第四章 朝靄とともに ~第二節~

 酒の量を制限されたから仕方ないとでも思ったのか、文先生は志邦を相手に李白について熱心に語り始めた。だが、獅伯はくだんの李白という人間が何者なのか知らないし、興味もない。もっぱら文先生が余計なことをいわないように聞き耳を立てながら、酒と料理を楽しむことに専念した。

「さあ、どうぞ、獅伯さま」

 夫が楽しく談笑しているかたわらで、妻の麗宝は椅子に座ることもなく、かいがいしく給仕役に徹している。目ざとく獅伯の杯が空になったのを認めて、酒甕を持って声をかけてきた。

「お手数をおかけします」

「いえいえ。……ところで獅伯さまは剣はどちらで?」

 そう尋ねる麗宝が、酌をしながら、さりげなく獅伯の剣を観察している。おそらくそのせいで気づかなかったのだろう、同時に獅伯のほうでは、麗宝の手を観察していた。手を見れば、その人間が何かしら武術のたしなみがあるかどうか、武器のあつかいに長じているかどうかくらいはすぐに判る。

「おれの剣はどこでどうというような上等なものではありません。世間知らずの若造が見よう見真似で習い覚えたといいますか」

「ご謙遜を……江州からの長旅の間、おひとりでご兄妹を守り通しておられるのでしたら、もはやひとかどの剣士とお呼びしてもよろしいのでは?」

「そうですかね? ……でも、それでいうならそちらも同じなのでは?」

「は、はい?」

「そちらはご夫婦ふたりだけの旅ですよね?」

「あ……いえ、わたしどもは、その――ふ、ふたりでここに滞在しているだけで、道中は屋敷の者が送り迎えをしてくれるので……」

 麗宝はそう答えたが、その時の様子がこれまでの楚々とした彼女のふるまいに似合わず、ひどく狼狽しているように見えた。

「…………」

 その後、一刻ほどしてから、獅伯たちは桂花殿を辞去した。

「なあ」

 提灯を片手に羽仙閣へ戻る途次、獅伯がそういいかけると、同時に文先生が、小さくしゃっくりしながら切り出してきた。

「……ねえ獅伯さん」

「は? あ、ああ、何だよ?」

「妙でしたね、あのご夫妻」

 怪訝そうな顔で桂花殿を振り返り、文先生は酒臭い吐息をもらした。

「何が妙だって?」

「思ったのですが、あの麗宝さんは、ひょっとすると志邦どのの奥方ではないかもしれませんよ?」

「お、先生にしては鋭いな」

「私にしてはってどういう意味ですか?」

「怒るなよ。……おれも今、そういおうと思ってたところだ」

「獅伯さんも?」

「ああ」

 麗宝の手は、明らかに長年剣を使い続けている者の手だった。やはりゆうべ獅伯が目撃した屋根の上の黒ずくめは、彼女で間違いない。道中の送り迎えは屋敷の者が来てくれるといっていたが、実際には彼女が志邦の護衛をしているのだろう。

「――ところで先生はどうしてそう思ったんだ?」

「それなんですが、あの志邦どの、たびたび秋浦しゅうほを訪れるほど李白が好きというわりには、そこまで詳しいわけではないんですよ。知っているには知っているけど、詳しいと胸を張れるほどではないというか」

「いや、おれよりよっぽど詳しいだろ。よくもまああんなにどっかのおっさんの話題が続くと思いながら飲んでたよ、おれは」

「どっかのおっさんじゃありません、唐の時代の大詩人です! かの玄宗に仕え、楊貴妃の前でも――」

「いや、蘊蓄はいいからさ。……で、何だって?」

「要するに、話してみたかぎり、志邦どのはゆかりの地を何度も尋ねるほど李白のことが好きではない。文人のたしなみとして李白を知っているという程度です」

「じゃあ何なんだ? 秋浦を尋ねるってのは見栄か何かでいってるだけか?」

「だからですよ」

 もうすぐ羽仙閣に着くというところで立ち止まり、文先生は声を低く落として獅伯にささやいた。

「実は麗宝さんは、志邦どのが外に作った妾なんじゃありませんか? 嫉妬深い奥方がいるせいでなかなか彼女のもとへ通えない志邦どのは、秋浦へ李白の史跡を訪ねるという名目で屋敷を離れ、途中で落ち合った麗宝さんとこの宿で逢瀬を楽しんでいる――どうです、私のこの推察?」

「あー……そっちは考えなかったな」

「はい? そっちというと?」

「いや、実はさあ」

 獅伯はそこでゆうべの黒ずくめの件を先生に話した。

「――で、それがめぐりめぐって、おれのこの新品の衣の話につながるわけなんだが」

「麗宝さんが妙な小舟とひそかに矢文のやり取り……ですか」

「間違いない。さっき手もとを見て確認したけど、あの女、それなりに剣が使える。たぶん弓も得意なんだろうさ。その上、夜中にこそこそと青風楼を調べてたんだ。……となると、あのふたりが夫婦ってのも怪しい。旦那のほうは完全に武術の心得のない人間だったし、おそらく女はあの旦那の護衛なんじゃないかと思う」

「だとすると、いったい何者なんでしょう?」

「さっぱり見当もつかないが、どっちにしても、さっさとここを離れたほうがいいんじゃないか?」

 うっかり居続けて面倒ごとに巻き込まれては馬鹿らしい。獅伯がそういうと、文先生も渋い顔でうなずいた。

「……そうですね。そのことがなくても長逗留は危険ですよ。料理と酒だけでもかなり値が張る宿ですからね、ここは。蘭芯さんからいただいた路銀、少しずつ節約するつもりでいましたけど、あらかた吐きだすはめになりそうです」

「おれと先生と白蓉と、三人の持ち合わせで足りると思うか?」

「正直いってこういう宿の相場はまったく判りません。いざとなったら、獅伯さんが青霞さんのご機嫌を取って負けてもらうしかないんじゃないですか?」

「おい」

「いっておきますが冗談じゃありませんよ? 本気でいってるんです。もし私に青霞さんのご機嫌を取れるのなら私が喜んでやりますよ」

「……冗談じゃないのかよ」

 うんざり顔で肩を落とした獅伯は、自分たちを呼ぶ声にはっと顔を上げた。

「あれ? 白蓉さん……? 機嫌が直ったんですかね?」

「……そんな単純な話じゃないかもな」

 獅伯は左手に持っていた剣を背負い、提灯を先生に押しつけて走り出した。


          ☆


 シャジャルが育ったのは、雨の少ない熱砂の海の中にある大きな街だったという。そういう土地で育ったシャジャルから見ると、この江南は信じられないほどに水が豊富らしい。滔々とうとうと流れる長江、その周辺に広がる大小の湖沼と小川、青々とした稲が揺れる水田、そしてそこに降りそそぐ雨――目に入る風景のすべてが驚きに満ちているのだと、シャジャルはそういった。

「わたしからするとぉ、砂の海のほうがすごく思えるけど?」

「昼間は暑くて、夜は寒い……それに、海だけど魚はいない」

「あー……住むには厳しいんだ」

 針仕事をしながらシャジャルとおしゃべりをしていた白蓉は、ふと窓の外に視線を移した。

「……遅いなあ」

「獅伯のこと……?」

「えっ? あ、いや、違うよう、ごはんのこと!」

 シャジャルの指摘に白蓉は慌てて首を振った。

「な、何だろうねえ? 先生と獅伯さまが桂花殿に行ってるからって、こっちには食事運ばなくていいとか思われてるのかなあ?」

「……獅伯は、若さまに似てる」

「若さま……? ああ、シャジャルを助けてくれた人の息子さん? 何だっけ、あのすごそうな名前の――」

百眼ひゃくがん魔手ましゅ

「そう、それ! ……でもどうしてそんな名前なの?」

「目がいい……両手で同時に何本も飛刀を投げて、別々の的に当てられる、達人」

「へえ……西域の人も飛刀なんて使うんだね」

 大成こそしなかったが、白蓉にも月瑛と同じ剣の師匠のもとで修行していた時期がある。だから、みずから戦うことはできなくとも、両手で飛刀を投げてそれぞれ違う標的に命中させるのがどれだけ困難なことか、そのくらいのことは理解できた。

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