第五章 彼にとっての蟋蟀 ~第五節~
☆
きのうの晴天から一転して、きょうは朝から空模様がすぐれず、昼すぎからぽつりぽつりと雨が降り始めた。豪雨というほどでもなかったが、人の視線をさえぎり、足音をごまかすにはちょうどいいかもしれない。
「ぐがっ」
「う――!」
月も星も見えない雨の夜、桟橋近くの馬小屋の中で酒を飲んでいた男たちは、すぐそばまで近づいてきた獅伯と月瑛に最後まで気づくことなく、全員がまたたく間に昏倒した。
月瑛の合図でやってきた郭家の若者たちが、無言のまま男たちを縛り上げ、猿轡をかまし、馬小屋の柱にくくりつけていく。そのかたわらで、文先生が川面で揺れる舟を数えてうなずいた。
「……これだけあれば、一度に全員中州に渡れそうですね」
「それはいいけど、本気なのか? 先生なんか来たって役に立たないだろ?」
「もちろん用心棒の相手は獅伯さんたちにお任せするつもりですよ。ですが、青風楼の常連たちの素性を調べるためにも人手は必要ですからね」
聞けば、文先生が自分から忠賢にそう申し出たらしい。臆病な文先生がそんなことをいい出したのは、もしかすると彼なりに、シャジャルのために何かできないかと考えた結果なのかもしれない。
そして、文先生がこういい出したのであれば、白蓉はなおさらだろう。
「捕まってるのは女の子ばっかりなんですよう? そこに剣だの棒だのを持った男の人たちが現れたって、きっと怯えるだけです! だからその子たちのことはわたしに任せてください!」
自信ありげに胸を叩く白蓉が背負っているのは、おそらく腹を空かせているであろう少女たちのために用意した大量の饅頭だった。やる気に満ち満ちた少女から視線を逸らし、獅伯は月瑛を見やった。
「ま、いいんじゃない? いざとなったら自力で逃げられる子だしさ。わたしからすれば文先生のほうが危なっかしいよ」
「あんたがそういうならおれは何もいわないけどさあ……何かあった時もあんたが面倒見なよ?」
月瑛と別行動している間、獅伯はさんざん白蓉の面倒を見てきた。もうこれ以上誰かの生き死にのことで責任を背負い込みたくはない。
「急げ! 気づかれる前に志邦さまと合流するぞ! この雨も明け方までにはやんでしまうはずだ!」
忠賢の指示で五艘の舟に分かれて乗り込み、一同は青風楼に向かった。ただ、馬鹿正直に中洲側の桟橋に向かったのではすぐに見つかりかねない。今回はいったん大きく回り込んで、志邦たちが滞在している
そぼ降る雨に目を細め、獅伯はぼんやりと見えてきた青風楼の影に目を凝らした。わずかにともっている灯籠の明かりは、目印代わりに志邦が桂花殿の軒先に吊るしたものだろう。それ以外には特に目立つ光もなく、青風楼全体が深い眠りにつつまれているかのようだった。
大きく離れることなく、獅伯たちの舟は桂花殿の近くへとたどり着いた。
「兄上! 早く中に入ってください!」
露台に出てきていた麗宝が押し殺した声で忠賢にいった。
「どうやらここまでは、うまく見つからずにことを進められているようですねえ」
桂花殿で待ち受けていた志邦は、慌ててひざまずこうとする忠賢たちを制し、おのおのに少量の酒を勧めた。
「まずは一杯……冷えた身体をあたためながら聞いておくれ」
志邦はみずから描いたとおぼしい青風楼の絵図面を広げ、今夜の策について詳しい説明を始めた。
「……私たちの目的は、あくまでさらわれた娘たちを救い出すことと、それに青風楼一党の捕縛だ」
「確認は取れていませんが、青風楼の広間の下にかなり大きめの部屋らしきものがあるのは判っています。おそらく、さらわれた少女たちが捕らえられているのもそこではないかと」
たびたび深夜に青風楼の周りをうろついていた麗宝が、志邦のあとを受けて続けた。
「――ここも含め、それぞれの離れの地下と青風楼の地下とは、隠し通路でつながっているのだと思います」
「ここにもその通路があるのだな、麗宝?」
「はい。ですので、我々は逆にその通路を使って青風楼に地下から侵入し、少女たちを救い出します」
「それと並行して、私は梁青霞の部屋へ向かおうと思う。もし娘たちを売買した証拠になるようなものがあればそれを押さえたいし、ことによっては、売り飛ばされた娘たちを今からでも捜し出して救えるかもしれないからね」
「それでは、自分は志邦さまといっしょに――」
「ああ、頼む。忠賢と、それに吉州どのにも来ていただきたい」
「それはかまいませんが……で、でも、どうやってそこまで行くのです?」
「……あの女の部屋は青風楼の七階だぜ?」
獅伯は一度ならず青霞の部屋に行ったことがあるが、真っ当に下から階段で登っていったことはない。獅伯たちなら屋根伝いに最上階の露台まで上がっていって、窓から押し入るようなこともできるだろうが、文先生や志邦を連れていくとなるといささか手間がかかる。何よりこの夜更けなら、青霞も部屋で寝ているはずだった。
「ですから、ぜひとも獅白どのには、派手に暴れて人目を惹いてほしい」
「……楽でよかったよ、おれの役回りが」
「用心棒たちや青霞が騒ぎに気づいて青風楼から出てくるのに合わせて、私たちも行動を起こす。青霞が部屋を出たことを確認したら、忠賢が先に上がって上から縄梯子を垂らしておくれ」
「判りました」
「用心棒の数はこちらの三倍はいるだろうが、まあ、そこは助っ人のおふたりの活躍におまかせしよう」
知県という立場を離れても、志邦は多くの小作人をかかえる大地主の息子だそうで、そういう生まれのせいか、やたらと鷹揚で緊迫感のようなものがまったくない。かたわらでささえる麗宝や忠賢は気苦労が多いだろうが、修羅場に慣れていない郭家の若者たちには、一同を指揮する志邦が泰然と構えている姿は、むしろ心強く見えるのかもしれなかった。
「――では、おまえたちのうち五人は麗宝の指示にしたがっておくれ。私のほうにも五人ついてきてもらって、残りの六人は獅伯どのといっしょに――」
「いや、おれはいいよ」
郭家の若者を六人つけるといわれたのを、獅伯はあっさりと断った。
きのう、彼らが稽古しているところを獅伯も目にしたが、正直、命のやり取りをするには未熟すぎる。百歩ゆずって用心棒たちとはどうにか戦えたとしても、ひとたび徳雄か徳甲と対峙してしまえば、六人が一二人だったとしても、またたく間に全員殺されてしまうだろう。
「あの兄弟が出てきたら、たぶん、おれもいちいち助けてやる余裕はないと思う。だったら最初からおれひとりのほうがいい。好き勝手に動けるし」
「しかし……」
「それよりはここに何人か残して、救い出した娘たちを守るのに人手を割いたほうがいい。いざという時に舟に乗せてここから逃がすための備えも必要だろ?」
「ふむ……獅伯どののお考え、至極もっともです。では、麗宝に六人、私に六人つけて、残りの四人はここで待機していてほしい」
「それではまいりましょう」
麗宝は卓をずらして隠し扉を開き、白蓉に灯籠を持たせた。
「あなたは一番後ろからついてきてください。月瑛どのはわたしと先頭を」
「ああ、邪魔な野郎は片っ端から斬り捨ててやるから安心しな」
不敵に笑った月瑛は、ふと思い出したように忠賢を振り返り、
「……なあ忠賢どの、あんたも少しは麗宝どのを見習いなよ。あんた、兄貴のくせに妹より弱いだろ?」
「げ、月瑛どの! 今それをいう必要があるか!?」
顔を赤くして口ごもる忠賢を見て、若者たちの緊張がまた少しほぐれた気がする。
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