第三章 水なめらかにして凝脂を洗う ~第七節~


          ☆


 県のとうと称する男に雇われたにもかかわらず、げつえいが連れていかれたのは、県の役所でもなければ兵営でもなく、長江と秋浦河しゅうほがが交わるあたりの、風光明媚な丘の上にある小さな屋敷だった。

「……何かおかしいんじゃないかい?」

 ここへ来て丸一日、月瑛はただただ歓待を受けている。料理は美味で品数多く、水がいいからか酒もうまい。着いてすぐに広い風呂にも入らせてもらったし、寝床も最高だった。これで文句をつけたら罰が当たるというくらいの素晴らしい待遇である。

 しかし月瑛は、賊相手の斬り合いの助っ人といわれてここに来ているのである。もしあれが嘘だったり、あるいはその仕事がなくなったというのであれば、一刻も早くここを出て旅に戻りたかった。

 そこのところをはっきりさせておこうと、月瑛が朝から酒を飲みつつ待ち構えていると、昼を少しすぎた頃、かく忠賢がやってきた。

「あんた、客人をほったらかしにして何をしてるんだい?」

「あ、いや、白蓉どの……自分には本来のお役目があるゆえ、申し訳ないが、ずっと貴公の相手をしているわけにはいかないのだ」

 兜を小脇にかかえて帰ってきた忠賢は、鎧を脱ぐ間もなく月瑛に詰められ、いきなりたじろいでいた。

「にしてもさ? それにしてもだよ、何の説明もなく放り出すってのはないんじゃないかい? わたしが先を急いでるって話はしただろ? 助っ人の出番がないようなら、わたしは旅に戻りたいんだけどねえ?」

「あいや! しばし! しばしお待ちいただきたい!」

 日当たりのいい庭先の、石造りの卓に慌てて着いた忠賢は、軽く手を叩いて小間使いたちを呼びつけると、自分のぶんの杯と、酒と料理の追加をすぐに持ってくるように命じた。

「ゆうべは重要なお役目があり、屋敷を留守にしなければならなかったため、肝心の話を何もできなかったが……そうだな、ちゃんと説明しなければなるまい」

 月瑛の杯に酒をそそぎ、忠賢はいった。

「……いくつかの県をまたぎ、このしゅう各地で若い娘たちが次々にさらわれているという話はしたと思う」

「ああ」

「表向き、この国にはもはや奴隷というものは存在しない。金銭で人を売り買いするということ自体が禁じられているからだ。……しかし、たとえ法でそう定められてはいても、実質的には、生活に困窮した者が借金の形に我が子を奉公人という体で売りに出したり、悪辣な金持ちが妾という体で貧乏人の娘を買うというようなことは、今でもふつうにある」

「だろうねえ」

 月瑛の妹分である白蓉も、もともとそうしてどこからか売られてきた娘だった。まだ十にもならないうちからこき使われているのを見て、月瑛の剣の師匠がそれを憐れみ、もとの“持ち主”から買い取って自由の身にしてやったのである。そのことを恩に感じた白蓉は、そのまま屋敷に残って師匠を母、月瑛を姉としてまめまめしく仕えてきた。師匠が健在であれば、おそらく今頃あの娘は月瑛と旅に出ることなく、屋敷に残っていただろう。

 新しい酒が運ばれてくると、今度は月瑛が忠賢に酌をし、低い声で聞き返した。

「……娘たちが消えてるってのは、そういう手合いがこのあたりにいるせいだってことかい?」

「我々はそう睨んでいる」

 ほんのり燗された酒で唇を濡らし、忠賢はうなずいた。

「……哀しいことだが、親が進んで娘を売るということも少なくない。ただ、消えている娘たちというのはまた別口なのだ。それを望まぬ親のもとから力ずくで娘を奪っていく賊がいる。貴公が斬ったのはそういう輩だ」

「あそこの近くの村じゃ、子供を渡すことを拒んだ親が斬られたって話だよ。親を殺してまで子供をさらおうってのは尋常じゃないと思うんだけど、そいつらの手がかりは何かないのかい? おとなしく金を受け取って子供を売った親もいたのなら、そいつらを締め上げて――」

 いいつのる月瑛を制するように、忠賢は彼女の眼前に手をかかげた。

「いや、それは自分も考えた。……だが、どの親も口を開こうとしない。金欲しさに娘を売ったとはいえ、やはりその身が心配なのだろう。うっかり口をすべらせて、もし売られていった娘の身に何かあればと思えば、沈黙を押し通さざるをえまい」

「さもなきゃ、娘を売る時によほど脅されてるかのどっちかだろうさ」

「ああ。とにかく、その線から娘たちの行方を追うのは難しいと考えていたのだが……ひと月ほど前のことになる」

「何かあったのかい?」

「長江が増水していたある夜、ここからもう少し東に行ったところで、行方知れずになっていた少女の遺体が上がったのだ」

「…………」

 胡麻豆腐を食べようとしていた箸を止め、月瑛は顔をしかめた。

「いったん行方知れずとなった少女が――生死はともかく――ふたたび姿を見せたのは、今のところはこれだけだ。遺体を調べたところ、特に怪我などはしていなかったが、かなりやせ細っていた」

「どこかに閉じ込められていたのを、必死に逃げ出してきたってことか……」

「おそらくそうだろう。どこから流されてきたかは判らなかったが、遺体の損傷が少なかったことから見て、そう長い距離を流されてきたわけではないだろう」

「どこから逃げてきたのか、目星は?」

「なくはないが……ここまで調べるのにかなり時間がかかった」

 そこでいったん言葉を区切った忠賢は、あらためてあたりを見回した。ついさっき料理を運んできた娘たちはすでに屋敷内に下がっており、今この庭園には月瑛と忠賢しかいない。

「……何を気にしてるのさ?」

「情けない話だが、県の役人たちの中に、賊と通じてこちらの動きを伝えている者がいるらしい。調査に時間がかかったのも、賊どもの動きを掴むのに苦労したのも、内通者の存在を裏づけている」

「……それがこの屋敷にもいるってのかい?」

「ここではたらいているのは郭家と縁続きの者たちがほとんどだから、さほど心配する必要はないのだが、まあ、癖でな。……貴公を役所ではなくこちらに案内したのも、そのへんを考えてのことだ」

 硬い表情を苦笑で崩し、忠賢はきょう初めて大きく酒をあおった。

「……ともあれ、ここはと思う目星をつけて、今、志邦さまが調査を進めておられる。ただ、今いったように、誰が賊と通じているか判らないのが現状だ。いざ連中の根城に踏み込む段になっても、連れていけるのは絶対に信頼できる者だけだろう。役人の中だけでなく、兵士たちの中にも内通者がいるかもしれんからな」

「となると、そんなに数は揃えられないから、おのずと選りすぐりの腕利きだけで乗り込まなきゃならなくなるねえ」

「そういうことだ。皮肉なことだが、こうなると行きずりの貴公のほうが信頼できる。あのように賊どもを平然と斬って捨てた貴公なら、連中の仲間ではないと断言できるからな」

「なるほど……だいたい納得したよ。それで、いつどこに斬り込むんだい?」

「いつになるかはまだ判らん。志邦さまの指示さえあれば、きょうにでも踏み込みたいところだが……ただ、連中の根城はほぼ掴んだ。秋浦から五里ばかり離れたところにある、青風楼という宿だ」

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