第六章 胸に咲く珊瑚 ~第五節~

 その間に徳甲を飛び越えて間合いを広げた月瑛は、ふたつに割れて転がった水盆を一瞥して大袈裟に驚いてみせた。

「へえ……綺麗に割るもんだねえ」

「おまえの頭もじきに――」

 不敵に笑った徳甲の眉間から赤い血の糸が細く静かに垂れ落ち、彼の言葉を途切れさせた。

 徳甲の剣の間合いはおよそ七、八尺――腕の長さと剣の刃渡りから見てそのくらいはある。迂闊にその間合いに踏み込めば、すさまじいいきおいで横殴りの一撃が襲いかかってくるだろう。しかも、それをしのいだとしてもすぐに次が来る。

 しかし、見方を変えれば、あまりに速すぎる剣は途中でその軌道を変えにくいということでもある。ましてや身体ごと回転して斬りつけてくるような大振りな一撃なら、その刹那は自身を守ることなどできない。月瑛は水盆を投じて徳甲の意識を逸らし、その頭上を飛び越えざまに剣を走らせたのだった。

 もちろん、凡百の剣士では徳甲の太刀行きの速さについていけず、実際には反撃するどころか徳甲の剣を避けそこねて死んでいただろう。月瑛にそれが可能だったのは、彼女が“えんぷうぜつえい”だからにほかならない。

「さっきのお返しだよ」

 黒衣の肩の裂けたあたりを軽く手で払い、月瑛は笑った。

「…………」

 生え際にわずかに刻まれた傷そのものは決して深くはない。ただ、一番の急所ともいえる頭に剣を当てられたということ自体が、徳甲にとっては何よりも屈辱だったのだろう。流れる血を手の甲で乱暴にぬぐった徳甲は、その陰鬱な双眸に宿った殺意の炎にさらに怒りの薪をくべ、再度身構えた。

「そもそもの話――」

 左手を腰の後ろに回し、右手一本で握った剣を前に向けてまっすぐに立ち、月瑛は澄まし顔でいった。

「わたしは虎より強いんだよ。虎ですらない蟷螂のあんたじゃ相手にならないって今ので判ったろう? 無駄に命を捨てることはないんじゃないかい?」

「ほざくな、女――!」

 身体を大きくねじり、両腕を広げ、徳甲がもう一度旋回した。

 それに対し、月瑛はほとんど助走もつけず、いきなりすさまじい速さで走り出して徳甲に肉薄した。

「!? 正気か、貴様――今度は飛ばせぬぞ!」

「上に飛ぶとはかぎらないだろ?」

 徳甲の虚を突いて間合いを詰めると、月瑛はその速さのまま、すべり込むようにして傍若無人な旋風の下をかいくぐった。

「ぐ……っ!」

 独楽が不意に失速したかのように、徳甲は左手の剣を床に突き立てて膝をついた。すれ違いざまに月瑛が走らせた剣が、徳甲の太腿を深くえぐっていたのである。徳甲が振るう剣の間合いを正確に見極めていなければ、逆に月瑛のほうが首を飛ばされていたに違いない。

「勝負あったねえ」

 剣をひと振りして切っ先についた血を払った月瑛は、脂汗をにじませて痛みをこらえている徳甲を振り返った。

 軸足に深手を負った以上、もはやこれまでのような動きはできないだろう。足をかばいながらでは、それこそ徳甲は凡百の剣士にすらなれまい。

 それでも徳甲はどうにか立ち上がり、剣を構えた。

「よしなよ。死にたくなきゃ動かないほうがいい」

「……姉上への面目が立たん」

「その姉上とやらも哀しむんじゃないかい、あんたが死んだら?」

「ほざくなといっている!」

 らしくもなく大きな声で叫んだ徳甲が走り出そうとした刹那、ばつっと異様な音がして、徳甲の太腿から真っ赤な血が派手に噴き出した。

「いわんこっちゃない……ぎりぎりのところで寸止めしてやってたのにさあ」

 先ほどの一撃で切れかかっていた大動脈が、徳甲の無理な動きによって完全に切断され、派手な血飛沫をまき散らして出血が始まった。

「お、ぁ……」

 あっという間に足元に赤い池を作った徳甲は、急激な出血のせいで意識が遠のいたのか、ふらりとその場に崩れ落ちた。

「!」

 そのまま倒れ伏すかと思えた瞬間、徳甲の右手から重みのある剣が月瑛の胸目がけて飛んだ。

「もう終わってんだよ! あんたこそ悪足掻きはやめな!」

 不意討ちで投じられた剣をあっさりと打ち返し、月瑛は嘆息した。

「……お」

 倍の速さで返ってきた剣は、やすやすと徳甲の胸を貫通して彼を絶命させた。

「ったく……こいつも死んじまったよ。このぶんじゃ、こいつらの姉ってのを生け捕りにするなんて無理じゃないかい?」

 そうぼやきながら、血糊をぬぐった剣を背中の鞘に納めた月瑛は、かすかな物音に気づいて顔を上げた。

 広間から上の階に続く階段のところに、下着姿の女たちの怯えた顔が並んでいた。いまだに血が流れ続ける徳甲の骸を見て青ざめている。月瑛は彼女たちを安心させようと、いつになくおだやかな声でいった。

「あんたたち、ここではたらいてる女たちかい?」

「は、はい……これは、いったい――?」

「ここの女主人が幼い娘たちをほうぼうからさらってきてここに閉じ込めてるってこと、あんたたちも知ってたんだろ?」

「そっ……」

 女たちは顔を見合わせ、さらに顔を蒼白にさせている。

「そう怯えなくてもいいよ。わたしは知県大人の命でその娘たちを助けにきたのさ。じきに騒ぎは収まるだろうけど、それまであんたらはおとなしく部屋に戻って鍵かけて寝てな」

「わ、わたしたちはどうなるのでしょう?」

「どうせあんたらだって、迂闊なことをしゃべったら殺されるって怯えてたんだろ? 知県大人はそのへんちゃんと判ってらっしゃるから安心しなよ。絶対悪いようにはしないからさ」

 本人から聞いたわけではないが、志邦が彼女たちを粗略にあつかうことはないだろう。彼女たちもまた重要な証言者だからである。

 その時、正面の扉が開いて、凶悪な顔つきの用心棒たちが雪崩れ込んできた。

「こんなとこにもいやがった!」

「女じゃねーか!」

「うっ!? 徳甲さん――」

「は!? どっ……こりゃどういうことだよ!?」

 へたり込むようにして死んでいる徳甲に気づいた男たちは、その骸と月瑛とを見くらべ、驚いたように立ち尽くしている。彼らを束ねていた徳甲が、女相手に後れを取ったとはすぐには信じられないのかもしれない。

「やれやれ……ひと息つく間もないとはねえ」

 月瑛はふたたび背中の剣を抜き放ち、棒立ちになっている用心棒たちのほうへと無造作に歩いていった。

「!? て、てめえ――」

 恐れる気色もなく近づいてきた月瑛を見て、男たちは夢から醒めたように唐突に動き出した。彼らが手にしていた刀の刃が血で汚れていないところを見ると、こちら側にはまだ犠牲者は出ていないのかもしれない。

「自分たちが村とか襲って子供をかっさらうことはあっても、自分たちが寝込みを襲われるとは思ってなかったってかい?」

「がっ!」

 目の前の男が刀を振り下ろすより月瑛の剣のほうがはるかに速い。安物の刀もろとも男の顔面を断ち割り、月瑛は笑った。

「――だったら、自分たちが今夜この場で死ぬなんてことも、思ってもみなかっただろうねえ」


          ☆


 瓦が割れる音が聞こえるたびに、ぶん先生は首をすくめて動きを止めた。

「ちゅ、ちゅうけんどの! 大丈夫ですか、本当に!?」

「……今のところは」

 窓のすぐ脇に身をひそめて外の様子を窺っていた忠賢が、先生をかえりみもせずに緊張気味に答えた。階下に続く階段やほかの窓辺で見張りに立っている若者たちも、みな一様に顔をこわばらせている。

 青風楼の屋根の上で戦っている獅伯がもし敗れるようなことがあれば、青霞はすぐにでもここへ戻ってくるかもしれない。獅伯を倒せる青霞なら、この場にいる男たちを全員、一瞬で戮殺してのけるだろう。青霞でなくても、徳雄や徳甲、あるいは用心棒の数人も踏み込んできたら無事ではすむまい。

 そうと判っているのにただひとりまったく緊張しているそぶりを見せない志邦しほうは、やはりひとかどの人物なのかもしれない。

「本当に頼みますよ、獅伯さん……」

 獅伯の勝利を祈りつつ、文先生は女の寝室の家捜しを続けた。

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