第一章 少女たちの受難 ~第七節~

 長江沿いのこのあたりには、そこから枝分かれした大小無数の川が絡み合うようにして流れている。そこかしこに背の高い葦が豊かに茂っているせいで、うっかりよそ見をしていると、すぐにたがいを見失ってしまいそうだった。

「白蓉さんにいわれたからってわけじゃありませんが、そもそもまだ顔も洗っていませんし、ついでに瓢箪に水を詰めてきますよ」

 文先生が空の瓢箪を揺らしてそう切り出す。獅伯は饅頭をちぎって頬張りながら、

「……まあいいけど、気をつけなよ?」

「何がです?」

「いや、そのへんたぶん――」

 獅伯がそういいかけたところで、道を離れて川岸に向かっていた文先生が、小さな悲鳴をあげて姿勢を崩した。

「わあ!?」

「いってるそばから……」

 葦が茂っているせいで水面が見えず、気づかずにいきなり川に片足を突っ込んでしまったのだろう。わさわさと揺れる葦の向こうから、心底嫌そうな先生の呻き声がもれ聞こえてくる。

「うわ……ちょ、これは――」

「そんなに大騒ぎするほど深くなくない? ほら、早く戻ってきなよ。食べ終わったらすぐに出発するんだから」

「あー……」

 片足を膝までぐっしょり濡らした文先生が、渋い顔つきでとぼとぼと戻ってきた。

「食べかけの饅頭まで落としてしまいました……」

「やらないよ?」

「……誰も分けてくれなんていいませんよ。どうせ私が粗忽者なのが悪いんです」

 いじけたようにぼやいた文先生は、馬車の荷台に這い上ると、自分の荷物の中から地図を取り出して広げた。

「秋浦に着く前に、私はきっと骨と皮だけになってしまうんですよ……人生ってはかないですよね、本当に……」

「辛気臭いなあ」

 聞えよがしに溜息を繰り返す文先生にうんざりし、獅伯は饅頭を頬張って御者台から飛び下りた。

「……仕方ない、魚でも獲ってやるか」

 釣り竿はなくとも、川魚くらい獲ろうと思えば獲れないことはない。少なくとも、人を斬るよりよほど楽な仕事だった。そう思って川に向かおうとした獅伯は、葦の波の向こうに笠をかぶった老人の姿があることに気づいた。

「あ」

「何です、獅伯さん?」

「ほら、あそこ。川をさかのぼってくるじいさんがいるじゃん? もしかしたら近くに村とかあるかもよ?」

「そ、そうですね」

「おーい! そこのじいさん!」

 獅伯と文先生は注意深く葦をかき分けて岸辺に歩み寄ると、ゆるやかな流れに竿を差して川をさかのぼっている小舟の老人に声をかけた。

「おーい!」

「すいません、そこのかた! ちょっとお聞きしたいんですが!」

「……はぁ?」

 ふたりの呼びかけに、老人は笠をかかげて答えた。

「わしにいってるのかい? 何かね?」

「このあたりで一番近い村はどこでしょう? いや、街でもいいというか――と、とにかく、荷物を下ろして休める場所を捜しているんですが」

「このへんに宿のあるような村はないなあ」

 老人は流れの中から竿を引き抜き、北東のほうを指ししめした。

「一番近い街は秋浦だけど、そのくたびれた馬車じゃあ着くのはあしたになっちまうだろうさ。……ただ、あっちのほうに半刻ほど行けば、宿が一軒、あるにはあるよ」

「宿!? ほ、本当ですか!?」

「ああ。広い中州に建てられた、いかにも洒落た感じの宿だよ。――もっとも、金持ちしか相手にしないって話だ。確か青風楼とかいったかな?」

「金持ちしか相手にしない? 何だそれ?」

「それはつまり、宿賃が高いって意味でしょうか?」

「らしいね。どのみちわしらみたいな人間には関係のない話だから、そこまで詳しくは知らんが、出てくる料理ももてなしも、そのへんの宿なんかとはくらべものにならんと噂で聞いたことがあるよ」

 老人の言葉に、文先生は軽く獅伯の袖を引っ張った。

「……そんな高級な宿なら、医者を呼ぶのは無理でも薬くらいあるのでは?」

「先生の場合はまず酒だろ?」

 獅伯に脇腹を小突かれ、文先生は苦笑した。

「判りました! ありがとうございます、ご老人!」

 老人に礼を述べ、ふたりは小走りで馬車のところに戻った。

「ちょっと聞こえたんですけど、近くに宿があるって本当ですかあ?」

「ああ。北東のほうっていってたな。……でもそれって、川沿いのこの道をはずれて進めってことだろ? もしさっきのじいさんが嘘ついてたらどうする?」

「いや、あの老人に私たちをだます理由なんてありますか?」

「だますつもりはなくても、人間、年を取るとボケたりするからなあ」

「矍鑠としたご老人でしたよ? 受け答えもしっかりしてましたし……」

「だいたい、それじゃ獅伯さまは、秋浦に着くまでこの子が苦しんでもいいってっておっしゃるんですかぁ?」

「……おれはただそういうこともあるかもしれないって指摘しただけじゃん?」

 いつしか空をおおっていた雲は厚みを増し、時をさかのぼるかのように暗くなり始めていた。もしここで雨に降られでもしたら、獅伯たちはともかく、熱を出して眠り続けるシャジャルの容体はさらに悪化することになるだろう。

 白蓉の膝を枕に眠り続けるシャジャルを一瞥し、獅伯は手綱を握った。

「……まあ、ふたりがいいっていうならそれでいいけどさあ」

「なるべく静かに、でも急いでくださいね、獅伯さま」

「無茶いうなって……だいたいさ、そんな金持ちしか相手にしないような宿にいきなり行って、おれたち泊めてもらえると思う?」

「お金ならあるじゃないですかぁ」

 三人とも、石城を離れる時に蘭芯からたっぷりと路銀をもらった。その残りと、ゆうべの不躾な男たちから巻き上げたぶんも合わせれば、それなりの宿に長逗留できるだろう。ただ、さっきの老人がいうような宿屋でどれだけの金が必要になるのか、獅伯にはさっぱり見当がつかない。

「なあ先生、実際どうよ? そういう宿って、そんな簡単に泊まれるわけ?」

「あいにくと、私もそういう宿に泊まったことはありませんからね」

「だろ? だいたい、街からそんな離れたところにあって、おまけに金持ちだけしか相手にしないわけじゃん?」

 世の中には立ち入るだけで何十両とかかる妓楼があるという話は、獅伯も剣の師匠から聞いたことがある。そこがどんなところなのか、やはり見当もつかないが、要するに獅伯が危惧しているのは、くだんの宿が人目を避けて建てられた妓楼なのではないかということだった。

 だが、文先生は獅伯の懸念を小さく笑い飛ばした。

「ここが臨安の郊外ならそういう店があってもおかしくはありませんが、さすがにこんな田舎では商売が成り立ちませんよ」

「そういうもんなのか?」

「その昔、開封かいほうの都には、美しい妓女を数百人もかかえた壮麗な妓楼が何軒もあったという話ですが、それはあくまで都に住む羽振りのいい役人や豪商たちを相手に商売ができていたからです。毎晩のように入れ代わり立ち代わり金持ちたちがやってくるような都であればこそ、商売が成り立っていたといえるでしょう。……ですが、このあたりはそもそもそれほど人口が多いわけではありませんからね」

「ひいては羽振りのいい客も少ない、ってわけか……」

「そういうことです。臨安や蘇州そしゅうの近くならまだしも、このあたりでそんな高級な妓楼を構えたところで大赤字ですよ。――ただ、多くの人間が長江沿いに移動するのは事実ですから、路銀に余裕のある旅人を相手にする商売と考えれば、そう悪くはないかもしれません」

「おふたりとも、何の話をしてらっしゃるんですかぁ?」

 声をひそめた男ふたりの会話に、白蓉が怪訝そうな顔で首を突っ込んできた。

「先生のいつもの蘊蓄だよ。何をいっているかはおれには判らないけどさ」

 口から出まかせをいってごまかし、獅伯はあらためて文先生に聞いた。

「――宿の名前、何てったっけ?」

「確か青風楼とかいってましたね」

 文先生はあちこちすり切れた地図をふたたび広げ、

「中州がどうのという話でしたから……かなり川幅のある支流にあるんでしょう。たぶん、そう遠くはないはずです」

「そう願いたいね。でなきゃ雨に降られてずぶ濡れになる」

 空を見上げ、獅伯はぴしりと手綱を鳴らした。

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