第六章 胸に咲く珊瑚 ~第三節~

「……!」

 しばらく呆然としていた白蓉は、近くにあった椅子を両手で掴んで振り上げた。

「にっ、逃げて、シャジャル! 早く!」

「出しゃばるなっていったろうが! 殺すぞ、てめえも!」

「!?」

 白蓉が力任せに叩きつけようとした椅子が一瞬で消えた。用心棒の男が朴刀で薙ぎ払っただけでばらばらに砕け、彼女が握り締めていた背もたれの一部しか残らなかったのである。

「そっちでおとなしくしてろ!」

「きゃっ――」

 男は無造作に白蓉を蹴り飛ばそうとした。だが、男の爪先が白蓉のみぞおちに食い込む前に、その脚首に薄桃色の布が巻きついていた。

「こっ……え? な、何だ、こりゃ……?」

 驚きの表情にいろどられた男の顔が、次の瞬間、苦痛にゆがんだ。

「ぐがっ!?」

 巻きついた布によって足をすくわれ、男は仰向けに転んで後頭部を痛打していた。

「ぐ、ぐぐ……て、てめえ、てめえの仕業か――!?」

「シャジャル……!?」

 男の足首を離れた布が、かすかに風を切る音を残してシャジャルの手元へと戻っていく。それは、先ほどシャジャルが束ねて手にしていた帯だった。

「妙なことしやがって――」

「離れて、白蓉」

 慌てて立ち上がる男を見据え、シャジャルは手首をひねりながらふたたび帯を投じた。そよ風にさえ流されるほどに軽いはずの帯が、少女の手の動きに応じて矢のような速さで虚空を走り、今度は刀を持つ男の右の手首に絡みつく。

「!? ばっ、な、何だ、こりゃ……!」

「うるさい。……声、汚い」

 ぼそりともらしたシャジャルの手がくいっと何かをはじくように動くと、それがそのまま帯に伝わり、もう一度男を床の上に引きずり倒した。

「うごっ!?」

 顔面から床に突っ伏した男が、刀を手放してどうにか立ち上がろうとするところへ、みたびシャジャルの帯が飛んだ。

「むぐほ」

 男の首から顔面にかけて何重にも絡みついた帯が、男の悲鳴をくぐもらせた。

「……こっちは病み上がり。少しは静かにしろ」

 静かに息を吐きだしたシャジャルが大きく手を振ると、帯がほどけるいきおいで男の身体がぎゅるっと回転した。

「……え?」

 すでに男は白目をむいて意識を失っていた。だが、もし目が覚めたとしても、もはや戦うのは無理だろう。よくよく見てみれば、帯が巻きついた足首と手首は完全に折れ、ふつうならありえない角度に曲がっていた。

「シャジャル……あなた、今のって……」

「白蓉」

 シャジャルは帯を腰に巻きつけ、転がっていた饅頭を何個か懐に押し込むと、用心棒が取り落した朴刀を掴んで川に面した露台に向かった。

「助けてくれて、ありがとう。先生と……獅伯にも、お礼、いってくれ」

「え!? ちょ、ちょっと!? どういう意味、それ!? お礼なら自分でいいなよう!」

「わたし、若さまを、捜す」

「それは……わたしが姐さまや獅伯さまにお願いしてあげるから――」

「さよならだ」

 伸ばした白蓉の右手をすり抜けたシャジャルは、手摺を飛び越えて川面に揺れていた小舟に乗り込んだ。

「シャジャル!?」

 まだほんのわずかに雨粒が交じる風が強く吹き寄せてくる。シャジャルは不思議な銀色の髪をなびかせ、もやいづなをほどいて舟を漕ぎ出した。

「どうして!? どうして行っちゃうのよう!?」

「どうしてもだ。……ありがとう、白蓉」

 まだ一二の少女が、故郷を遠く離れた異国の地で、これからどうやって生きていくというのか。同郷の仲間たちを捜すにしても、白蓉たちと行動をともにしていたほうが安全だし都合がいいのに、なぜわざわざたったひとりで行ってしまうのか――。

 白蓉には判らない。納得できない。

「――シャジャル!」

 白蓉は露台へと飛び出し、助走をつけてシャジャルの乗った舟に飛び移ろうとした。しかし、いかに白蓉が軽功の使い手であっても、川面を飛び越えて移動するには、もはやその舟は遠く離れすぎていた。

「……!」

 シャジャルはついに振り返らなかった。振り返ったのかもしれないが、白蓉には見えなかった。桂花殿を離れた小舟はすぐに闇に呑まれ、少女の輝くような金髪ですら見えなくなってしまったのである。


          ☆


 衣の裾で刃についた血糊をあらためて拭き取り、獅伯はひんやりと湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「……なあ、このへんでやめとかないか?」

 釉薬をかけて焼かれた瑠璃色の瓦は、先刻までの雨に濡れてすべりやすくなっている。高い屋根の上から受け身も取れずに転げ落ちれば、いかに体術にすぐれた武術家でも無事ではすまないだろう。

 そんな危険な舞台で対峙したりょうせいに、獅伯はもう一度繰り返した。

「気分的に、できれば女は斬りたくないんだ。おとなしく縛についてくれるとありがたいんだけど」

「ひどいおかた……」

 乱れて額に垂れかかった髪をかき上げ、青霞は呟いた。そんな言葉を紡ぐ女の唇は、月のない夜の闇に毒々しく咲いた赤い花のようだった。

「……獅伯さまとわたくしは一度は枕を交わした仲ですのに、どうしてそんな薄情なことをおっしゃるの? わたくしに死ねと?」

「いや……だからさ、むしろあんたを死なせたくないからおとなしく捕まれっていってるんだよ、おれ? 話聞いてる?」

「獅伯さま、本気でおっしゃってるんですの、それ? わたくしどもがこれまで何をしてきたか、もうご存じなのでしょう?」

「え~と……子供をかっさらってきて売り飛ばしたとか? あとはまあ、たぶんその過程で何人も殺してるよな。当然、あの宿の作りからしたら、泊まり客を襲って追い剥ぎとかもやってるだろうし……ああ、自分でいっといてあれだけど、やっぱ無理か。無理だよな」

「ええ、その通りですわ。わたくしたち姉弟、役人に捕まれば死罪はまぬがれません。なら、あとはもう逃げるしかございませんでしょう? ……それを邪魔しようというのは、つまりはわたしくしに死ねとおっしゃるも同然ではございませんか」

「そういわれるとなあ……」

 確かに彼女たちがやってきたことを思えば、捕らえられた青霞たちがどのような刑に処されるのかはおおよそ想像がつく。皇太子が立てられるだの皇帝にあらたに皇子が誕生するだの、そのくらいの慶事が起こって恩赦でも出ないかぎり、青霞たちの死罪は動くまい。

 それを考えて獅伯が渋い顔をしていると、瓦を軽く鳴らして三歩ほど前に進み出た青霞がいった。

「ここでわたくしに情けをかけるくらいなら……いっそ獅伯さまのほうこそ、わたくしどもといっしょにいらっしゃいません?」

「はあ?」

「何が面白くてあんな頼りなさげな書生や小娘とつるんでらっしゃるのか存じませんけど、どうせ本当のご兄妹ではないのでしょう?」

「あれ、ばれてた?」

「あの西域の少女にそこまでご執心というのはちょっと理解できませんけど……おそらく獅伯さまは金で動くお人なのでしょう? なら、わたくしといっしょに楽しく暮らせると思いますけど」

「確かにお金は欲しいけどさあ……肝心なこと忘れてない? おれ、あんたの弟を斬ったんだよ? その目で見てたよね?」

「ええ。ですから徳雄の代わりをしていただきたいですわ」

 即座にそう答えた青霞の顔に怒りの色はない。血を分けた弟を斬られたというのに、その仇であるはずの獅伯に殺意を向けるどころか逆に仲間に誘おうとする女の考えが、獅伯には理解できなかった。

「冷めてるなあ……要するに、おれにも子供さらって売り飛ばす悪事の片棒をかつげっていってんの?」

「人を斬って日銭を稼いでいらっしゃる今の獅伯さまが、あれこれいえるお立場とは思えませんけど?」

 青霞は口もとを押さえて面白そうに笑った。

「――どこまで行っても、人は誰かを踏み台にしなければ生きてゆけぬものなのです。相手のことなど気遣っていては自分が踏み台にされるだけ……ねえ、獅伯さま。あなたがお好きなそのお腰のものは、そんな浮世のしがらみを忘れるためにあるものなのじゃございません?」

「…………」

 ずっと使い続けている腰の瓢箪にそっと触れ、獅伯は顔をしかめた。

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