第五章 彼にとっての蟋蟀 ~第六節~
「――んじゃ、おれも行くよ」
火の入った小さな灯籠をひとつ、瓢箪とは逆の腰にぶら下げ、獅伯は桂花殿の三階に駆け上がった。窓を開けて露台に出ると、先ほどより雨のいきおいが弱くなっている。振り仰げば、雨雲の切れ目にわずかに星がちらつくのが見えた。
「まあ、いまさら雨音にまぎれる必要もないしな」
獅伯は桂花殿の屋根から大きく跳躍し、ついこの前まで世話になっていた
「……このへんでいいか」
きょうの風向きでもっとも風下に位置する離れへとやってきた獅伯は、そこが無人であることを確認してから寝室に入り、寝台のそばにあった脚の長い灯台を蹴倒した。皿に満たされていた香料入りの油が、じんわりと布団に染み込んでいく。
そこに腰の灯籠を放り投げて火を燃え移らせると、獅伯は一階へと下りていった。
「それにしても……五〇人? 六〇人? やる前からうんざりするな」
扉の真正面に椅子を置き、そこに陣取って待っていると、やがて出火に気づいた用心棒たちが大声でやり取りしながら近づいてくるのが判った。
「何だってこんな雨の日に火が出るんだよ!?」
「知るか! とにかく早く消さねェと――」
聞き苦しいわめき声とともに扉が開かれた瞬間、獅伯は椅子から飛び上がり、とんぼ返りしながら椅子を蹴飛ばした。
「ごは……ぁ」
「ぶぐっ!?」
真っ先に室内に飛び込もうとしていた男と、そのすぐ後ろに続いていた男が、獅伯が蹴った椅子の直撃を受けて吹っ飛んだ。おそらく胸骨か肋骨あたりが折れ、死にはしないまでも、もうまともに戦えないだろう。
「いちいち数えてくか? ……いや、それも面倒だな」
苦しげに呻く男たちをまたぎ越して外に出ると、両手に桶を持ってやってきた男たちが獅伯に気づいて驚きの声をあげた。
「うわ!? な、何だ、てめえ!?」
「いったいどこから――」
「こっ、この野郎……てめえか、火をつけたのは!?」
獅伯目がけて水を満たした桶が飛んでくる。しかし獅伯はそれをやすやすと受け止め、逆に男に投げ返した。
「ぐふっ」
一〇斤を超える重量物をみぞおちで受け止めた男は、苦悶の呻きをもらしてその場に膝を屈した。
「すぐに鎮火したら陽動にならないだろ」
うずくまる男の背中を踏み台にして大きく飛んだ獅伯は、その後ろに続く用心棒たちに斬りかかった。
「こいつ、この前の……」
後ろの用心棒たちは、すでに手桶を放り出して腰の刀を抜いていた。ただ、それでも獅伯を相手取るにはあまりに遅すぎる。
「前にどっかで会ったっけ?」
「ぐっ」
その答えを聞く前に、男が脳天を割られて倒れる。そこで動きを止めることなく、獅白はほかの男たちに迫った。
「どらぁっ!」
雨粒を跳ね返してひらめいた男たちの刃は空を切り、露台の手摺に食い込んだ。
「……あんたたちみたいな稼業の人間に一番必要な才覚って、たぶん、目の前の相手が自分より強いかどうかを見抜く力だと思うんだよね」
「お――」
「う」
声にならない悲鳴をもらしてほとんど同時に倒れた用心棒たちは、ともに首筋の血管を断たれていた。鮮血が奔流のように噴き出した瞬間、意識を失ってすぐに絶命していただろう。
「――ああっ!?」
刃についた血をぬぐっていた獅白は、聞き覚えのあるだみ声に顔を上げた。
「でっ、て、てめえは確か――あの時の小僧じゃねえがっ!」
「あー……徳雄くん? だっけ?」
「ぎ、き、気安ぐ呼ぶなあ!」
数人の用心棒を引き連れ、あの夜の大男が突っ込んでくる。獅白は露台にめり込んでいた刀を剣先に引っ掛けて宙に浮かすと、徳雄目がけて蹴飛ばした。
「ふんぬ!」
鼻息荒く踏み込んできた徳雄は、でかい図体を低く沈めて刀をかわした。代わりにその後ろにいた用心棒が刀を胸に受けて倒れたが、徳雄はそれをまったく意に介していない。すでにこの大男の意識は、前に恥をかかされた獅伯に意趣返しすることでいっぱいのようだった。
「じねっ!」
「いや、無理」
かすめた板斧の風圧でかぶっていた笠が吹っ飛ぶ。しかし獅伯は目を細めもせず、正確に間合いを見切って徳雄の肩口に剣を振り下ろした。
「んおぉ!?」
左の板斧をかざして獅伯の一撃を受け止めた徳雄は、すかさず右の板斧を振るって獅伯の首を削ぎ飛ばそうとしたが、その刃は何もない空間を薙ぎ払っただけだった。
「この前はあんたのねーちゃんへの遠慮があったからさ」
低い姿勢でくるぶしのあたりを蹴りつけると、徳雄の巨体がわずかにぐらついた。
「ぐぬ――っ」
姿勢を崩した徳雄へ、獅伯の突きが矢継ぎ早に襲いかかる。二丁の斧でどうにかそれを防いでいた徳雄だったが、しのぎきれなかった切っ先が彼の肩や胸、脇腹へ無数の傷を刻み込んでいった。
「ごっ、こ、小うるぜえ! そ、そんなの、ぜんぜん効いてねえし!」
その巨体と無尽蔵の体力、膂力を生かして相手に有無をいわせず粉砕する――小手先の技など無視して上から強引に押し潰すのが徳雄の戦い方だった。ただ、獅伯は先夜の一件ですでにそれを理解している。徳雄の戦い方が通じるのは、文字通り小細工しか使えない、徳雄より体格も腕力もおとる小兵だけだった。
「……姉のほうは悪賢そうなのになあ」
「ねっ、ねーぢゃんを馬鹿にずるなああ!」
「は? おれはあんたを馬鹿にしたんだけど」
「おでのことも馬鹿にずんなああ!」
いったんは片膝をついた徳雄が、滅茶苦茶に斧を振り回しながら立ち上がり、獅伯に襲いかかった。周りの用心棒たちと連携を取るどころか、もはや彼らへの気遣いすらない。
「……もともとそんなもんないか」
「とっ、とくゆ――がっ!?」
「ぐぶふ」
獅伯が徳雄の頭上を飛び越えてあえて用心棒たちの只中に躍り込むと、徳雄もまた律儀にそれを追いかけてくる。血走ったその目は獅伯しか見ていない。自分の斧が、仲間であるはずの用心棒たちを引っかけていることにも気づいていないようだった。
「ごっ、こ、ごろず! じねっ! じんじまえっ!」
「や、やめてくれ、徳雄さん! おっ、落ち着いて――ぎゃっ」
青風楼に通じる橋の上で、さらに四、五人の用心棒が巻き添えを食って倒れたところで、獅白は欄干を蹴って虚空に飛んだ。
「! 逃がざねえぞ!」
目をぎょろつかせ、徳雄が剥き出しの殺気を乗せて左手の板斧を投げつける。激しく唸りを上げて飛んできたそれを、獅伯はわずかな剣先の動きだけでたくみに逸らしてかわし、大上段から徳雄に斬りかかった。
「でめえみてえなちっこい野郎に、やっ、やられるわげねえ! でめえをごろじで、ねーぢゃんに――かーぢゃんにほめてもらうんだあ!」
「……は?」
獅伯の脳裏を疑問がよぎったのは一瞬――迷いなく振り下ろされた一撃は、徳雄がかざした板斧の柄をへし折り、そのまま巨漢の眉間に食い込んでいた。
「て、で、い、いで、ぇ……? へ、ぶ、へぶしゅ――」
傷口からあふれ出た血が大きな口に流れ込み、ただでさえ聞き苦しかった徳雄の声を不気味に泡立てた。
「……力が強くてでかいだけなら熊と変わんないだろ?」
獅伯が繰り出した無数の素早い突きによって、すでに徳雄の板斧の柄にはいくつもの深い傷がうがたれていた。おそらく徳雄はそのことに気づけず、つまりは自分の得物がたやすく折れる状態にあることにも気づかなかったのだろう。
よたよたと後ずさりする徳雄の喉笛を横一文字に薙ぎ払うと、その巨体がゆっくりと仰向けに倒れた。獅伯の周囲にはなおもまだ数人の用心棒たちがいたが、徳雄の最期を目の当たりにしたからか、声もなくただその場に立ち尽くしている。得物を捨てて逃げださないだけましかもしれないが、どのみちこの男たちは、あえて獅伯の邪魔をしようとは考えないだろう。
獅白は濡れた夜気を大きく吸い込んで青風楼を振り仰いだ。
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