第六章 胸に咲く珊瑚 ~第一節~

 ほとんど空気の流れがない地下の通路には、黴臭い湿った空気が淀んでいる。こんなに空気の悪いところに閉じ込められているのだとしたら、少女たちが病になっていないか心配だった。

「……そろそろ青風楼せいふうろうの真下に達するはずです」

 低く押し殺したれいほうの声も、白蓉はくようたちの足音も、この密閉された空間ではやけに大きく響いて聞こえる。いつ敵に見つかりはしないかと思うと気が気ではない。

「この先で弓矢を構えた敵が待ち伏せてたら一巻の終わりだねえ」

 げつえいが縁起でもない冗談を口にしてひとりで笑っている。確かにこの通路はふたりが並んで戦えるほどの幅がなく、飛んできた矢をかわすのも難しい。ただ、実際にはそういうことがあってもどうにかできる自信があるからこそ、月瑛もそんな軽口を叩いたのだろう。

 その時、白蓉たちの前に続いていた暗く長い通路が、広い空間へぶつかって唐突に終わった。

「こいつは……!」

 月瑛は眉をひそめて灯籠をかざした。

 そこは、天井の低い八角の部屋だった。八つの角に当たる部分には、白蓉たちが走ってきた通路を含めて八本の通路が口を開いている。おそらくこのひとつひとつが、離れと青風楼をつなぐ隠し通路なのだろう。

 そして、通路と通路の間の八つの面には、金属で補強された木製の小さな扉が取りつけられていた。この大きさから見て、たとえ全開にしても大人が立って出入りするのは無理だろう。小柄な人間、さもなければ子供が四つん這いになってようやくくぐれるくらいの大きさしかない。

「月瑛どの! 中に子供が捕らわれています!」

 身をかがめ、扉の上のほうにごく小さく切られていた窓から中を覗き込んだ麗宝が、顔色を変えて月瑛を呼んだ。

「まさか……子供を閉じ込めておく牢獄かい、これみんな?」

「こちらにもいます。かなり弱っているようで……」

 ほかの小部屋を覗き込んだ若者たちが、痛ましげな表情で呟く。

「…………」

 月瑛は自分の唇の前に人差し指を立て、その場の全員に向けて天井を指ししめした。

 低い天井には四角い穴が開いており、この八角の部屋からは、勾配の急な石段によって上がることができるようになっていた。耳を澄ませば、かすかに鎖が鳴る音と、少女たちのすすり泣きにも似た声が聞こえてくる。

「……上にも誰かいる」

 声を押し殺し、月瑛はいった。無言でうなずく麗宝も、すでに得物を抜き放っていた。

「……白蓉」

 天井に向けた視線を逸らすことなく、月瑛は白蓉にいった。

「ここの鍵、はずせるかい?」

「や、やれると思います」

 あまり胸を張っていえることではないが、白蓉は月瑛との旅の途中で、しばしば盗人のようなことをしてきた。作りの簡単な錠前なら、簪が数本あればすぐにはずせる自信がある。

「ならここは任せたよ。わたしらは上の階に向かう」

「四人ここに残って、牢から出した娘たちをすぐに桂花殿へ運んであげて。あとのふたりはわたしたちといっしょに上へ」

「は、はい」

 麗宝の指示でふたたび全員が動き出す。足音を忍ばせて月瑛たちが石段を上がっていくのを見送ると、白蓉は頭から簪を二本引き抜き、一番端の牢獄の扉に張りついた。

「こんなところに女の子を閉じ込めておくなんて――」

 たとえ食事をあたえられていたとしても、こんなにせまくて暗いところに長い間閉じ込められていたら、身体よりも心のほうが先に弱ってしまう。

「――開いた! さあ、早く出てきて! 逃げるよ!」

 扉を開けて白蓉が声をかけても、牢の中でぐったりと横になっていた少女はなかなか立ち上がれないようだった。かろうじて息はあるが、かなり衰弱している。

「ちょっ……ごめんね!」

 牢獄の中に上半身を突っ込み、白蓉は少女をなかば強引に引きずり出した。

「まずこの子、お願いします!」

「わ、判った!」

 ほとんど裸同然の少女をかかえ上げ、郭家の若者は足早に桂花殿のほうへ駆け戻っていった。

「――ぐあっ!?」

 次の錠前をはずそうとしていた時、上の階から野太い断末魔の声が聞こえてきた。続けて少女たちの悲鳴と、何かが転がる騒々しい音――上の階にいた用心棒たちに、月瑛たちが不意討ちを仕掛けたのだろう。

「こっちも急がないと……!」

 シャジャルもこの牢獄のどれかに放り込まれているかもしれない――そう考えると指先が震えたが、幸か不幸か、ここに捕らわれていた六人の少女の中にシャジャルの姿はなかった。

「ここにいないってことは、上に……?」

 助け出した少女たちを郭家の若者たちに任せ、白蓉は階段に向かった。

 手摺もない急な石段を登った先は、下の牢獄よりはましな、しかし決して居心地がいいとはいえない広い部屋だった。一応、寝台や卓、椅子といった調度のたぐいは置かれているが、青風楼の離れにあったようなものとはくらべようもなく粗末で、それだけでここで暮らす人間に対するあつかいのひどさが判る。

 そのがらんとした部屋では、すでに修羅場が繰り広げられていた。

「……っ!」

 月瑛と麗宝の周囲にはすでに数人の男たちが血を流して倒れている。壁に張りつくようにしてへたり込んでいる少女たちは、その惨状を目の当たりにして悲鳴をあげていたのだった。さっきの少女たちのように牢獄に入れられてはいないが、代わりにここの少女たちは、足首に重そうな鎖のついた足枷がはめられている。

「シャジャル!?」

 泣き叫ぶ少女たちの中に、ひとりだけじっと唇を引き結び、まるで何かの機を窺っているかのような表情をしたシャジャルがいた。

「……白蓉?」

 シャジャルのほうでも白蓉に気づいたのか、月瑛たちの戦いから視線を移し、目を丸くしている。

 白蓉は床を這うようにして近くにいた少女のもとへ近づくと、そのやせ細った足首から足枷をはずした。

「……あそこの階段から逃げて!」

「!? てめえ、勝手に逃がしてんじゃ――」

 白蓉の動きに気づいた用心棒が、少女の逃走を阻止するために階段に向かおうとする。が、月瑛がそれをさせなかった。

「女の子の前で口が悪いねえ」

「んぐ――」

 用心棒の後ろ襟を掴んでいきおいよく振り回す。そのまま床に引き倒して胸を踏み抜いた月瑛は、何かに気づいたように顔を上げた。

 天井に開いていた穴から顔を覗かせた男が、梯子を使ってゆっくりと下りてくる。初めてこの青風楼に来た時、白蓉たちを品定めに出てきたあの不気味な男だった。

「表の騒ぎは陽動か……」

「あっ、姐さま! そいつが例の弟のひとりですう!」

「……判るよ、何となくねえ」

「もともと何の縁もゆかりもない娘だったんじゃないのか?」

 ひたりと降り立った男――りょうとくこうは、シャジャルと白蓉を交互に見やり、それから月瑛を見据えた。

「頭数を増やしてわざわざ取り戻しにくるとは……何が目的だ? 金か? 物盗りには見えんが」

「確かに金は欲しいけど、女の子を売り飛ばしてまで稼ごうとは思わないねえ。あんたらといっしょにされちゃ迷惑だよ」

「こっちは娘を高く売るのが商売だ。このまますんなり逃がすわけがなかろう?」

 徳甲は腰の双剣を引き抜き、といって特に構えるようなこともせず、両腕をだらりと垂らして立ち尽くした。

「麗宝どの、こいつはわたしが引き受けるよ。あんたはほかの用心棒と、あとは女の子たちを見てやって」

「ええ!」

「白蓉! こっちの子たちも頼んだよ!」

「は、はい!」

 月瑛と麗宝に戦いを任せ、白蓉は大急ぎで少女たちの足枷をはずしていった。

「余計な真似を――」

 静かな殺意のこもった徳甲のまなざしが白蓉に向けられたが、すぐにそれを断ち切る位置へと月瑛が回り込む。

「できることならあんたの姉ってのとやってみたかったんだけどねえ。えらく強いって話だったし」

「……姉上が相手をするまでもない」

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