第一章 少女たちの受難 ~第四節~

「特に先を急ぐ旅ではありませんけど……もしかして白蓉さん、あのシャジャルって子を連れていこうと思ってるんじゃありませんか?」

「もしかしてじゃなくてそのつもりでしょ、確実に」

 自分の着替えをあたえてそれでさようなら、とはならないだろう。獅伯は道を離れ、流れが澄んでいるところを捜して空の瓢箪と竹筒に水を満たし、大仰に嘆息した。

「けど、そうなるとただ連れてくだけってわけにはいかないだろうなあ。病なんだからどこかで看病しなきゃならないだろうし、医者を呼んで診てもらうか、さもなきゃ薬を買って飲ませるか……どっちにしても金がかかりそうだ。だからさっきいったんだよ、面倒だって」

「それと、獅伯さんは気づきましたか?」

「は? 何?」

「あのシャジャルという少女、珍しい首飾りを下げていました。こういう――十文字の首飾りなんですが」

「ああ……あんたそれを見てたわけ?」

「はい。あれはたぶん、景教徒の持ち物だと思います」

「景教徒?」

「私も詳しくありませんが、確か唐の時代に西域から伝わった教えです」

「へー、初耳だ」

 もともと神仏など信じていない獅伯にとっては、道教でも仏教でもない教えなどほとんど馴染みがない。というより、ここはそれを知っていた文先生の博識ぶりをほめるべきだろう。

「唐の時代には、景教のほかにも明教や拝火教といった西から伝わった教えがいくつもあったんですけど、確か……えーと、唐の末期にやたらと道教かぶれの皇帝が立って、仏教も含め、道教以外のそうした宗教を激しく弾圧したらしいんですよ」

「そりゃまた迷惑な……」

かいしょうの廃仏と呼ばれた当時の騒動は、当事者だった皇帝の死によって終息を迎えたんですけど、どうにか命脈をたもった仏教は別として、景教や拝火教を信仰する者はほとんどいなくなったようです」

「その景教をあの子が信奉してるってこと?」

「西域人や蒙古人の中には、今でもかなりの数の景教徒がいるそうです。ただ、髪の色や顔立ちからして、あの子は蒙古人ではないでしょう。そう考えると、もっと西のほうからやってきたのではないでしょうか」

「何しに?」

「そこまでは判りませんよ。ただ、泉州せんしゅうのあたりなら、商売のためにはるばる海を渡ってやってくる西域人は珍しくありません」

「泉州?」

 ある時期より前の記憶がごっそり失われている獅伯にとって、それは初めて聞く地名だった。

「どこよ、それ? ちなみにここから遠いの?」

「ここから南に一〇〇〇里……では足りないですね。たぶんもっと遠いです」

「一〇〇〇里って……そこから来たわけ、あの子が?」

「い、いえ、ですから、泉州なら西域の人間もそこそこいるらしいという話をしたまでで、別にあの子が泉州から来たといっているわけじゃありませんよ。……獅伯さんも白蓉さんも、どうして私の話をちゃんと理解してくれないのかな。答えを得るのを急ぎすぎるというか――」

「あんたは賢いんだろ? だったら学のないおれたちに合わせてくれよ」

 悪びれることなく獅伯がそういっているところへ、白蓉の声が飛んできた。

「獅伯さま! 文先生! もう戻ってきてもいいですよぅ! あ、ついでに水も汲んできてくださぁい!」

「いわれなくても汲んでるよ!」

 白蓉の衣に着替えたシャジャルは、相変わらず赤い顔をして眠り続けている。いつから熱が出ているのか判らないが、かなり衰弱しているようだった。

 シャジャルが身にまとっていた薄絹をていねいにたたんでいる白蓉に、ふたたび御者台に座った獅伯がいった。

「――一応聞くけどさ、あんたその子をどうする気なの?」

「え? 逆に獅伯さまはどうするおつもりなんですか?」

 きょとんとする白蓉に、獅伯はさらにいった。

「いや、だってほら……たまたま今夜ここで出会っただけの、おまけにどこから来たのかも判らない子だよ? おれたちにこの子を助けなきゃいけない理由とかある? ないじゃん?」

「獅伯さま、どうしてそんな冷たいこというんですかあ!」

「出会う行き倒れをいちいち助けてたら身がもたないよ。行き先は特に決まってないっていったって旅は旅なんだ、他人を助けてる余裕なんかない」

「こうして実際に目の前で苦しんでる子供がいるっていうのに、それを見捨てるっていうんですか、獅伯さまは!?」

「いや、そっちのいうことが正論ってのは判るんだけどさあ――」

「獅伯さま!」

「まあまあ白蓉さん。病人が寝てますから」

 柳眉を逆立てて激昂する少女をなだめて静かにさせた文先生は、意味ありげな笑みを浮かべて獅伯にいった。

「大丈夫ですよ。口ではこんなことをいっていても、結局のところ、獅伯さんは困っている人を見捨てられないたちなんです。でなきゃせきじょうらんしんさんを救ったりしてませんし、私だって今頃は命はなかった」

「……あのお嬢さんを助けたのはその場の流れとか、あとは金のためであって、先生の場合はただのついでだよ。人を善人みたいにいうな」

 誰かにそういうことを指摘されるのは獅伯にとって面白いことではなかったが、相手が文先生となると余計に腹が立つ。できることなら今すぐそのしたり顔を殴ってやりたかった。

「いや、さっき獅伯どのもいっていたように、あなたのその剣の鞘に刻まれた文字を、この少女が読めるという可能性は捨てきれませんよ。それに、よしんばこの子に読めなかったとしても、うまくこの子のお仲間に出会えれば、何かしらの手がかりが得られるかもしれません」

「……まさかそれ、南に一〇〇〇里走れっていってる?」

「いえ、まずはこの子を落ち着いて治療できる場所を捜すべきでしょう。手がかりに死なれては獅伯さんも困るのでは?」

「…………」

 道義がどうのだの、実はいい人だの何だの、そんなふうないい方をされるとついつい反感が頭をもたげてくるが、自分の過去につながる細い糸だといわれれば、この少女を助けてやってもいいという気がしてくる。それさえも、自分の性格を見抜いた文先生のたくみな策のように感じなくもないが、しかし、この時の獅伯はあえてそれに乗ってやることにした。

 獅伯が一方的に無言で馬車を走らせ始めると、文先生は荷台から御者台のほうに這いずってきて、獅伯の隣に腰を下ろした。

「……海路を使って泉州経由で来たという可能性のほかには、陸路で北方から連れてこられたとも考えられますね」

「は? あの子、西域の人間なんだろ? なのにどうして北から来るわけ?」

「今の蒙古は西域にも版図を広げていると聞きます。ですから、征服された土地の娘が奴隷として売り買いされ、蒙古軍の侵攻に合わせてこの国にやってきたということもあるかもしれません」

「要するに、蒙古兵に連れられてこの国に来たはいいけど、退却していく軍に置いてかれたってこと?」

「その可能性もありますというだけの話です。軍といっしょに北から来たか、さもなければ西域の商人に連れられて泉州経由で南から来たか……あの子が回復したら、詳しい話を聞いてみましょう。私も異国の話には興味があります」

「まず医者か薬屋を捜すのが先決だと思うけどな」

 またたく北辰を基準に見れば、川沿いのこの道はおおむね東へ向かって伸びている。おそらくかたわらを流れるこの川も、いずれどこかで長江と交わるのだろう。

 獅伯が眠い目をこすってかたわらを一瞥すると、すでに文先生はかくんかくんと首を揺らしながら寝こけていた。荷台の白蓉も、震える少女を抱き締めてすでに眠りに就いている。

「……結局寝るのかよ」

 誰も聞いていないぼやきをもらし、獅伯は馬の背に手綱を打った。

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