第一章 少女たちの受難 ~第六節~

「……え? な、何でだよ?」

「純粋に私に真剣勝負を挑んできた者をひとり、私を追い落とそうと夜討ちを仕掛けてきた者たちを四人、あとは師父のご指示で目にあまるおこないをした者を四……いや、五人か。五人ほど斬った」

「先生のご指示……?」

「ときおりいるのだ。剣の腕をたのみに、そのへんの街で無法をはたらく者がな。師父は弟子同士が争うことについては何もおっしゃらないが、弟子たちが剣士以外の者へ狼藉をはたらくのを好まれない」

「何だよ……冷酷なのかやさしいのか判らねェ御仁だな」

 この山荘では、雪峰の身の回りの世話をする侍女たちをはじめ、剣の心得のない多くの男女がはたらいている。“雪梅会”とは、牙門に属する剣士たちと、牙門をささえる剣士以外の従者たちの集団のことだが、単に雪梅会の人間といった場合は、後者の従者たちのことを指すことが多い。

 そして雪峰は、雪梅会の者たちに――特に若い娘たちに――手を出すことを固く禁じている。この山荘での数少ない掟のひとつといっていい。しばしばその禁を破って雪峰の怒りに触れ、あっさり斬り捨てられる者もいるが、ほとんどの弟子たちは雪峰を恐れてその戒めを守っている。守ってはいるが、しかしそのぶん、山荘を出て外の世界ではめをはずす者も多い――ということらしい。

「そういう不肖の弟子を始末するのもあんたの役目ってわけか?」

「別に私の役目と決まっているわけではない。先生からは、そうした不心得者は斬り捨てておけといわれているだけで、その役割を誰に振るかは私に任されている。おまえが不在でなければおまえに任せてもよかったかもしれん」

「何だよ、それ。一対五なんだろ? 冗談じゃねえ」

「それで返り討ちに遭うならおまえもそこまでということだ。私は気にしない」

「…………」

「冗談だ。今回はそれなりの腕利きが五人だというから、修行のつもりで私が出向いた」

「それも修行かよ」

「おまえは人を斬ったことがあるだろう?」

「……はぁ?」

 魁炎の話はしばしば妙なところへ飛ぶ。この男が何を考えているのかわかりづらいのは、この話し方のせいもあるのかもしれない。

「人を斬ったことがある者と斬ったことがない者の間に大きな差があるのは判るか?」

「そりゃまあ……そうだな」

 人を斬ることと、拳で殴ることとは、似ているようでまったく似ていない。腹に拳を何発叩き込んでも人はなかなか死なないものだが、叩き込むのが拳ではなく刃物であれば、人は呆気なく死ぬ。

 ただ、多くの人間にとって、他人の命を奪うのは簡単なことではない。人を刺す、斬るという行為そのものは単純で、誰にでもできることだが、そのための意志――殺意を持って実際に行動に移ることが難しいのである。

「ほとんどの人間にとって、それは勾配のきつい坂道のようなものだ」

 魁炎は杯を伏せて立ち上がり、小さな中庭に面した扉を押し開けた。先ほどよりも、雪峰が爪弾く琴の音が鮮明に聞こえてくる。日夜血生臭い同士討ちや足の引っ張り合いがおこなわれているこの山荘に、それはあまりにそぐわない音色ともいえた。

「――そういう坂を駆け上がるためにはいきおいが必要だ。技ではなく、心のな」

「心のいきおいってのは、憎しみとか恐れみたいなモンのことか?」

「そうしたものも後押ししてくれるだろう。とにかく初めて人を斬るためには、何かしらの激情に後押しされる必要がある。……だが、一度その坂を越してしまうと、人は意外と慣れてしまうものでな」

「ああ……何となくわかるぜ」

 天童も、自分がもっと若かった頃――剣を手にし始めた頃には、人を殺すことも殺されることも、どちらも恐ろしくて仕方なかった。しかし、初めて人を斬ってからは、その恐れが急速に薄れていったのを何となく覚えている。魁炎がいう慣れとは、つまりはそういうことだった。

「それは見方を変えれば、人の死に対しても自分の死に対しても鈍感になったということだ。それは油断につながりかねない。――だから私はここにいる」

「油断、ねえ……」

「いつ誰が襲ってくるかも判らない場所に身を置き、つねに神経を研ぎ澄ませておく。時にはみずから剣を抜いて人を斬り、自分も斬られれば死ぬのだということを忘れないようにする」

 淡々とそう語る魁炎は、天童に完全に背を向け、しかも丸腰で庭を眺めている。逆に天童の剣はすぐかたわらにあった。もし今この刹那、卓を蹴って一足飛びに魁炎に肉薄して斬りつけたなら、果たしてどうなるのか――。

 天童はふとそんなことを考えたが、自分が魁炎に勝てる姿がどうしても想像できず、軽い苛立ちを溜息といっしょに吐き出した。

「……部屋は地味だが酒はいいよな」

 ぼそりともらし、天童は杯を使わず甕にじかに口をつけて酒をあおった。要するに、魁炎が天童を殺したいと思えば、わざわざうまい酒に毒など盛る必要はない。むしろ魁炎なら自身の技の肥やしにするために、毒より剣を使うほうを選ぶだろう。そう気づくと、一服盛られたかとびくついた自分があまりに滑稽だった。

「……その若者については、史春からも話を聞いた上で師父にお伝えしておこう」

 魁炎は天童を振り返っていった。

「とりあえず、おまえはここで生き延びることだけを考えておけ。おまえの剣の腕には見るべきものがあるが、どうも呑気にすぎるからな」

「ごもっとも、肝に銘じとくよ」

 甕をひとつ空にした天童は、魁炎の甕にも遠慮なく手を伸ばした。


          ☆


 翌朝、獅伯たちが目を覚ました時には、薄曇りの空はすでに明るくなっていた。

「いたたたたた……」

 もともと月瑛とあちこち渡り歩く暮らしをしていたからか、白蓉は野宿も平気でけろっとしていた。むしろ文先生のほうが、屋根のない場所で夜を明かすのが苦手で、いつも目覚めるたびに腰や背中を押さえて顔をしかめている。

 結局、獅伯はあのあと五里ばかり進んだ路傍に大きなかいのきを見つけ、その木陰に馬車を停めた。突然の雨に降られることを考えたからだが、さいわい、湿気はあっても雨は降っていない。

「今夜はちゃんとした寝台で休みたいですね、ほんと……野宿のあとは身体がぎしぎししちゃって」

「そろそろ秋浦だし、たとえ宿が見つからなくても、どこかの民家にお世話になれるんじゃない?」

 他人ごとのように呟き、獅伯は大きく伸びをした。

「そういうことなら早く行きましょう! さあさあ!」

 急に元気になった文先生が獅伯を急かし始めた。ちゃんとした寝床や酒にありつそうだと判ったとたんにこれである。

「それよりもまずはお医者さまですよう!」

 シャジャルに寄り添い、こまめにその汗をぬぐいながら、白蓉が妙に浮かれている文先生をひと睨みする。

「まだこの子の熱は下がってないんですから……」

「薬もいいけどさ、いい加減、おれは腹が減ったよ」

 軽く身体をほぐして御者台に戻った獅伯は、白蓉に右手を差し出した。

「何か食べるもんないの?」

「あるといえばありますけど……」

 白蓉は荷物の中から平たく潰した饅頭を取り出し、獅伯と文先生に手渡した。

「いっておきますけどぉ、それ、最後の饅頭ですからね?」

「最後?」

「はい。それを食べたらもうないです」

「そう聞くとさらに気が重くなりますね。ただでさえのどを通りにくいのに……やっぱり酒がないと」

 文先生はもそもそと饅頭をかじった。

「ぜいたくだな、あんたは」

「まったくですよぅ。そんなこというなら、そのへんの川の水でも飲んでればいいんじゃないんですかぁ?」

「…………」

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