第四章 朝靄とともに ~第一節~
その日の夜、
しかし、それを聞いても
「とんでもないです。シャジャルはまだ具合がよくないんですよう? だったら誰かがそばについててあげなきゃいけないじゃないですかあ」
腰に手を当て、白蓉はそう主張した。そのいいぶんは確かに判るが、ただ、獅伯には彼女が正論を盾にこちらをなじっているように聞こえて面白くない。
「まあ、白蓉さんのいうことも判りますが……」
「別にいいだろ、先生。お説ごもっともだ」
こうなると、青霞に新しい着替えを用意してもらえたのはよかったのかもしれない。襟を正して髪を撫でつけ、獅伯は剣を片手に階段へ向かった。
「――おれが残ってシャジャルの世話をするには障りがあるだろし、ご兄妹でと招待されたのに長男ひとりしかお邪魔しないってのも角が立つ。違うか?」
「それは……はい」
「別に夜を徹して飲み明かすわけでもなし、向こうの旦那の無駄話に少々つき合ってすぐに戻ってくればいいんだろ?」
「……そうですね。それじゃ白蓉さん。私たちはちょっと行ってきますので」
「ええ、どうぞわたしたちにはお構いなく、お酒でもお料理でも女の人でも、お好きに楽しんできたらいいと思いますよう」
「何いってんだか……」
棘のある少女の言葉を背中で聞き、獅伯は先に階段を下りていった。
「獅伯さん」
「おれのほうが年上だからとか男だからとか、そんな理由で折れろっていったら、今夜のうちにおれはひとりで出立するからな」
獅伯がその気になれば、宿の舟を奪わずともこっそりひとりでここから逃げ出すことはできる。先生にもそれが何となく判るからだろうか、開きかけた口をしばらくぱくぱくさせたたあと、結局何もいわずにうつむいた。
「そもそもの話」
おだやかな流れの上を横切る橋を渡り、桂花殿に向かって歩きながら、獅伯は怒気の混じった溜息をもらした。
「……あいつは何が目当てでおれについてきてるんだ? 先生がおれにつきまとうのはこの剣に興味があるからだってことは判ってるけど、あいつは何なんだよ?」
「それは私にも判りませんが……でも、少なくとも最初は
「は? あの怖い姐さんが何だって?」
「月瑛さんも、少なからず獅伯さんとその剣に興味をお持ちみたいでしたよ。ただ、あの人はしばらく
「……さっさと合流してあいつを引き取ってほしいもんだ」
「またそんな悪ぶって……」
「あんたはそういうけどな、あんただっておれからすれば、あいつと同類なんだぞ? 何か面倒なことがあったら、あんたやあいつを守るのはどうやったっておれの仕事になるんだからな」
がしゃっと剣を鳴らし、獅伯は先生に詰め寄った。
「――要するに、おれひとりならさっさと逃げたりかわしたりできる面倒ごとに、あんたらのせいで巻き込まれて、それだけ危ない橋を渡ることになってるんだ。もしおれが志なかばで死んだらどうしてくれる?」
「そ、そんな大袈裟な……獅伯さんほど強い剣士がそう簡単にやられたりなんてしないでしょう……?」
「確かにおれは強いけど、だからって無敵でも不死身でもないんだ。これからのおれは、もっと謙虚に用心深く生きる。もう余計なことには首を突っ込まない」
「いやぁ……無理だと思いますけどねえ」
「ふん。いってろ」
先生の背中を叩いて自分の前に押し出し、獅伯は桂花殿に向かった。董夫妻の目が届くところでは、文先生が兄、獅伯が弟という体で演技しなければならない。
「よくぞいらっしゃいました。ご足労いただきありがとうございます」
獅伯たちを出迎えた董夫妻の夫――
一方、その後ろに控えていた妻の
「いえ、こちらこそお招きありがとうございます、董大人。
慇懃に一礼した文先生は、夫妻に獅伯を紹介した。
「こちらは私の弟、文獅伯と申します。私と違って若い頃から剣を好み、屋敷を飛び出して放蕩三昧、父にさんざん苦労をかけてまいりましたが、最近になってようやく戻ってまいりましたので、用心棒代わりに私の旅に同道させた次第でして……」
紹介にかこつけ、先生に好き放題にいわれている気もするが、いまさら腹は立たない。それよりも獅伯は、しおらしく頭を下げながら、離れの中の気配を探るのに神経を集中していた。
一階に客間がふたつ、二階が寝室になっている桂花殿は、広さそのものは
「何はともあれお座りください」
長ったらしいあいさつがようやくすみ、獅伯と文先生は志邦に勧められて卓に着いた。すでに料理の皿がところせましと並べられており、うまそうな湯気を立てている。
「ささ、まずは一献――」
麗宝の酌でそれぞれの杯にあたたかい酒がそそがれ、男たちはそれをひと息にあおった。この宿の酒のうまさはすでに判っているが、だからといって調子よく文先生に飲ませるわけにはいかない。
「董大人」
文先生が続けざまに三杯飲んだところで、獅伯は神妙な表情を作って志邦にいった。
「――せっかくお誘いいただいたのにこのようなことをいうのも何なのですが、実は旅に出る前、父から、決して兄には酒を過ごさせるなといいつけられているのです。というのも、兄は弱いくせに酒が大好きで、宴席での失態は数知れず、私とはまた別の意味で父に苦労をかけてまいりましたので」
「え? あ、いや」
ほんのり顔を赤くした文先生が、慌てたように何かいおうとしていたが、獅伯は卓の下で先生の爪先を踏みつけ、その言葉を封じた。
「吉州どのが? ……とてもそうは見えませんが」
「いえ、ですからたちが悪いのです。酔うと誰彼かまわず絡み、少々学があるからといって聞いてもいない蘊蓄を語り出す始末……ですので、ここはどうでしょう、たとえば兄に三杯お勧めくださるのであれば、そのうち二杯はこの私がごちそうになるということで」
「そうおっしゃるからには、獅伯どのはお強いのですか?」
「私にしてみれば酒は水のようなもの……いえ、むしろ飲めば飲むほど具合のよくなる薬のようなものです。夜通し飲んでも潰れたためしがございません」
これは勝手に放蕩者にしてくれたことへの意趣返しでもあったが、それ以前に、文先生が深酒をして芝居が続けられなくなるのを防ぐためでもあった。実際、先生に一滴も飲ませず、そのぶんをすべて肩代わりして飲んだとしても、獅伯には酩酊しない自信があった。
「……おお、確かにお強いようだ」
獅伯の飲みっぷりを見て、志邦は目を細めて喜んでいる。それが中年男に対する表現として適切かどうかはともかく、その表情は子供のように無邪気だった。
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