第四章 朝靄とともに ~第五節~

 小島の桟橋に下り立った魁炎は、岩肌を刻んで作った螺旋階段の先にある四阿を見上げた。

「……先生はあの“だんきんてい”におられる」

「ずいぶんと余裕だな。俺が到着したと判った上で、まだ琴に興じておるか」

「さもなきゃ、先生にとっちゃ、あんたはわざわざ身構えるほどの相手じゃねえってことなのかもな」

 天童の軽口に、男がぎろりとひと睨みする。

「……黙って見ていろ、小僧」

「はいはい、もう口出ししねえよ」

 男は剣を持って階段を登っていく。魁炎と天童は、少し間を置いてそのあとを追った。

「……なあ、魁炎のおっさん」

 天童が低い声で魁炎に耳打ちする。

「どう思うよ、今夜の命知らずはよ?」

「……おまえが最初にここへ来た時は、その若さのせいでものごとが見えない人間がいるのだなと感じたものだが、どうやら年齢は関係ないようだ」

「は?」

「欲望は人に力をあたえるが、同時に目を曇らせもする。あの男は今のおまえより強いが、だからといっておまえのように生き延びられるかどうかは判らん」

「それこそ先生の気分次第ってか?」

「……あの四阿がなぜ断琴亭と名づけられたか、じきに判る」

「はあ? そりゃどういう――」

 怪訝そうな天童の問いを無視し、魁炎は男の動きに注視した。

 侍女たちさえ遠ざけて、雪峰先生は四阿の下でひとり琴を弾いていた。相変わらず剣士とは思えない赤いよそおいが、夜の闇を背負って艶やかさを際立たせている。

 それを目にした瞬間、男は剣を引き抜き、鞘を投げ捨てて走り出した。

「紅雪公主! 俺をあなどった自分の不明を思い知れ!」

「! あいつ、いきなり仕掛けやがった!?」

「別に卑怯でも何でもない」

 突然斬りかかった男を見ても、魁炎は特に何も思わなかった。雪峰先生もそれをとがめはしないだろう。そもそも真っ当な立ち合いでは男に勝ち目はない。

「身近に剣も置かず、座ったままで俺を出迎えるとは――」

 一足飛びに斬りかかった男の声と、そして琴の音色がそこで途切れた。

「……やる前に飽きるってこともあるのね」

 溜息交じりにそうひとりごちた美女の右手が、今の今まで弾いていた琴を男の顔面にめり込ませていた。すでに大きく振りかぶられていた男の剣よりも速く、まっすぐに走った琴がこなごなに砕け散り、断ち切られた弦が異音を放つ。

「……ぶふ」

 空気がもれるような奇妙な呻きをもらし、男は湖に落ちていった。雪峰先生の左の平手が、顔面への最初の一撃だけですでに意識を失っていた男を四阿から叩き出したのである。

「うげ……!」

 無慈悲なまでの瞬殺劇を目の当たりにした天童が、心底嫌そうな声をあげる。魁炎は小さく嘆息し、落ちていた鞘を拾って湖に投げ捨てた。

「魁炎」

 何ごともなかったかのようにふたたびその場に座り、雪峰先生はいった。

「最近はこれと思える剣士に出会えていない気がするの。これからしばらく、入門を希望する者の相手はあなたが務めて」

「はい」

「それともうひとつ」

「何でしょう?」

りん獅伯の剣を奪ってくるよう、雪梅会の全員に伝えてちょうだい」

「剣だけでよろしいので?」

「……どういう意味?」

「林獅伯の首はご所望ではないのかと」

「林獅伯を殺せる人間が、今の雪梅会にどれだけいるの?」

「私は林獅伯を存じませんので、それは何とも……」

「ならこうつけ加えて。林獅伯の首とその剣をともに持ち帰ってきた者に、雪梅会のすべてをゆずると」

「え!?」

 黙って聞いていた天童が頓狂な声をあげた。

「そいつぁ……あ、いや、でもなあ」

 天童は林獅伯の剣の腕をじかに目にしている。魁炎も認めていたしゅんが、片足を失うにひとしいほどの深手を負わされたことを思えば、林獅伯の力はかなりのものと考えるべきだろう。そもそもこの山荘に、史春より確実に強いといえる剣士は数えるほどしかいないのである。

「……承知いたしました」

 雪峰先生が手酌で飲み始めたのを見て、魁炎はきびすを返した。

「な、なあ、おっさんよう」

 慌ててついてきた天童が、肩越しに断琴亭を何度も振り返りながら、困惑の色が窺える口ぶりでいった。

「……さっきの本気かな?」

「気まぐれなところはあるが、先生は嘘はおっしゃらぬ」

「じゃあ、ほんとにあの野郎の首と剣を持って帰れば――」

「行くのか?」

「だ、だってよ……あの小僧とどっちが手強いかっていやあ、間違いなくウチの先生のほうだろ」

「先生を打ち負かすよりは林獅伯を殺すほうが楽か……確かに、先生と林獅伯、双方の腕前を知るおまえがそういうのなら、その判断は正しいのだろうな」

「ああ、確実にな」

 来た時と同じく、天童は小舟に乗るとみずから竿を手にした。

「あんたを山荘まで送ったら、俺はそのまま出立するぜ」

「夜明けも待たずにか?」

「当たり前だろ。ほかの連中を出し抜くには少しでも早く動くに越したことはねえからな。……おまけに、おれはあの野郎の顔も知ってる」

「逆にいえば、おまえも林獅伯に顔を知られている。不意討ちはできん」

「不意討ちなんかするかよ! 勝負はあくまで一対一だ。でなきゃ意味がねえ」

「おまえのこだわりは判るが……ほかの連中もそう考えるとはかぎらんぞ?」

「判ってるよ。同門相手でも平然と毒を盛るような奴らだしな」

 雪峰先生の言葉を聞けば、山荘にいる剣士たちの多くが林獅伯を捜して動き出すだろう。ただ、天童のように、尋常の立ち合いで林獅伯を倒そうと考える者がどれだけいるかは判らない。雪峰が下した命は、あくまでも林獅伯の首と剣を持ち帰ることであって、そのやり方までは指定されていないからである。

「中にはそれこそ毒殺をもくろむ者もいるだろうし、ふたりがかり、三人がかりで倒そうとする奴らも出てくるかもしれんな」

「仲間同士……とはいえねえか、まあ、とにかく足の引っ張り合いがすげえことになりそうだぜ。そこに首を突っ込めねえあんたは、運がいいのか悪いのか……」

「私の目的はあくまで先生を倒すことだ。先生のお立場がどう変わろうと、それだけは変わらん」

「そりゃいいや。あんたが競争相手じゃねえってだけで、俺としちゃあずいぶん気が楽になるからよ」

「…………」

 ふと見ると、湖上にあの男の骸が浮いていた。数日もすれば、水鳥と魚たちの餌となり、いずれ骨だけになって湖底へと沈みゆくだろう。

「……よもや先生は」

「は? どした、おっさん?」

「いや――」

 梅花山荘にいる性根の曲がった剣士たちを一度に粛清するために、雪峰先生はそんな大きな餌をぶら下げたのではないか――ふと脳裏をよぎったそんな妄想を、魁炎はすぐさま振り払った。


          ☆


 その日の夜更け、獅伯はふたたび梁上にあった。

「気が進まないんだが……まあ、先生のいうことにも一理あるしな」

 徳雄に見つかるとまた面倒なことになる。あの大男が近くにいないのを確認し、獅伯は青風楼の最上階の露台まで一気に移動した。

「…………」

 けさ早くに抜け出した窓を開け、今度は逆に部屋の中へと音もなくすべり込む。明かりはなく、わずかな月明かりだけの青い闇と、もはや嗅ぎ慣れた感のある脂粉の香りがあたりに満ちていた。

「……青霞さん? もう寝ちゃってる? ねえ?」

 小さく抑えた声でそっと呼びかける。すると、すぐに寝台のあたりでもぞもぞと何かが動く気配があり、窓から射す月光の下に美女が身を起こすのが見えた。

「あら……いつでもいらしてとはいいましたけど、まさかその日のうちにおいでいただけるなんて」

「あ、違う、そういうのじゃないから」

 妙な雰囲気になる前に、獅伯はかぶりを振って椅子に座った。

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