第四章 朝靄とともに ~第三節~
銀の首飾りをぎゅっと握り締め、シャジャルは目だけを動かして白蓉を見つめた。
「……白蓉は、獅伯が好きか?」
「は、はいっ?」
「ああいう男は、自分から食いついていかないと、駄目。……置いていかれる」
「こっ、子供が何いってるのよう?」
「若さまと獅伯は、似てる」
何も考えていないようで、実はいろいろと考えていること。やろうと決めたことは何があってもやりとげようとするし、そのためにはたったひとりででも平気で前に進もうとすること。強いがゆえに独善的なところがあって、しばしば周囲の人間を振り回すこと、しかし性根はやさしいこと――そういうところがよく似ていると、シャジャルは小さな声でいった。
「若さまは、人をあんまり頼らない。たぶん獅伯もそう。自分が強いから。……だからわたしは、若さまが頼ってくれる人間になりたい。でないと、置いていかれる」
「シャジャル……」
この幼い少女は、そんな思いをかかえて、故郷を遠く離れた異邦の地までやってきた。おそらく白蓉が見てきたものと同じかそれ以上の修羅場を、シャジャルはこの幼さで目の当たりにしてきている。そしてそれは、たったひとりの男のためなのである。
「……あなた、ほんとに一二歳?」
さらに何かいおうとする少女の鼻のところまで布団を引き上げ、白蓉は針と糸を片づけて立ち上がった。
「とにかく、ちょっと行ってごはんの催促してくるから、シャジャルは少し待っててくれる? あと薬湯もあったほうがいいよねえ」
白蓉は一階の窓をすべて閉め、扉にも横木をかけると、誰が来ても絶対に開けないようにシャジャルにいい含め、二階の窓からするりと抜け出した。これなら何かの用事で宿の娘たちがやってきたとしても、勝手に中に入ってシャジャルと鉢合わせることはないし、もし先に獅伯たちが戻ってきたとしても、獅伯なら白蓉と同じように窓から出入りできるから問題ない。
足早に
「……あのぅ」
「あら? 確か……羽仙閣にお泊まりのお客さまでしたわね?」
大きな水盆に色あざやかな蓮の花を飾っていた青霞は、白蓉に気づいてうやうやしく一礼した。
「何かございましたでしょうか?」
この女を前にすると、白蓉はついつい身構えてしまう。声にも刺々しさが出そうになるのをどうにか抑え、白蓉は説明した。
「その……そろそろ食事を運んでもらえないかなって。あと、薬湯も……」
「あら嫌だ、申し訳ございません、まだ用意ができておりませんでしたでしょうか?」
青霞は口もとを袖で隠して驚きの声をあげると、今度は申し訳なさそうに頭を下げ、大きな卓の周囲に置かれた椅子を白蓉に勧めた。
「今すぐ厨房を見てまいりますので、とりあえずこちらでお待ちくださいませ」
「あ、いえ、だったら――」
食事がまだ用意できていないのなら、ひとまずそれを伝えてあとは部屋で待てばいいと思ったのだが、青霞はその場に白蓉を残してさっさと奥に下がってしまった。
「あんまりシャジャルをひとりにしておきたくないんだけどなあ……」
椅子に座った白蓉が足をぷらぷらさせているところへ、宿ではたらく女が熱い茶を持ってやってきた。
「こちらをお召し上がりになってお待ちください」
「あ、どうも……」
ただ食事の催促に来ただけなのに、熱い茶と蜂蜜菓子や果物まで出され、白蓉は恐縮してしまった。これまでの人生、どちらかといえばもてなす側ではたらくことが多かった白蓉は、ここまで歓待されることに慣れていない。
「今、先に薬湯をご用意しておりますので、このままもうしばらくお待ちください。手際が悪くて申し訳ございませんでした」
「いえ、別に気にしてはいないんですけどぉ……」
「ありがとうございます」
ふかぶかと頭を下げて奥へ消えていく女を見送り、白蓉は静かに茶を飲みながら頭上を振り仰いだ。
この広間は青風楼の三階に当たる。客を泊めるのは離れだけという話だから、ここには宿ではたらく男女が住んでいるのだろう。
ただ、あまり人の気配がほとんど感じられず、この青風楼自体が冷たい静けさに支配されているようで、白蓉には何とも居心地が悪かった。
「…………」
白蓉がぼーっとしながら茶をすすっていると、独特な香りとともに、薬湯の碗を乗せた盆を持って青霞が戻ってきた。
「たいへんお待たせいたしました。お食事のほうはもうしばらくかかってしまいますけど、とりあえずお薬だけでも」
「あ、はい」
「それではまいりましょうか」
「えっ!? あ、いえ、いいですよう! 自分で運びますから、食事の用意だけお願いしまぁす!」
いっしょに青霞についてこられると、彼女の前で二階の窓から室内に入るはめになる。白蓉は彼女の手からなかば強引に盆を受け取ると、ひとりでそそくさと青風楼をあとにした。
「お薬だけもらってぇ、もうここを早く離れたほうがいいのかも……」
そんなぼやきを口にしながら羽仙閣に戻ってきた白蓉は、周囲に人目がないことを確認し、盆を持ったまま器用に軒先まで駆け上がって二階の窓から中に入り込んだ。
「お待たせ、シャジャル。ごはんはまだ時間かかりそうだけど、とりあえずお薬もらってきたから――」
そういって三階の寝室に上がった白蓉は、寝台が空なのに気づいて目を見開いた。
「シャジャル!?」
卓の上に薬湯を置き、慌てて一階へと下りてみたが、そちらにもシャジャルの姿はなかった。
「そんな……!」
布団は綺麗にたたまれていて、かすかに残るぬくもりだけが、少し前までここにシャジャルがいたということを物語っていた。
「……!」
しばらく寝台に腰かけて呆然としていた白蓉は、はたと立ち上がり、窓から飛び出して桂花殿に向かって走り出した。
「獅伯さまぁ! 先生!」
もはや彼らの妹を演じることも忘れ、白蓉は明かりも持たずに夕闇の中を走った。
「――どうした!?」
「きゃっ!?」
その闇の向こうから不意に現れた獅伯が、白蓉を抱き止めて尋ねた。
「何かあったのか?」
「しゃ、シャジャルが――いなくなっちゃったんですぅ!」
「何?」
獅伯は目を細め、白蓉を小脇にかかえて大きく飛んだ。橋と回廊によってつながれた順路を無視し、またたく間に羽仙閣へ駆け戻る。
「――いなくなったっていったけど、あんたは何をしてたんだ?」
「な、なかなか食事が運ばれてこなかったのと、それに、薬湯が欲しかったから……」
「ひとりにしたのか?」
「そ、それは……」
「いや、責めてるわけじゃないんだが」
窓から直接三階に入り込んだ獅伯は、白蓉を下ろし、無人の寝台から始めて部屋の中をぐるりと見回した。
「戸締まりはしたんだな?」
「は、はい。出入りは二階の窓から……扉の横木もかけてから出ました」
「とりあえず横木ははずしてやれ。そろそろ先生も戻ってくる」
「は、はい」
白蓉が扉の横木をはずしに一階へ下りると、ちょうど先生が荒い息をつきながら駆け戻ってきたところだった。
「……い、いったい何があったんですか、白蓉さん……? さっき、大声で叫んでたみたいですけど――」
「それが、シャジャルがいなくなっちゃったんですよぅ……」
「え? ど、どうしてです!?」
「判りません……」
「獅伯さんは上ですか?」
「はい」
白蓉と文先生が二階へ上がった時、獅伯はちょうど、窓を開けて露台をぐるりと一周してきたところだった。
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