第五章 彼にとっての蟋蟀 ~第四節~


          ☆


 大宋の右丞相となったどうが皇帝から全幅の信頼を寄せられているのは、ひとつには彼が皇帝の寵姫の弟だったことと、もうひとつには、彼が先年、鄂州がくしゅう近くまで攻め寄せてきた蒙古軍を撃退したことが挙げられよう。

 もっとも、賈似道の娘婿であるぼんぶんは、前者は事実であるにせよ、後者ははなはだ怪しいと考えている。

 范文虎もまた軍人である。宋兵と蒙古兵の強さ、さらには舅の将としての資質といったものを勘案するに、その功績は賈似道よりもりょぶんとくのほうこそ大きい。賈似道が蒙古を撃退したというのも、要は、蒙古の皇帝モンケ・カアンの急死を受けて急ぎ退却を始めた蒙古軍に対し、賈似道が背後から攻撃を仕掛けただけというのが実情であろう。

 とはいえ、賈似道を右丞相に任じたのが理宗皇帝である以上、誰もそれに異議を唱えることはできないし、何より賈似道の栄達は范文虎の出世にも直結する。不満のあろうはずがない。

 今宵の宴席にやってきた男も、范文虎を通じて賈似道となにがしかのつながりを持とうという輩だった。しかし、范文虎はそれをとがめるつもりはない。范文虎もまた、舅の名前に群がってくる男たちを利用しているからである。

「范将軍」

 いつにも増して蒸す夏の夜、ほどよく酔いが回った男は范文虎が苛立ちを感じるほどに饒舌だった。

「――以前お願いした例の件、どうなっておりますか?」

「ああ……安心しろ、忘れてはいない」

「いえいえ、別に私は、将軍が私との約束をお忘れになったなどとは……催促するようなことを申し上げてしまい、申し訳ございません」

 態度こそ卑屈で慇懃だったが、卓に額を押しつけんばかりに頭を下げたところから范文虎を見上げるその目には、隠しきれない欲望と期待の色があった。

 男はりんあんで米や麦といった穀物や油などをあきなっている。おそらく都でも指折りの豪商といえるだろう。名だたる酒家や妓楼にも出入りしているが、もっとも大口の取引相手は禁軍きんぐん――この范文虎だった。

 といっても、軍に米を納入するのではない。判りやすくいえば、范文虎とこの男がやっているのは糧秣の横流しである。軍の兵士たちが日々口にするはずの米や麦の量をごまかし、浮かせたぶんを男が安価で買い取って転売、范文虎もその見返りに金を受け取るという共犯関係が長く続いている。また、軍が何かしらの食糧を買いつける際に、范文虎が口を利いて男を出入りさせるといったこともあった。

 そうした表沙汰にできないかかわり合いがふたりの間にはあるが、最近、范文虎にはそれがわずらわしく感じられることもあった。

「……狩りをしない人間に狩りの楽しみを理解しろというつもりはないし、狩りをしてみろともいわないが」

 ぺったりと床に這いつくばっている、かつて自分が仕留めた虎の毛皮を見つめ、范文虎は唐突に切り出した。

「俺には貴様の趣味が理解できんな」

「は……?」

「痩せっぽちの小娘の何がよいのだ? 男の餓鬼と変わらんだろう?」

 妻が奥に下がっているのをいいことに、范文虎がずけずけと尋ねると、男は急に首をすくめ、左右をきょろきょろとし始めた。だが、今この部屋にはひとりの侍女もいない。余人に聞かせられない会話が多くなると考えて、最初から人払いはしてある。

「それは……何ともいえませぬが、と、とにかく好きなのです、閣下」

 何を照れているのか、男は媚びるように笑っている。

「私にとっては、女は魚のようなものでして」

「魚?」

「あ、あまりに育ちすぎたものは大味になってしまい、どうも食指が動かぬと申しますか……その点、お、幼い娘は、えもいえぬ手触りと香りがあり、ほんの数年の間だけしか楽しめぬ味わいがあると申しますか……」

「……もういい、聞いた俺が馬鹿だった」

 どうにも理解しがたい好みについて蘊蓄を披歴しようとする男を制し、范文虎は嫌悪感を無理矢理酒で押し流した。もし范文虎に幼い娘がいたら、絶対にこの男を屋敷に招き入れたりしなかっただろう。

 丸々とした雉の腿肉をむしり取って齧りつき、范文虎はやや投げやりにいった。

「近いうちに、これまでとは毛色の違うのが届く予定だ」

「は? 毛色が違う……? とは?」

「何でも西域の娘だそうだ。髪の色は銀、瞳の色は……緑か青だと聞いたな。肌は日に焼けたような色をしているというが、別にかまわんだろう?」

「そっ、それはありがたい! 異国の娘というと、大越あたりの奴隷なら私も手に入れたことはあるのですが、西域となるとさすがにまだ一度も……」

 やたら興奮したように、男は手を震わせながら杯を手に取り、酒を一気にあおった。

「蒙古は西域の国々にまで手を伸ばしていると聞く。蒙古が四川に侵入した折、西域から連れてこられた者もいるのだろうな」

 弓といっしょに飾られた兜を見つめ、范文虎は嘆息した。今でこそこうして自分の屋敷でのんびりすごしていられるが、もしまた蒙古軍が南進を始めれば、范文虎も前線に向かうことになるだろう。

 そしてその時、ふたたびこの屋敷に戻ってこられるとはかぎらない。頭でっかちな文官たちの多くは理解しようとしないが、今の蒙古帝国の強大さは、もはや大宋があらがおうとしてあらがえるものではないのである。いずれ遠からず、この国の人間はすべて、蒙古馬の蹄にかけられ滅びるさだめなのかもしれない。

 ならばこの男のように、あるいは舅の賈似道のように、思い残すことなく好きなことをやり尽くしてから滅びるというのも、実は悪くないのかもしれない。

 この男にとっての少女は、賈似道にとっての蟋蟀こおろぎであり、骨董なのだ。

「実はな」

 雉の骨を皿の上に放り出し、范文虎は身を乗り出した。

「……そろそろ舅どのの誕生日が近い。昨年は唐代のものという触れ込みの白玉の寿山を贈ったのだが、反応を見るに、どうもお気に召さなかったようだ。今年は何を贈ったらよいと思う?」

 賈似道の誕生日には、范文虎は毎年莫大な財貨を贈っているが、それとはまた別に、彼が気に入りそうな品をつけることにしている。今をときめく天下の右丞相には、何を贈ろうとさして喜んではもらえないだろうが、それでも自分の器量を量られるような気がして、迂闊なものは選べなかった。

「た、確か丞相閣下といえば、骨董好きでいらっしゃるとか……」

「そうだな」

「で、では、ぜひ私に選ばせてはいただけないでしょうか?」

「詳しいのか?」

「いささか……」

「……いいだろう。頼むぞ」

 男にそういわせるために、あえてこの話題を切り出したのである。面倒な骨董選びは目利きに任せて、范文虎はそこに蟋蟀の数匹もつけてやれば面目が立つだろう。

 夏の夜風に乗って流れてくる虫の音を聞きながら、范文虎はふと考えた。

 目の前の男にとっての幼い少女、賈似道にとっての蟋蟀――ならば、范文虎にとってのそれは、果たして何なのか。

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