第五章 彼にとっての蟋蟀 ~第七節~
「…………」
すでに雨は小降りになっている。橋の向こうの離れはいまだに未練がましく燃え続け、あたりを赤く照らし出していた。
その光を受けてあざやかに輝く瑠璃色の甍を踏んで、青い衣の美女が獅伯をじっと見下ろしていた。
「……やってくださいましたねえ、獅伯さま」
弟の死を間近に目撃したというのに、青霞の声色はいつもと変わらない。蠱惑を含んだまなざしに、獅伯は今の状況もわきまえずにぞくりとしてしまった。
「それにしても、いったんはおとなしく立ち去ったはずのあなたさまが、わざわざこんな夜を選んでまたいらしたのはどういったわけでしょう? まさかわたくしに会いたくなったなんておっしゃるおつもりではないでしょう?」
「あんたに預けていたものと、おれが預かっていたものを交換にきた」
「あら? そんなものございましたかしら?」
「とぼけるなよ」
獅伯は青霞をまっすぐに見返し、梁上へと飛び上がった。
☆
その宿の今夜の泊まり客は、
宿といっても本当にただ雨露をしのげるだけの宿で、当然、食事などというものが出てくるわけもない。それでも、竈くらいなら貸してくれるというのだから、まだ親切な宿といえるのだろう。
調理せずに食べられるものを用意していたのか、あるいは今夜は空腹に耐えることにしたのか、老夫婦はさっさと自分たちの部屋へ下がってしまった。
邦忠が宿の主人から借りた竈で火を熾し、炙った鹿肉を肴にぬるめの酒を飲んでいると、もうひとつの竈のほうで食事の準備をしようとしていた男たちが、何やら難儀しているようだった。この手の宿では煮炊きするための薪も自分たちで持ち込む必要があるが、どうやら彼らはここへ着くまでに雨に降られたらしく、薪が濡れてなかなか火がつかないらしい。
きしむ卓を指でこつこつと叩き、邦忠は男たちに声をかけた。
「俺はもう使わねえから、こっちの竈を使いなよ」
「…………」
邦忠の申し出に、男たちはきょとんとしてたがいに顔を見合わせている。すると、精悍な顔立ちの若者が進み出てきていった。
「ありがたい話だが、いいのか? 薪だってただじゃないだろう?」
「確かにただじゃあねえけどただみたいなもんだ。気にすんなよ。ほっといても勝手に燃え続けて炭になるだけだしな」
「そういうことなら遠慮なく――」
若者が男たちに何ごとか声をかけると、男たちはこちらの竈に移ってきて食事の準備に取り掛かった。
「……おまえさんたちはどこのお人だい? この国の生まれじゃなさそうだが」
若者ははっきりとこの国の言葉をしゃべっていたが、周りの男たちは異国の言葉を口にしている。そもそもさっきかけた邦忠の言葉も理解できていないようだった。となると、よそからやってきた人間ということになる。
若者は小さな甕と碗を持ってきて、邦忠の正面に腰を下ろした。
「俺たちは大食から来た商人だ。判るか?」
「判らねえな。どのみち西だとは思うが」
「そりゃあこの国より東には海くらいしかないからな」
若者は楽しそうに笑い、ちょうど空になった邦忠の碗に酒をそそいだ。
「――あんたはこのへんの人間かい? この国の景気はどんな感じだ?」
「国をまたいで商売する人間が何をいってやがる? 景気がいいわけねぇだろう。へたすりゃあと一〇年もしねェうちに国がなくなるぜ」
若者にそそいでもらった酒をすすり、邦忠は皮肉っぽく笑った。
ふだんは隠者同然の暮らしをしている邦忠も、若い頃には戦に駆り出されて北方で戦ったことがある。今のこの国がいかにあやうい状態にあるか、それなりに判っているつもりだった。
「この国の腑抜けた軍隊じゃ、次にまた蒙古軍が襲ってきた時に勝てるわけがねぇ。もう詰んでんじゃねぇかな、この国は」
「おいおい、せめてこっちがひと稼ぎするまでは潰れないでもらいたいな」
「そういわれてもな」
すでに邦忠には身寄りがいない。親しい人間もほとんどいないから、この国が滅ぼうが生き延びようが、どうでもいい話だった。たとえ宋が蒙古に征服されたとしても、邦忠の生き方が変わることはないだろう。谷川のそばの草庵で日がな一日釣り糸を垂れ、野の獣を獲り、それらを肴に酒を飲む――それが邦忠の暮らしであった。
「何だ、あんたは旅をしてるわけじゃないのか?」
「きょうはこいつを買いにきただけだよ」
自分の背後に置かれた四つの大きな酒甕をしめし、邦忠は軽くおくびをもらした。ふだん山奥で自給自足の隠遁生活をしていても、さすがにこれだけは里に下りてきて買わざるをえない。
すると、もはや顔馴染みともいえる宿の主人が、空いていた卓を布巾で拭きながら笑った。
「その人は月に一度はそうやって酒を買いに近くの村へ来るんだよ。しかもそれ、売りモンじゃなくてみんな自分で飲むぶんだってんだからさ、とんだ酔っ払いだよ。行き帰りによくここへ立ち寄るけど、素面だったためしがねえんだから」
「うるせえな。俺は戦に行った時に受けた古傷の痛みをごまかすために、いつも酔ってなきゃならねぇんだよ。要するに薬だ、薬」
「そうか、あんた、このへんに住んでるのか……」
「だったら何なんだ?」
草庵へ持ち帰るはずの酒をまた一杯、碗ですくってちびちびと飲みながら、邦忠は上目遣いに若者の様子を窺った。
「いや、ちょっと捜してるものがあってな……あちこち旅をしてる人間に会ったら、とりあえず尋ねてみることにしてるんだが」
「なら遠慮しねえで聞けよ。これでも世捨て人になる前はあちこち行ってたんだ」
「そうか? ひとつは……やたら漠然としてるんだが、古いお宝の話だ」
「お宝?」
「それが何なのかは俺も知らん。ただ、昔から東西を行き来する商売人たちの間ではしばしば噂になってたらしい。あんた、それらしい噂を聞いたことはないか? 何かしらの仏像だって話なんだが」
「仏像? ただ仏像だってだけじゃあな……あいにくだが心当たりはねえよ。そもそもこの国にどれだけの寺があると思ってんだ?」
「いや、知らないな」
「俺も知らねェ。ただ、とんでもなく多いってことは確かだ」
確かにこれだけではあまりに漠然としすぎている。本当はこの若者は、お宝とやらについての情報を、もっと何か掴んでいるのかもしれない。ただ、それを今夜この宿で出会ったばかりの邦忠には打ち明けられないと考えたのだろう。さっきまで明るい表情で冗談までいっていた若者が、今はやけに口が重い。
「そうか……」
「さっきひとつっていってたが、ほかにまだ聞きたいことがあるのか?」
「ああ、うん。実はここまで来る途中、連れのひとりとはぐれちまったのさ。生きているのは間違いないんだが……」
「今度はお宝じゃなく人捜しか。――ただなあ」
若者たちの顔立ちは、確かにこの国の人間とは少し違っているようだが、だからといってそこまで大きな違いがあるわけではない。もしその連れとやらも大差ない見た目をしていたのなら、どこかですれ違っても気づかないだろう。
「いや、一度見れば絶対に忘れないはずだ」
若者はかぶりを振り、男たちが焼いてくれた羊の串焼きを豪快に頬張った。
「その子は……まだ一二の娘でな」
「一二? 女の子だと?」
「そうだ。髪は銀色、瞳は青く、肌は俺たちよりももう少し焼けた感じなんだが、とにかく美しい娘だ。――どうだ? 話に聞くだけで目立つだろ?」
「確かにそんな娘を見たら絶対に忘れんだろうが……すまんな。そっちにも心当たりはない」
一応聞いてみるつもりで、邦忠は宿屋の主人のほうを見やったが、主人も心当たりはないらしく、慌ててぶるぶると首を振っていた。
「……あいにくだったな」
「いや、いい。生きていればいつか会えるだろう。俺たちの立ち寄る先はその子も知ってるからな」
「無事だといいな」
「ああ」
邦忠と若者はどちらからともなく顔を見合わせ、酒をひと息に飲み干した。
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