第二章 瑠璃色の甍 ~第一節~

 月が雲に隠れた。

 村の広場に焚かれた篝火に薪を足し、げつえいはまた椅子に腰を下ろした。

「せっかくの月見酒だったってのに……」

 篝火のそばに小さな卓と椅子を持ち出し、安い酒をちびちびとなめる。合間につまむのは、猪の干し肉を軽くあぶったものと、去年獲れた銀杏を炒ったもの――ごくささやかな、慎ましやかな肴だったが、貧しく小さなこの村では、これさえもいつかの時に備えてたくわえていた食料の一部なのだろう。

 そんな村人たちの赤心を肴に、月瑛は安酒を飲んでいる。

 そして、ふたたび月が顔を出した。

 遠くから無数の馬蹄の音が近づいてくる。戸数でいえばわずか七つ、四、五〇人ばかりが住むだけの寒村に、時をわきまえず押し寄せてくる人馬の数は――。

「一一……いや、一二人? まあどっちでもいいか」

 縁の欠けた碗をひっくり返して卓に置き、月瑛は剣を背負って立ち上がった。

 黒衣の帯を締め直し、軽く肩を回していると、もはや門とも呼びがたい粗末な村の門の向こうに、松明をかかげた男たちが馬に乗って集まってきた。見立てと少し違って、馬は一二頭だが男たちの頭数は一五、いずれも剣や刀を手にしている。

「何か用かい?」

 腕組みしたまま、月瑛はいった。

「……見た通りの貧乏ったらしい村だ、奪ってくようなモンはないけどねえ」

「女用心棒とは珍しいな」

「よく見りゃいい女じゃねえか……」

「だが売りモンにはならねェぜ? さすがに歳を食いすぎてら」

「は?」

 男たちの言葉に、月瑛は眉をひそめた。

「とにかく、命が惜しけりゃ邪魔立てすんじゃねえ。こっちの仕事がすんだら可愛がってやらねえこともねえからよ」

「……これだから頭の悪い男と話すのは嫌なんだよねえ」

 大仰に溜息をついた月瑛が軽く身体を揺すると、背中の剣が勝手に鞘から飛び出し、音を立ててかたわらの卓に突き刺さった。

「あいにくとわたしは、おとなしく引き下がるなら命までは取らない――なんてことはいわないよ。あんたらみたいなのは、生きてるかぎりは悪事をはたらき続けるんだろうからねえ」

「だったら何なんだ? 多少は剣が使えるみてェだが、女ひとりで俺たち全員を斬って捨てるとかいうんじゃねぇだろうな?」

「へえ、多少は頭が回るヤツもいるじゃないか」

「……ふざけんなよ」

 松明を投げ捨て、ひとりの男が馬ごと前に進み出た。

「江湖に名高い無双の剣魔、“薫風くんぷうけん”とはオレのこと――」

 もったいをつけて腰の剣を引き抜こうとしていた男が、口上の途中で血を吐いて落馬した。

「悪い冗談だろ?」

 卓の上にあった箸を掴んで目にもとまらぬ速さで投じた月瑛は、赤い唇を吊り上げて笑った。

「薫風どころか、臭い口の臭いがここまで届いてるよ。……だいたい、達人の名前を拝借するなら、せめて見た目ぐらいは真似なきゃ駄目だろ? むさくるしい髭を生やした薫風剣なんて聞いたこともないね」

 しかしその月瑛の言葉は、落馬した男の耳には入っていなかっただろう。竹を削って作られた箸がのどからうなじへと突き抜け、すでに男は絶命していたのである。

「こいつ……やっちまえ!」

「そうそう、小汚い男どもには安っぽい口上が似合いだよ」

 月瑛は卓に突き立っていた剣を引き抜き、門をくぐって飛び込んできた男たちに向けて投げつけた。

「ぐあっ!?」

「うぐ――っ」

 月光を跳ね返す剣は鋭く回転しながら大きな弧を描いて男たちを襲い、すぐに月瑛の手に戻ってきた。その刃をどうにか避けようとした者も、避けきれなかった者も、ひとしく馬から落ちて無様な呻き声を上げている。

「顔を出すんじゃあないよ!」

 月瑛のその叫びは、男たちにではなく、粗末な家の中で震えている村人たちに向けたものだった。満足に自分たちを守ることさえできない彼らにとっては、月下の殺戮劇はあまりに凄惨すぎる。特に、幼い子供たちが見るべきものではなかった。

 剣を手にして地を蹴った月瑛は、肩口に傷を負った目の前の男に一気に近づくと、朴刀を抜いて立ち上がろうとする男の胸板を平然と踏みつけた。

「げ、ぶ……」

 男がおびただしい血を吐いても、彼女の衣には一滴の返り血すら飛び散っていない。月瑛の異名は“えんぷうぜつえい”――影さえ残さず風のような速さで走る美女に触れられる者は、天下広しといえどもそうはいないだろう。少なくとも、今宵この場に現れた賊たちの誰ひとりとして、彼女を本気にさせるような腕は持ってはいなかった。

「こっ、この女……!」

 月瑛が片手で振るった一撃を、膝をつきながらもどうにか受け止めて見せた男は、賊の中では強いほうだったといっていいだろう。だが、その男でさえも、次の瞬間にはかざした刀ごと脳天を叩き割られて絶命した。

「はんっ!」

 大袈裟すぎる一刀を小さな動きでかわし、相手の後ろ襟を掴んでぐいっと引っ張る。受け身も取れずに後頭部から地面にめり込んだ男は、頭蓋が割れて動かなくなった。

 次の男は正確に急所を刺されて倒れ、そのあと左右から同時に斬りかかってきた男たちは、剣の柄で胸骨を粉砕され、あるいは手刀で脛骨を折られた。

「まったく――」

 あとになって月瑛が思い返してみれば、この夜、彼女が剣を振るった回数は一〇回にも満たなかった。箸でのどを突かれて死んだ者がひとり、蹴り殺され、もしくは踏み殺された者が三人。殴り殺された者も同じく三名。投げ殺された者はふたり。剣によって殺された者は六名で、最後のひとりは――。

「ばっ……じょ、冗談じゃねえよ……! やってられっかあ!」

 最初に落馬したきり、尻餅をついたまま仲間たちが殺されていくのを呆然と見ていた一五人目の男は、はっと我に返ると、慌てて馬に乗って逃げようとした。

「そいつは不公平だろ? あんたもいっしょに紙銭を焚いてもらいな」

 月瑛は剣先で椅子を引っかけ、くるっと器用に回して男の背中に投げつけた。

「んがっ」

 椅子が砕け散るほどの衝撃をまともに食らった男は、いきおいよく馬から転げ落ち、二度と立ち上がらなかった。

「……最初から抜かなくてもよかったかもねえ……」

 酒甕にわずかに残っていた酒で刃を清め、月瑛は剣を鞘に納めた。

「あ、あの……」

 急に静かになったことに気づいたのか、家々の扉が細く開いて、中から女たちが顔を覗かせた。

「も、もう、終わったので……?」

「ああ。安心していいよ。――ただ、子供たちにゃ見せるんじゃないよ? ちょいとすごいことになっちまったからねえ」

 長く続く蒙古との戦いに男たちを持っていかれたとかいう話で、この村に住んでいる人間のほとんどは女だった。男がいても腰の曲がった老人か、さもなければまだ鎌も持てないような幼子だけである。月瑛がわずかな酒と肴だけで村を守る役目を引き受けたのは、そんな彼女たちを守ってやりたかったからだった。

 月瑛は主人をなくして所在なさげにしていた馬たちをかき集め、門のところへとつなぐと、女たちを振り返っていった。

「一応、わたしがこのまま朝まで番をしてやるからさ。あんたたちはもう寝ちまいな。で、夜が明けたら近くの街のお役人でも呼んで――」

 そこで口を閉ざし、月瑛は眉をひそめた。

 いったんは静けさを取り戻した寒村に、ふたたび人馬が近づいてくる。今度はもう少し数が多そうだった。

「こいつらに仲間がいたとは思えないけど――」

 もう一度身を隠せと女たちに指示し、月瑛は背中の剣にふたたび手を伸ばした。

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