第一章 少女たちの受難 ~第五節~


          ☆


 遠くから聞き覚えのある琴の音が聞こえてくる。相変わらずせつほう先生は静かな湖を眺めながら、琴を弾きつつ酒を飲みつつ、剣を振るうでもなく日がな一日すごしているのだろう。

 もっとも、一度その雪峰に叩きのめされたことのある天童てんどうは、もはやそれをいいご身分だなと毒づく気にもなれない。雪峰にはそういう日々を送っても許される強さがあると知っているからである。

 そんな奔放な掌門に代わってこの牙門派を束ねているのは、雪峰の年上の弟子、“いっ冥王めいおう”の異名を持つこのおう魁炎かいえんなのだろう。

しゅんもかなりの手練れだったはずだが……あの深手では、もとのように動けるようになるかどうかは怪しいな」

 天童から石城での一件について報告を受けた魁炎は、窓の外を一瞥して嘆息した。

りょのじいさんは、そのまま残って黒灰軍の動きを調べるといってたぜ」

「そうか。そちらはさほど心配していないが」

「そういやじいさんから聞いたんだがよ」

 質実剛健な人柄が表れているのか、魁炎の部屋は飾り気がなく、いっそ質素にも思える。その部屋で魁炎と差し向かいで酒を飲みながら、天童はいった。

「――ウチの先生、何やらいわくつきの剣を捜してるんだってな」

「ああ」

「俺が石城に呼ばれたのは、史春がその剣を見つけたかもしれねえから、いろいろと手伝うためってことだったんだが」

「そうだな」

「あの若いのが持ってたのがその剣なのか?」

「といわれても、私はその若者も、その剣とやらも見たわけではない。そもそも、師父以外にその剣の実物を見た者はいないらしいからな」

「は? そんな雲を掴むような話なのかよ? こりゃ案外、じいさんがいってたことが正しいのかもな」

「呂翁が何だと?」

「いや、先生が牙門派を立ち上げたのは、実は弟子を集めてその剣の行方を捜すためじゃねェかってさ。あんたは何か知らないのか?」

「知らんな。たとえそうだったとしても、私は師父にしたがうだけだ。文句がある者は牙門を離れればいい。師父はそれをとがめたりはしないだろう」

 まともな流派であれば、ひとたび師と弟子の間柄となれば、それをなかったことにするのは簡単ではない。弟子にとって師は父親も同然、その意向に逆らうことなど許されないし、ましてや勝手に弟子を辞めることもできないだろう。

 しかし、そうした武門の伝統を一顧だにしない雪峰が率いる牙門派では、流派内での礼儀や序列などは二の次だった。序列を決めるのは入門の早さではなく本人の強さであり、流派を離れるのも本人の自由であるとされている。

「……まあ、俺も別にいいんさけどよ、そこは」

 天童は手酌でくいくい酒を飲んでいる。肴は瓜の芥子漬けのみ、そこにも魁炎の人柄が出ているような気がした。

「で、それっぽい剣を持ってる若いやつってのがな、えーと、確か……りん獅伯とかいったかな?」

「林、獅伯……若いというが、どれほどだ?」

「俺や史春より若いのは確かだな。ウチの先生と同じくらいか……いや、も少し若いかもしれねえ」

「流派は?」

「実際に戦ったわけじゃねェから俺にゃ判らねェよ。そのへんは史春が元気になったら聞けばいいだろ。あとは……あれだ、昔のことを覚えてねェらしい」

「何も判らんのと変わらんな。――ただ、少なくとも、史春より若く、史春より腕が立つのは確かなわけか」

 魁炎は表情を変えることなく杯を傾け、静かに瞳を伏せた。その顔をじっと上目遣いに見つめたまま、天童は瓜の皿に箸を伸ばした。

「いったい何なんだ、あの野郎は?」

「私が知るはずもないだろう」

「剣のことは? 先生から何か聞いてねェのか?」

「聞いていない。知りたいとも思わん」

 魁炎もまた、手酌で酒を飲んでいる。ただ、それは酒を味わうというより、ただそこにあるものを、長年の習慣か何かで口に運んでいるような、そんなふうに見えた。

「――師父がその剣をお望みなのだとすれば、私はただそれを手に入れようと務めるのみだ」

「滅私奉公もいいがよ、そこまでやって、あんたに何の得があるってんだ?」

 この部屋を見回してみればよく判る。魁炎は奢侈を好むような男ではない。もしそうしようと思えば、魁炎にはもっと判りやすい――たとえば山海の珍味を並べて美酒に酔うだの、美女たちをはべらせるだの――ぜいたくな暮らしも許されるだろう。牙門派で雪峰に次ぐ強さを持つというのは、つまりはそういうことだった。

 魁炎は目を開け、天童にいった。

「……呂翁に何か聞いたか?」

「何かってのは?」

「牙門で生きていくということの意味だ」

「そりゃまあ――油断してると寝首をかかれるぞってこととか、ここで真面目に修行をしようって人間は意外に少ねェってこととか」

「それは間違っていない。実際、ここにはお上に追われて逃げ込んでくるような連中が多いからな」

「だろうなあ」

 凶状持ちの逃げ込む先といえば、ふつうは賊たちが立て籠もる山塞と決まっているが、広い湖に浮かぶこの雪梅山荘もまた、駆け込み先としてはそう悪くない。もちろん、入門が許されずに命を落とすこともありえるが、捕らえられて斬首にされるよりはましなのだろう。

「――要するにそういう連中が、同門になったほかの剣士たちの寝込みを襲ったり毒を盛ったりするんだろ? 先生もあんたもそれはいいわけか? 剣の修業の場にそんな無法者があふれ返ってるってのはよ?」

「先生がどうお考えかは知らないが、私はそれでいいと思っている」

「は?」

「尋常の立ち合いでしか使えない剣をいくら磨こうと意味はない。一対多数であろうと寝込みを襲われようと、そこで生き残れない者は敗者であり、つまりは弱いということだ。もしここで寝首をかかれるようなら、私もそこまでの男ということだろう」

 そう語る魁炎の表情はやはり変わらない。天童は眉をひそめ、箸を置いた。

「俺は剣の腕を磨きたくてここに来たんだぜ? 他人に毒を盛るような臆病モンと陰湿にやり合うために来たわけじゃねェ」

「だろうな。だとすればおまえは不用心すぎる」

 魁炎の視線が天童の前に置かれた杯に向いた瞬間、天童ははっと口もとを押さえた。呂翁にあれほどいわれたというのに、魁炎なら毒など盛らないだろうという思い込みのために、ろくに警戒もせずに杯に口をつけてしまった。

 魁炎は自分の酒甕から自分の杯に酒をそそぎ、

「……私はただ、師父を斬るためにここにいる」

「は?」

「ここで腕を磨き、いつか師父を斬る。が、それまでは師父にお仕えする。私よりも師父のほうが強いのだから、私が師父に仕えるのは当然だ」

 魁炎の告白に、勧められた酒を無警戒に飲んでしまったことへの後悔の念はすぐに消し飛んだ。

「よく判らねぇな……先生を斬るために先生の弟子になったってのか? そもそも先生は、あんたに剣を教えてくれるわけでもねえんだろ?」

「師父の剣がどのようなものか、間近で見るためには必要だろう。たとえばおまえのように、身のほどをわきまえずに師父に挑む入門者は少なくないからな」

「う」

「いってみれば、ここではつねに抜身の刃を突きつけられているようなものだ。そういうところに身を置くことで、私は自分自身を高められると考えている。だから雪梅山荘は今のままでいい」

「いや、だけどよ……」

「今のままで問題ない」

 そう繰り返した魁炎の口から、また驚きの言葉が飛び出した。

「――おまえが石城に行っている間に、私は弟弟子たちを一〇人ほど斬った」

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