って窓を閉めた。


          ☆


 ここ数日は長雨のせいで川の水嵩が増し、対岸へ渡るに渡れなかったためか、陽光の下、たくさんの舟があちらとこちらを何度も往来していた。

 その中に、長い丸太で組まれた大きな筏で向こう岸へ向かう人馬の一団があった。筏の上には男が十数人と、それよりも多い馬たち、多くの荷などが積まれている。日よけのためか、かぶった笠の縁からくすんだ灰色の布を垂らし、さらには口もとにも布を巻いているせいで、男たちの人相は定かではない。

 このまま先へ進むと山がちの険しい道が続くが、対岸へ渡れば道は徐々に平坦になっていく。馬で旅をする彼らにとっては、ここで長江を渡ったほうが都合がいいのだろう。ただ、舟に乗ることに慣れていないのか、竿をあやつる数人を除いて、ほかの男たちは筏の中央で身を寄せ合っている。

「――若」

 ただひとり、筏の一番前に座って前を見つめていた若者のもとへ、小柄な男がにじり寄った。

「恐れながら、若はその……泳げますので?」

「俺か? 泳げん。ほとんど泳げん」

 口もとの布を引き下げ、白い歯を見せて若者は笑った。

「そもそもこれほど広い川を見たのは生まれて初めてだしな。深さはさほどでもなさそうだが、もしここに放り出されたら全員死んじまうなあ。――だろ? 誰か泳ぎが得意な奴はいるか?」

 若者は後ろのほうで縮こまっている男たちに声をかけたが、景気のいい声は返ってこない。小柄な男は首をすくめ、若者の衣の裾を引っ張った。

「でしたら、そのようなところに陣取るのはおやめくだされ。もっとこう……筏が揺れた拍子に転げ落ちたりせぬところに」

「そういうおまえこそ気をつけろ、ザーン。孫ができたばかりじゃなかったか?」

「いや、しかし……」

「それよりも今はお役目のことだ。――だろ?」

「は……」

「くだんのお宝を見つけるか、せめてその手掛かりなりと掴んでからでなければ、とてもじゃないが国には戻れないぞ? ……まったく、いまさらながら厄介なお役目を押しつけられたもんだ」

 それから四半刻ほどで、筏は対岸へと着いた。まだ時刻は正午前で、食事をしてから出立しても、日暮れまでにはかなり旅程を稼げるだろう。

 火を熾して酒と干し肉で簡単に腹を満たしてから、若者たちが筏から下ろした馬に荷を積み替えていると、馬を乗せた小舟がやってきた。

「若!」

「ボルグか! もう追いついてくるとは、ずいぶん早かったな!」

「実は途中で馬を変えました!」

 小舟から馬を下ろし、ボルグは若者のところへとやってきた。

「……おまえがひとりで来た時点で察しはつくが、シャジャルは見つかったか?」

「いえ。……崖下へ下りて捜してみのですが、シャジャルの骸はありませんでした。ただ、いっしょに落ちていった馬は首の骨が折れていた上に、その肉は狼どもに食い荒らされておりましたので、可哀相ですが、あの娘も……」

 ボルグが痛ましげな表情で弱々しくうつむく。しかし若者は平然とかぶりを振り、

「……あのシャジャルだぞ?」

「ですが……」

「よしんば狼の群れに出くわしたにせよ、シャジャルならうまく逃げ延びる。骸がなかったのはそういうことだ。あの子には、道中もしはぐれた場合は長江沿いに東へ向かえとつねづねいい聞かせてもいるからな。案外、どこかで俺たちを追い越して先行しているかもしれない。――だろ?」

「とはいえ、ここは西域ではございませぬ」

 腰を叩きながらやってきたゾーンが、自分の目もとを指差して溜息交じりにいった。

「……あの娘の髪の色も瞳の色も、この国では異端なのです。カアンの軍が四川まで迫って以来、この国の人々が異国の人間に向ける目は厳しくなっておるはず。我々ですらこうして顔を隠して旅をしておるほどなのですぞ?」

「それでもうまくやるさ。シャジャルなら」

 どんな根拠があるのか、若者はそう笑ってゾーンとボルグの背中を叩いた。


          ☆


 一階の客間に豪勢な料理の数々と酒が運び込まれ、宿のの女たちが充分遠くに立ち去ったのを確認してから、文先生は階段の上に向かって声をかけた。

「もう大丈夫ですよ、獅伯さん!」

「ああ」

 返事とともに、上の寝室からシャジャルを背負った獅伯と白蓉が下りてきた。

「念のために横木かけときますね」

 外から開けられないように扉に横木をかけてきた白蓉は、獅伯の手を借りて卓に着いたシャジャルの隣に座った。

「あなた、箸は使える?」

「人並みには……」

 かぼそい声でそう答えたシャジャルの顔色は、朝早くにここへ運び込んだ時よりも格段によくなっていた。薬湯と質のいい眠りで熱が下がったのが大きいのだろう。

「異国の人は戒律によって食べることを禁じられているものがあるそうですが、あなたはどうです?」

「特に、ない……」

「ではどうぞ遠慮なく食べてください。シャジャルさんはお若いですから、食べるものを食べていればすぐに元気になりますよ」

「……ありがとう」

 口数が少なくややぶっきらぼうに感じられるのは、まだ身体がだるいせいか、それとも彼女の性格なのか、文先生には判らない。ただ、こうして起きているところを見ていると、何とはなしに後者のような気がしてくる。

 シャジャルは確かに綺麗な少女だったが、目つきが鋭く、鼻も生意気そうにややつんとしている。目、鼻、唇といったおのおのの造作は見事なのだが、いざそれらが集まると、どうも険があるように感じられ、だからこそ文先生には、可愛らしいというよりは綺麗だと感じられたのだった。

「…………」

 シャジャルは胸の前で両手を組み合わせ、しばし黙礼してから箸を取った。

「何だ、今の?」

 揚げたうずらを頭からばりばりとかじっていた獅伯が、シャジャルの奇妙な仕種に首をかしげた。

「仏門にある人間が、おときをいただく前に合掌するでしょう? それと似たようなものですよ。景教の信徒は胸や額の前で十字を切ったり、今のシャジャルさんのように両手を組み合わせて神に祈るのです。……よね?」

 文先生が同意を求めると、シャジャルは軽くうなずいた。

「それを知ってるなんて、文先生は、物知りだな。……なのに先生は、学者ではないのか……?」

 シャジャルの言葉はやや片言でぎこちなく、発音にも訛りのようなものが多分に含まれていたが、意志を疎通させる上では何の問題もない。むしろ、こんな幼い異国の少女がここまできちんとした宋の言葉を使いこなせることが驚きだった。

「私ごときが学者だなんておこがましい話です。私はただ幼い頃から本の虫で、とにかく見聞を広げたいという思いが人より強いだけなんですよ。――ですからこうして、今も獅伯さんと旅を続けているわけでして」

「ああそうだな。あんたたちがおれの旅に勝手についてきてるんだよな」

 鶉の骨を空いた器にぷっと吐き出し、獅伯が嘆息する。するとすかさず白蓉がシャジャルの耳もとに顔を寄せ、聞えよがしにいった。

「いつもいってるんだけどぉ、ああして悪ぶってるわりに、獅伯さんてほんとはすごくいい人だから」

「獅伯は……いい人か」

「…………」

 じろりと白蓉を睨みつけただけで、獅伯は何もいわなかった。

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