第六章 胸に咲く珊瑚 ~第二節~

 徳甲の双剣は、月瑛が背負っている剣よりずっと短かったが、そのぶん、すさまじい速さで走る。左右の手に持った剣をそれぞれまったく別の動きであやつることができるのが、徳甲という剣士の強みなのかもしれない。

「――階段を下りたら男の人がいるから! 守ってくれるから早く逃げて!」

 自由を取り戻した少女たちに逃げ道をしめし、白蓉はシャジャルのもとへ向かった。

「シャジャル!」

「……白蓉」

 深く静かにゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、シャジャルは白蓉に小さく笑いかけた。そっと頬に触れてみても、特に熱くはない。熱は下がっても、まだ充分に体力が回復していないようだった。

「お粥しか、もらえなくて……おなか、空いた」

「ここから逃げたらおなかいっぱい食べられるから! ……ねえ、ここのほかに、女の子たちが捕まってそうなところってあるかなぁ?」

「判らない。……でも、たぶんない」

「え?」

「わたしたちは、ここ。逃げようとした子は、この下に、閉じ込められてる。……一か所に集めておいたほうが、見張り、楽だから」

「……あなた頭いいのねえ」

 シャジャルの答えに感心しながら、白蓉は彼女の足枷をはずして助け起こした。もしシャジャルのいう通りなら、これですべての少女を逃がしたことになる。というより、ほかの場所にまだ娘たちが捕らわれていたとしても、月瑛たちに血路を開いてもらわなければ先には進めない。

「とにかく、いったん戻ろう!」

 白蓉はシャジャルに肩を貸して階段に向かった。

「待て、その小娘だけは置いていけ!」

 逃げようとする白蓉たちに気づいた徳甲が、月瑛のかたわらをすり抜けて襲いかかろうとした。

「あんた、わたしをなめてるだろ?」

「!?」

 間髪入れずに回り込み、月瑛は徳甲の肩口に剣を振り下ろした。それが紙一重でかわされたと見るや、剣を戻すことなく流れのままに身体をひねり、今度は徳甲の脛を狙って蹴りを放つ。

「……足癖の悪い女だ」

 大きく飛びすさって月瑛の剣と蹴りを続けざまにかわしてみせた徳甲は、忌々しげに舌打ちして、ようやく構えらしき姿勢を取った。

 その隙に、白蓉はシャジャルを連れて階段を駆け下りた。

「ほかにまだ捕らわれている少女はいるのか!?」

 桂花殿から戻ってきた若者たちの問いに、白蓉は天井に開いた扉を指差した。

「とりあえずはこの子で最後です! そ、それより早く麗宝さんの応援に行ってあげてください! 上の部屋で戦ってますからぁ!」

「わ、判った!」

 棒をたずさえた若者たちに告げ、白蓉は桂花殿へと続く通路をシャジャルとともに急いだ。

「……どうしたの、シャジャル?」

 ふと気づくと、シャジャルは衣の帯を一本ほどき、束ねて右手に掴んでいる。それに何の意味があるのか判らず、白蓉は首をかしげた。ひとまず窮地を脱したおかげで、そんなことに意識を割く余裕が生まれていた。

「これは……えもの?」

「獲物? 得物?」

「……武器?」

 ややかすれた声でシャジャルが言葉を選んでいる。ただ、いずれにしても意味が通じない。シャジャルが着ている衣は白蓉の着替えで、もともとは蘭芯の屋敷でもらったものである。帯もそこそこ上等な品だが、せいぜいのところ、縄か包帯の代わりにしかならないだろう。

「え~と……摩訶まか、魔訶――」

「え? な、何? 何なの?」

「うまく、説明できない……武器、少し違う。わたしの、ぶ、ぶ……」

 ぶつぶつと呟いているシャジャルをぼんやりと見ていた白蓉は、はっと思い出して懐から銀の首飾りを取り出した。

「そうそう、大事なこと忘れてたぁ! はいこれ、あなたの首飾り、さらわれた時に落としたんでしょ?」

「あ」

「ちょっと不格好かもだけどぉ、ちぎれたところは何とかつないどいたから。……獅伯さまが」

「獅伯……意外に器用」

 細い首に銀の鎖をかけ、シャジャルはどこか嬉しそうに瞳を伏せた。小さな声でつむがれたのは、彼女の生まれ故郷の言葉、神への祈りなのだろう。

 やがて白蓉たちは桂花殿の真下にたどり着き、縦穴を登って室内に戻った。

 決してせまくはないはずの客間には、若者たちの手を借りてここまで逃げ延びてきた少女たちが座り込み、泣くことも忘れて饅頭を食べていた。

「これで全員ですか? いったい何人いるんですぅ?」

「きみが連れてきた子が最後なら……確か一七人だったと思う。そのうちの何人かは、もう岸に運んでいるよ」

 最初に踏み込んできた時には緊張に強張っていた若者たちの顔も、今はずいぶんとやわらかくなっている。とりあえず死なずにすんで安堵しているのだろう。

「シャジャル、悪いけど逃げるのは最後でいい?」

 饅頭をもそもそとかじる少女に茶をそそいだ碗を差し出し、白蓉はいった。病み上がりではあるものの、監禁されていた期間が短かったせいか、シャジャルの体調はほかの娘たちよりもまだましなように見える。それに、中にはシャジャルよりもさらに幼く見える娘もいるし、逃がすとすればそうした少女たちを優先すべきだろう。

「……別にいい、それで」

 実際、シャジャルはほかの子たちよりも食欲も旺盛だった。長い絶食ですぐにはたくさん物が食べられずにいる娘たちをよそに、シャジャルだけはひしひしと食事を続けている。その姿からは、一刻も早く体力を取り戻そうとする執念めいたものさえ感じられた。

「よし……次の子たちだ」

 岸まで娘たちを送り届けてきた若者が戻ってきて、あらたに少女を五、六人、小舟に乗せていく。船頭役がひとり、岸にたどり着いた少女たちを守るためにふたり、そして桂花殿に残るひとり――もう少し人手があればすべての舟を使って一度か二度の往復ですべての少女たちを運べたかもしれないが、いかんせん、ここに待機していた四人の若者たちだけでは、何度も往復せざるをえなかった。

 それでも、次にまた舟が戻ってくれば、シャジャルも乗せてすべての娘たちを逃がすことができるだろう。それが判ると、今度はひとりで囮役をやっているはくのことが心配になってきた。

「……獅伯さま、大丈夫かなあ」

 桂花殿の窓からは、青風楼での戦いの様子は判らない。遠くに赤いちらつきが見えるのは、おそらく獅伯が放った炎だろう。すでに雨は上がり、そのせいか、川の流れる音がやけに大きく聞こえる気がした。

 捕まっていた少女たちを助け出したら、白蓉もひと足先に安全な場所まで逃げるというのが最初からの取り決めだった。必要以上に自分が出しゃばれば、かえって獅伯や月瑛たちの足を引っ張りかねないということは承知していたし、そもそもこんな場所に長居はしたくない。

 ただ、シャジャルたちといっしょに逃げる前に、ほんの少しだけ、獅白の様子を見てきてもいい気がしてきた。

「白蓉――」

 ひとりで五個も六個も饅頭を食べていたシャジャルが、扉のほうへ向かう白蓉を呼び止めた。

「あ、心配しないで。ちょっとだけ、獅伯さんの様子を見てくるだけだから。見たらすぐに戻るし」

「違う、そっちは、駄目――」

「え?」

 白蓉が押し開ける前に扉がいきおいよく開かれた。

「!」

 突然のことに立ち尽くす白蓉の目の前に現れたのは、雨と血でずぶ濡れの、荒い呼吸を繰り返す粗野な男だった。

「こっ、こそこそしてる連中がいると思ったら……が、ガキどもを、逃がす気かよ、てめえら……!」

「あ……!」

「きみ、下がれ!」

 ひとりだけ少女たちの護衛として残っていた若者が、朱塗りの棒を振りかざして男に挑みかかったが、獅伯たちが危惧していた通り、それを日常のこととしてきた用心棒と、稽古でしか武器を手にしたことのない若者との間には、実力でも覚悟でも、あまりに大きな差があった。

「素人が出しゃばるんじゃねえ! 小娘どもを逃がしたら、オレたちが女将に斬り殺されちまうだろうが!」

「うぐ……っ」

 ほんの数合打ち合っただけで若者は二の腕や脇腹に傷を負い、無造作に壁際まで蹴り飛ばされた。それを見て、いったんは静かになっていた娘たちが、食べかけの饅頭を放り出して悲鳴をあげる。

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