終章 死して残すものは ~第一節~

 どうにか川岸にたどり着いたシャジャルは、舟を乗り捨て、懐から取り出した饅頭をかじりながら歩き出した。

 じきに夜が明ける。瞳の色はともかく、シャジャルのこの髪では、日中に街道を移動するのは目立ちすぎるだろう。当面は人目につかない場所で日中に休み、日暮れから夜明けにかけて移動するしかない。

「…………」

 葦におおわれた川沿いの道を歩いていくと、三叉路に生えた大きな木が目についた。何という木なのかは判らない。少なくともシャジャルの生まれ故郷ではついぞ見かけたことのない木だった。

 シャジャルはするするとその木に登ると、太い枝にまたがり、朴刀を使って樹皮を削り取った。その木は全体的にやや緑がかっていて、樹皮を剥がした部分はさらに白く、闇の中でも目立って見える。

 三寸四方ほどの樹皮を剥がしたシャジャルは、そこに簪で仲間への伝言を刻み込んだ。もし彼女の主人がここを通りかかれば、きっとこれに気づいてくれるだろう。シャジャルの主人はそういう抜け目のない若者だった。

「……若さまなら、大丈夫」

 足を踏みはずして馬ごと谷底に落ちた時、シャジャルが奇跡的に無傷だったのは、岩肌にぶつかることなくそのまま谷川に落ちたからだった。代わりに溺れかけたが、あの時、増水していきおいを増していた川の流れによって、シャジャルは仲間たちを置き去りにして東へ押し流されてしまったのかもしれない。

 これから先、目につく大きな木があれば、あとからそこを通るかもしれない仲間への伝言を残していこう――シャジャルはそう心に決め、木から飛び下りた。

「…………」

 木の根元に座り込んで饅頭の残りを食べていると、東のほうが白み始めてきた。

 シャジャルが――シャジャルの主人が目指すのはあの方角にあるこの国の都、臨安である。ひとまずシャジャルも臨安を目指して旅を続けるつもりだったが、ぼんやりとそれを考えていた時にふと思い出した。

 あの親切な変わり者の三人は、これからどこに向かうのだろうか。

 昇り始めた朝日に向かい、シャジャルは、自分と彼らの旅の無事を神に祈って十字を切った。


          ☆


 船縁から釣り糸を垂れていたげつえいは、白蓉はくようの説明を聞いて肩越しに振り返った。

「――そいつはたぶん、魔訶まか操帯法そうたいほうとかいうやつだよ」

「何です、それ?」

「わたしも実際には見たことないんだけどさ、何でも、やわらかい布を武器として利用する西域の武術らしいよ。布をあやつって相手を締め上げたり振り回したり、わたしらが使う剣とは根本的に違う武術なんだとさ」

「へぇ……はくさんはご存じでしたか?」

「知るわけないだろ」

 月瑛と背中合わせに座り、獅伯もまた川の流れに糸を垂らしている。ただ、ふたり揃って今のところ釣果は小魚三匹、とても四人の腹を満たすほどではない。

 郭家の屋敷に留め置かれること三日、美酒と美食で歓待を受けていた獅伯たちが出立したのは、きょうの朝のことだった。

 獅伯たちが乗っているこの舟も、助っ人の報酬の一部として志邦からもらい受けたものだった。画舫というほど大きくはないが、舟の後ろ半分にはちょっとした屋根が取りつけられていて、強い陽射しや不意の雨を避けられるのはありがたい。

 その日陰の下で書物を読みながら、ぶん先生は溜息をついた。

「あの若さでそんな武術を身につけていたなんて……結局、シャジャルさんて何者だったんでしょうね?」

「さあな。……ただ、何しろあいつのご主人さまは、天下の――え~と、何だっけ? やたらご大層な名前の」

百眼魔ひゃくがんまくんですかぁ?」

「それだそれ。そんな仰々しい綽号あだなを名乗ってるやつに仕えてるってんだから、何かしらの心得があってもおかしくないと考えるべきだったかもな」

 せいがひとかどの剣士だということは見抜けたのに、シャジャルについては何も気づかなかった。獅伯にはそれがどうにも悔しくて仕方がない。

 その思いをごまかすために、獅伯は白蓉をなぐさめるようにいった。

「――ただ、そのくらいの腕前があるなら、ひとりで旅をしててもそう心配する必要はないな。病さえ治ってりゃどうにでもなるさ」

「いずれにしても、ひとまずけりがついてよかったですよ」

「先生はそういいますけどぉ、黒幕? みたいな人は野放しのままなんですよねえ? それじゃ意味なくないですかぁ?」

 白蓉はまるで苛立ちをぶつけるかのように蜂蜜菓子を頬張っている。その菓子も、出立に際して志邦が持たせてくれたものだった。

「確かに青風楼せいふうろうの件には決着がつきましたけど、女の子たちを買ってた人たちはひとりも捕まってないじゃないですか!」

「そこは……白蓉さんのいうことはごもっともなんですが、さすがに今回ばかりは、手を出しかねる相手といいますか」

「そもそもその何とか将軍て、どこの誰なんですかあ?」

ぼんぶんどうの娘婿です」

「はい? 賈似道?」

「今の右丞相です。……判りやすくいうなら、今この国で一番の権力を持った人間ですね。つまり范文虎は、そういう実力者の身内なんですよ。たとえ志邦しほうどのが確固たる証拠を揃えて弾劾しようとしても、范文虎が相手では逆に潰されてしまいます」

「まあ、知県ごときじゃ勝ち目がない相手ってことさ」

 餌をつけ替え、月瑛が溜息交じりに笑った。

「残念ながらその通りです。手の出しようがありません。……ですが、志邦どのは別の方向から調べを進めるとおっしゃっていましたよ」

「別の方向って何ですかあ?」

「今回押収した手紙をもとに、ほかの常連たちの調べを進めるそうです。范文虎には手を出せずとも、彼らのもとへ売り飛ばされた娘たちなら、今からでも救い出せるかもしれません」

 証拠がない以上、その常連たちの罪を問うことはできないかもしれない。ただ、知県の取り調べを受けたとなれば、当分はおとなしくしているだろう。再発を防ぐという意味でも釘を刺しておいたほうがいい。

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