第五章 彼にとっての蟋蟀 ~第一節~

 床に切られた四角い扉をそっと閉め、れいほう志邦しほうは顔を見合わせた。

「我ながら迂闊でしたよ……まさか自分たちの足元に奈落の穴が口を開いていたなんてねえ」

「同感です……もし連中に志邦さまを害する意図があれば、深夜にここを通って刺客を送り込むことも可能だったということですし」

 獅白には動きを見破られ、自分たちが泊っている離れにこんな仕掛けがあることにも気づかなかった。護衛役としては臍を噛む思いである。

「だけど、これは見方を変えれば攻め手としても使えるわけだよ」

「おっしゃることは判りますが、この通路を利用するには、まずはその構造を念入りに調べてからでないと……」

「そんな複雑な構造にはなっていないはずですよ。する意味がない」

 床の隠し扉を閉め、卓をもとの位置に戻した志邦は、ほっとひと息ついて椅子に腰を下ろした。

「――いずれにしても、ここで吉州きっしゅうどのたちとの知遇を得られたのは僥倖だよ。彼らが力を貸してくれるのならきっとうまくいくだろう。ちゅうけんのほうでも人手を集めてくれているだろうし」

 きのうきょう出会ったばかりの人間をここまで信頼し、平然と大事を打ち明けてしまうのも、志邦の度量の広さというよりは危機感の薄さなのかもしれない。ただ、同時に麗宝は、人の能力や性根を見抜く志邦の眼力を信頼してもいる。

 事実、今回の策については、志邦が信頼できると考える人間以外にはいっさい打ち明けていなかったが、これまでとは違ってどこからも露見した形跡はない。いざという時に頼れる人間がごくわずかしかいないという欠点はあるものの、賊にこちらの動きが読まれずにすんでいるのは大きな意味を持つ。

「確かに、うまく策がなってくれないとたいへんなことになりますよ」

 麗宝は溜息交じりに螺鈿の平箱を開け、その中身を志邦にしめした。この宿に来た時にはぎんじょうがみっちりと並んでいたはずなのに、今は三分の一も残っていない。それを見た志邦は、茶をすすりながら不思議そうに首をかしげている。

「……いつの間にそんなに使ったのだろうね? 覚えがないのだが」

「ゆうべ志邦さまが、吉州どのたちの宿代もこちらで払うとおっしゃられたせいじゃありませんか」

「ああ……しかしね、あれはいわば報酬の前払いのようなもので」

「それ以外にも、志邦さまが気前よく特別な酒や料理を注文なさった結果です。上客と見せかけて宿の人間を安心させるという志邦さまのお考えは判りますけど、それにしたって限度というものを考えていただかないと」

「ははは……これはまた父に怒鳴られそうだね」

「笑いごとじゃありませんよ」

 素封家の息子に生まれた志邦には、金銭に執着しない生来の懐の広さがあり、そこは麗宝も好ましいと考えているが、反面、欲にまみれた人間のどす黒い感情にうといともいえる。剣の修業のために実家を離れていた間に、人のそうした部分を何度となく目にしてきた麗宝は、それゆえに志邦の身が案じられ、目が離せないのである。


          ☆


 照りつける陽射しを見上げ、はくは額の汗をぬぐって毒づいた。

「……こんなに坂道を歩くはめになるなら、せめて売り飛ばすのは馬車だけにしとくんだったな」

「あんな馬車じゃろくな金になりませんよ」

「それもそうか……」

「だからいったろ? もっとあのおっさんに吹っ掛けりゃよかったって」

「おふたりとも、愚痴ってる場合じゃないですよう! きょう中にそのお屋敷に着かないといけないんですから!」

「それは判ってますけど、さすがに……」

 青風楼せいふうろうでのいたれり尽くせりな待遇から一転、ゆうべは食事も出ない安宿に泊まり、日が昇る前に出立して、かれこれもう三刻ほど歩き続けている。きょうにかぎって空には雲ひとつなく、強い夏の陽射しが容赦なく三人を照らしていた。

「なあ先生、本当にこの道で合ってるんだろうな?」

「合っていますよ。……志邦どのが嘘をついていなければ、ですが」

「いまさらだけどさ、信じてよかったのか、あのふたり?」

「少なくとも、私たちの宿代は肩代わりしてくれましたからね。ただの噓つきじゃありませんよ」

「気前のいい嘘つきだったらどうするんだよ?」

「……それは考えていませんでしたね」

 ぶん先生は竹筒の水をあおって大きく嘆息し、疲れた笑いをこぼした。

 その時、三人の先頭を歩いていた白蓉はくようが、軽く飛び上がって快哉をあげた。

「獅伯さま、先生! 見えてきましたよう! あれじゃないですかあ!?」

「あー……あれか」

 なだらかな丘の上へと続く道の先に、白い壁に囲まれた屋敷が見えてきた。石城で世話になった劉大人の屋敷よりはずいぶんと慎ましやかだが、それでもこのあたりの庶民が住む家とは思われない。

「あそこが郭家の別邸ですか」

 人間、はっきりとした目標が見えてくると、不思議と枯渇したはずの力がどこからか湧いてくるものである。さっきまで足を引きずるように歩いていた文先生は、これまで飲まずに我慢していた瓢箪の酒に口をつけ、背中の荷物を揺すり上げた。

「おいおい、まだ飲むなよ。酔いが回るぞ?」

「あそこまでたどり着ければ、とりあえず倒れてもかまわないんです。いいじゃありませんか、これで私はもう立ち止まらずに歩き続けられるんですから」

「あれが本当にかく家の屋敷ならそれでもいいけどさ」

 先生の現金さに苦笑した獅伯も、歩調を速めてふたたび歩き出した。

 ゆるやかに登っていく道の両脇には、緑の草葉に朱色の花もあざやかな鬼百合が、おだやかな風に吹かれて揺れている。その風に乗ってただよってくる強い香りに、獅伯は思わずくしゃみをした。

「……で、誰に会えって話だっけ?」

「郭忠賢というかたです。貴池きち県のとうだそうで……」

「きのうのやる気のない役人みたいなヤツじゃないだろうな?」

「それはないでしょう。麗宝さんの実の兄という話ですから」

 あの夜、話を盗み聞きしようとしていた麗宝を取り押さえた獅伯は、そのまま志邦のところへ行き、その正体を問いただした。とう夫妻は彼らがいうような旅行中の素封家そほうかとは思えないという点で、獅伯と文先生の見立てが一致していたからである。

 果たして、獅伯と文先生が詰め寄ると、志邦は驚くほどあっさりと嘘を認めた。男の本名は郭志邦、本人がいうにはこの貴池県のけんだという。

「その知県大人が身分を隠していわくありげな宿に泊まるってのがさあ……本当に知県なのか、あれ?」

「あの時に見せてもらった官印は本物でしたよ。さすがに貴池県の役所から盗み出したものということはないでしょう」

「は? そんなの見て本物かどうか判るわけ、あんた?」

「ええ、そこは私を信頼してくれていいですよ」

 いつになく自信たっぷりな先生とともに、獅伯は白蓉にやや遅れて屋敷の門前へとたどり着いた。

「もしもーし!」

 志邦から預かった書状を懐から出し、獅伯は声高に屋敷の人間を呼ばわった。

「――こちらのご主人からの手紙を預かってきたんだけど、誰かいないわけー? いるでしょー、ねえ?」

「どこかで聞いたことのある声だねえ」

 獅伯が大声でわめくと、ほどなくして、見覚えのある黒衣の女が姿を現した。

「あ」

「姐さま!?」

「久しぶりだねえ」

 吞気に手を振るげつえいを見て獅伯と文先生が固まっている中、白蓉は背負っていた荷物をその場に投げ捨て、いきおいよく姉弟子にしがみついた。

「姐さま~!」

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