第四章 朝靄とともに ~第四節~

「あの子は自分で立って動けるくらいにはなってたんですか?」

「それはわたしには何とも……まだ本調子じゃないから寝ててって、わたしが半分無理矢理寝かせてたようなところはありましたけどぉ、本人はきのうよりはずっと元気になってましたし……」

「そうですか……いえ、この部屋に争った形跡がないのがね、どうにも」

 先生はじっと寝台を見つめて何ごとか考え込んでいる。獅伯は露台に通じる窓と扉をすべて閉ざし、先生にいった。

「あの子が自分の意志でここを抜け出したって思うか、先生?」

「ありえなくはないでしょう。いかに私たちが親切に接したところで、シャジャルさんにとっては、ここは右も左も判らない異邦の地です。仲間たちと合流したいという思いがあるのは当然ですよ。私が彼女の立場でも、おそらくそうすると思います」

「お仲間を捜すために逃げ出した、か……」

「で、でも! そういう恐れがあったとしたって、わたしたちといっしょに行動してたほうが、ずっと安全じゃないですかぁ! なのにどうして――」

「シャジャルさんでなければ判りませんよ、そのあたりのことは。……ただ、古来この国には、肌の色が黒い異国人を奴隷として使役し、崑崙こんろんと呼んできた歴史がありますし、実際に彼女はたちの悪い連中にさらわれたわけですからね。それもあって、単に私たちのことを信用できなかったのかもしれませんし」

「そんなぁ……」

「鬱陶しいから泣くな。今はもっとほかに考えるべきことがある」

 鼻をすすって涙をこぼす白蓉の頭をぽんと叩き、獅伯は一階に下りていった。何とはなしに、白蓉も文先生も、彼のあとをついていく。

「どうしたんです、獅伯さん? まだ何か気になることでもあるんですか?」

「……なあ」

「何です?」

「何か臭くないか? 出かける前は感じなかったんだけどさ」

「……いわれてみれば」

 確かに、部屋の空気に前は感じなかった異臭が混じっている気がする。そのことの何が気になるのか、獅伯は鼻をくんくんさせてあたりを調べ始めた。

「――これ」

 卓の下に首を突っ込んでいた獅伯は、何かを見つけて後ろ手に白蓉に差し出してきた。

「これって……!」

 それは、シャジャルがいつも首から下げていた十文字の銀の首飾りだった。どこかに引っ掛けたのか、細い鎖がちぎれてしまっている。

「どうしてここにこれが……? あの子、いつも首にかけてたのに――」

「これはもしかすると……自分で逃げたわけじゃないのかもしれないな」

「は、はい?」

「たとえばおれなら、腹を空かせた虎に追いかけられていても、この剣を落としたら絶対に拾う。おれにとってはそれだけの価値があるからだ。たぶんその首飾りも、あの子にとってそのくらいの価値があるんじゃないか?」

「そうですね……シャジャルさんにとってはとても大切なものだと思います」

「だったらそれを落としてそのまま逃げるってのは考えにくいだろ。首から下げてるものを引っかけて落として、それで気づかないってのもありえないだろうし」

「ですが、もし何者かが強引に彼女を連れ去る際に落ちたのだとすれば――」

「誰がどうやってさらってたっていうんです!?」

「いちいちわめくなって。……これ見ろよ」

 あちこち床を叩いていた獅伯は、卓を脇にのけ、床板の継ぎ目に剣の切っ先をねじ込んだ。

「……何してるんです、獅伯さん?」

「ここ、開きそうだ。取っ手も何もないから開けにくいけど――」

 白蓉と文先生が見守る中、獅伯は切っ先を引っかけ、巧妙に隠されていた観音開きの扉をこじ開けた。

「うぷ……」

 扉の下には人ひとりが余裕で通れるほどの縦穴が口を開けていた。穴の内側には、上り下りのためなのか、手足をかけるための溝が刻み込まれている。

「この臭いはこの穴から立ち昇ってきているようですね……」

「……ちょっと待っててください!」

 白蓉は灯籠を片手に、衣の裾を押さえて穴の中に飛び込んだ。

「…………」

 白蓉の背丈の四、五倍はあるだろうか、縦穴はかなり深く掘られていて、その内側は漆喰で固められていた。ほとんど流れのない淀んだ空気はじめじめしていて黴臭い。縦穴は一番底のところで直角に折れ、水平方向にさらに続いているようだった。

 穴から這い出し、白蓉は青風楼の方角を指差した。

「この穴、一番下で、あっちに向かって曲がってますよう!」

「獅伯さん……いなくなったシャジャルさんは、ここを通ってどこかへ連れ去られたってこともありえるのでは?」

「かもな。今の半病人同然のあの娘なら、暴れたり騒いだりする前に簡単に取り押さえられる。少しばかりどたばたやったとしても、ほかに誰もいないんだったら、その形跡を消すのなんて楽だろうし……」

「この穴はきのきょう掘られたようなものじゃありませんよ。この宿を建てる時に、同時に作られたと考えるべきです。とすると、シャジャルさんをさらったのは――」

 文先生の言葉を最後に三人が押し黙る。その重苦しい沈黙は、宿の女たちが食事を運んでくるまで続いた。


          ☆


 梅花ばいか山荘さんそうから小舟を使って少し行ったところに小さな島がある。島といっても、水面から突き出した高さ五、六丈ほどの岩山のようなもので、“こうせつこうしゅ”ことせつほう先生はその頂上に小さな四阿あずまやをしつらえさせ、いい月が出る夜には、しばしばここでひとり酒を飲んだり、琴を爪弾いたりしていた。

「……きょうは琴の気分ってわけかい」

 竿をあやつっていた天童てんどうが、遠くから聞こえてくる音色に小さく呟く。魁炎かいえんは舳先に背を向けて座る男に低い声でいった。

牙門がもんに加わりたいのであれば、私が貴公の腕前を確かめるのでもよいのだが……後悔はしないか?」

「…………」

 戦いの前だというのに、男は安酒をあおっている。男はすでに四〇を超えているのだろうが、その人生の大半を修行についやしてきた剣士ならではの、静かな殺気がみなぎっていた。

 月に数人、こうして牙門への入門を希望してやってくる剣士たちがいるが、そのうちの何割かは、勝負にかこつけて雪峰先生を倒し、牙門と梅花山荘――すなわちせつ梅会ばいかいのすべてを手に入れようという野望の持ち主だった。もっとも、いまだにそれをなしとげた者はいない。

「先生は気まぐれでいらっしゃる」

「……何?」

 魁炎の言葉の意味が判らなかったのか、男は瓢箪を持つ手を止めて眉をひそめた。

「……相手が入門を希望する者であっても、気まぐれで殺してしまうことがあるということだ」

「なら、あちらも気まぐれで殺されても文句はなかろう」

 膝の上に置いた長剣を撫でつつ、男はほくそ笑んだ。

「……“いっめいおう”も相手にとって不足はないが、それでも“紅雪公主”にはおよぶまい。あすからはこの俺が牙門の掌門として江湖に名を馳せることになる。長年の修練はきょうこの時のためにこそあったのだ」

 男の声には絶大な自信と歓喜の色がにじみ出ている。あるいは大勝負の前に飲んだ酒が、この剣士をやや饒舌にさせているのかもしれなかった。

「……貴公がいいのならこれ以上はいうまい」

「気まぐれで殺されかけた俺からひとつ忠告してやるけどよ」

 天童がどこか楽しそうに口をはさんできた。

「――やばいと思ったら素直に命乞いしたほうがいい。そしたら意外と助けてもらえたりするぜ?」

「おまえは命乞いをして助かった口か?」

「ああ。剣も抜かねえ先生に軽くあしらわれた」

 過去の敗北を平然と笑えるなら、天童はそれを糧にもっと強くなれるだろう。雪峰先生との腕だめしで死なずにすんだのは運がいい。対してこの男は――そういえばまだ名前を聞いていない――そういう運を持っているのか。

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