第二章 瑠璃色の甍 ~第四節~
「おお……!」
「いらっしゃいませ、青風楼へようこそおいでくださいました。この宿の主人、梁青霞と申します」
白地に青い花びらを散らした柄の上等な衣をまとった女は、真ん中に立っている文先生の前まで進み出ると、ていねいに頭を下げた。桃の花をかたどった簪が灯籠の明かりを跳ね返し、女の動きに合わせてきらめいている。おそらく三〇すぎといったところだろうが、艶やかな衣装に派手な化粧がよく似合う女だった。
美女の登場にあからさまな喜びの表情を見せていた文先生は、これをさすがといっていいのか、両手を後ろ手に組んでそつなく応じた。
「このようなところにこれほど瀟洒な宿があるとは驚きです。できれば二、三日ほど、こちらでご厄介になりたいのですが……」
「三名さま……いえ、四名さま?」
「ああ、はい。妹が馬車に酔ってしまいましてね。それもあって、急遽こちらに立ち寄ったわけです」
「左様でございましたか……とにかく中へどうぞ」
女の案内で、獅伯たちは中央の楼閣へ招き入れられた。聞けば、瑠璃色の瓦で葺かれたこの楼閣こそが、宿の名の由来ともなっている青風楼らしい。さらに、周りにある離れはそれぞれ少しずつおもむきが異なっており、桂花殿やら望月楼、秋風殿に明水亭といったような、それぞれに雅やかな名がつけられているのだという。
ひとまず青風楼の三階の広間に通され、あたたかい茶で歓待されていると、部屋の準備のためにいったん下がっていったさっきの美女が戻ってきた。
「お待たせいたしました。お部屋のほうへご案内いたしますわね」
数名の女たちを引き連れ、青霞が歩き出す。
熟しきった果物にたとえればいいのか、隠そうとしても隠しきれない匂い立つような色香を全身から放つ女だった。身につけているものは獅伯が見てもそれと判るほどに上等で、挙措のいちいちにも無礼なところはない。しかし、それでも獅伯がこの梁青霞から真っ先に感じたのは、妖艶とか淫蕩とか、そういったたぐいの言葉であった。
「宿帳で拝見いたしましたけど……お客さまがたは江州からいらしたとか? さぞやお疲れでしょう」
「はい。特に妹たちは初めての長旅ですので、疲れが溜まっているようです。……そうそう、できれば熱冷ましの薬湯などもいただければありがたいのですが」
「承知いたしました。そちらもすぐにご用意いたしましょう」
芭蕉のようなまつげに飾られた瞳を伏せ、青霞はうなずいた。
「…………」
シャジャルをかかえたまま、獅伯は文先生と青霞のやり取りを後ろからじっと見つめていた。
「……まさか獅伯さま、ああいう女の人がお好みなんですかぁ? 獅伯さまよりかなり年上だと思いますけど?」
「いや……まあ、美人だとは思うよ?」
「え、やっぱりああいうのが好みなんですかあ?」
「女の好みとか、おれはそういうのは特にないけど」
「だったら何なんですかあ? そんな物欲しげな目をしちゃって……」
「してないだろ、別に。……ただちょっと気になることがあるだけだ」
その外見にふさわしく、この宿のそちこちに置かれている調度のたぐいは見事なものばかりだった。もともと何もなかったであろう広い中洲にこれだけの宿を作り、家具をしつらえ、さらに人手を集めて宿を経営するのにどれほどの金と時間がかかったのか、獅伯には想像もつかない。
ただ、それだけのことをこの女がやってのけたのだと思うと、何かしらの得体の知れなさを感じなくもない。
「……金持ちの旦那がついてるとかかな?」
「ありえるかもしれませんねえ」
誰にいうでもなく呟いた獅伯の言葉を耳にした白蓉は、シャジャルの顔色を確認しながら、同じく低い声でいった。
「――わたしも一時期、そこそこ大きな街の酒家ではたらいてたことありましたけどお、そこの女将さんは、街の顔役のお妾さんでしたよう?」
「ふぅん……ま、ちゃんともてなしてくれるならどうだっていいんだけどさ」
弓状の橋をいくつも渡って案内された羽仙閣は、川の流れに面した広く瀟洒な客間のある一階と、大きな寝台が置かれた部屋が二階と三階にあって、これだけでちょっとした屋敷のようなものだった。四人で泊まるには充分すぎる広さがある。
青霞を相手に部屋をほめちぎっている先生を放置し、獅伯はシャジャルを連れて三階に上がった。三階なら、宿の娘たちがいきなりやってきて、シャジャルを目にしてしまうことも避けられる。
「こっちの部屋はあんたとこの子が使え。おれと先生は下の部屋で寝る」
「はい」
広い寝台にシャジャルを横たえ、獅伯は嘆息した。
「――あとはあんたに任せていいか?」
「はい。薬湯が届いたら、獅伯さまか先生が持ってきてくださいね?」
「判ってる」
獅伯は二階の寝台になけなしの荷物を放り投げ、一階へ下りていった。
客間では、なぜかまだいる青霞を相手に、先生が窓辺でおしゃべりをしながらお茶を飲んでいた。青霞が居座っているのか、それとも先生が引き留めているのかは判らないが、いずれにしても邪魔臭い。
「ご兄弟で臨安まで? それはようございますねえ」
「いやあ、私のわがままにつき合わせているようなものですがね。妹たちが旅に出られるのも嫁入り前の今だけですし、弟は家業も手伝わずに武術にうつつを抜かしているようなありさまでして……だからどうせならと、用心棒と荷物持ちを兼ねて連れてきた次第です」
ああしてするすると口から出まかせを並べ立てられるのも、ある種の才能といえるのかもしれない。察するところ文先生は、自分たちをどこかの田舎から物見遊山に来た金持ちの子供たちとでも説明したのだろう。
「李白には遠くおよびませんが、私もいささか詩をたしなみますし、となれば、ぜひとも秋浦には立ち寄ってみたいと思いまして」
「あら、文さまもですの? 当楼にはそういうお客さまがよくお見えですの」
古風な団扇で口もとを隠して楚々と笑った青霞は、たっぷりとした袖を押さえて窓の外を指差した。細い流れをはさんだ向かいの砂州にも橋でつながれた大きな離れがひとつあり、その軒先で灯籠が揺れている。
「――あちらの桂花殿にご逗留いただいているお客さまも、確か李白がたいへんお好きだとか……」
「そうでしょうそうでしょう! 李白は素晴らしいですからね! できることなら、あなたと夜を徹して李白の素晴らしさについて語り合いたいものです」
「……そこは向かいの離れの客と語り合うんじゃないのかよ」
ちゃっかり青霞の手を握っている先生を横目に、獅伯は宿の娘が持ってきた薬湯を受け取って三階に上がった。
「……どんな感じだ?」
「今ちょっと目が覚めましたけど、相変わらずですう」
ずっと移動続きでゆっくりと休めていない上に、ろくな食事も薬さえも口にしていないのなら、病状がよくなるはずもない。
「こいつを飲めば少しはよくなるんじゃない?」
「だといいですけど……」
白蓉はシャジャルをかかえ起こすと、その口もとに薬湯の碗を近づけた。
「――さ、これ飲んで」
「う……」
シャジャルは薄く目を開け、きつい匂いに眉をひそめていたが、それが薬だと気づいたのか、少しずつすすり始めた。
碗をささえながら、白蓉はふと階段のほうを一瞥し、
「……先生は何をなさってるんですぅ?」
「美人女将と高尚なおしゃべりをなさっていらっしゃる」
獅伯は四方の窓を開け、あたりを見回した。地上三階の高さとはいえ、突き出した軒や橋が無数にあるおかげで、いざという時に逃げ出すのはさほど難しくないだろう。獅伯ひとりならなおのこと余裕だった。
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