27.お嬢さんの婚約者

 山科俊介は、金を貰うからには仕事はきちんとまっとうする、を信条としている。手を抜くのは簡単だが、雇用主からの信頼を失うことは長期的に見て大きな損失である。

 契約彼氏としての仕事も、同じである。雛乃に好感を抱かれるのは良い。しかし彼女に本気になられてしまうのは、少々やりすぎだ。

 世間知らずのお嬢様はきっと、かりそめの恋に舞い上がっているだけなのだろう。生まれたての雛が、最初に見たものを親だと思い込むのと同じだ。そのうち頭が冷えるに違いない。今後はある程度の節度を持って、彼女に接することにしよう。

 ――当然、俊介が雛乃に恋をするなど、もってのほかである。




「俊介!」


 恒例になった、土曜日のデートの待ち合わせ。

 目の前で停まった白いロールスロイスから、雛乃が降りてくる。九月も末になり、だんだん涼しくなってきたこともあり、彼女の服装もかなり秋めいていた。落ち着いたアースカラーのカットソーに、チェックのスカートがよく似合っている。

 雛乃は俊介を見るなりぱっと表情を輝かせ、待ちきれないとばかりに駆け寄ってきた。小さな両手でぎゅっと手を握られて「会いたかったです」と微笑む。


(……いや、死ぬほど可愛いな)


 いきなり先制攻撃を決められて、決意がぐらりと揺らぎそうになる。これが仕事でなければ、相手が雇用主でなければ、とっくの昔に抱き締めている。

 しかし俊介は雛乃の手を振り解き、小さな子どもを諭すような口調で言った。


「お嬢さん。今日のシフトは十一時からですよ。まだ業務時間外です」

「あっ。も、申し訳ありません……」


 俊介なりに線を引いたつもりだったが、雛乃は悲しそうにしゅんと眉を下げる。その顔を見た瞬間、胸を締めつけられるような罪悪感が襲ってきた。


「……山科様。本日は、雛乃様を十八時にお迎えにあがりますのでよろしくお願い致します」


 石田が心なしか冷たい目つきで、ギロッと睨みつけてくる。俊介は肩を竦めて「はいはい」と答えた。

 十一時になると同時に、雛乃が遠慮がちに腕を組んできた。こちらを窺うように、上目遣いに見上げてくる。


「今のあなたは、私の恋人ですよね?」

「……もちろんです、雛乃さん」


 俊介の返事に、雛乃はホッとしたように頬を緩める。これは仕事だと自分に言い聞かせながら、俊介は雛乃の手を取ってしっかりと握りしめた。




 今日の予定は、「そろそろ秋冬物の洋服を買いたいです」という雛乃の意見を取り入れた買い物デートだ。お嬢様はどこで買い物をするのだろうかと不思議に思っていたところ、銀座にある百貨店に連れて来られた。

 雛乃が受付で謎のカードを見せた途端、女性の目の色が変わる。どこかに内線をかけたかと思ったら、貫禄のあるスーツ姿の男性が現れ、雛乃に向かって恭しく頭を下げた。


「いつもありがとうございます、御陵様」

 

 それから一般客は立ち入れないような場所にあるエレベーターに案内され、最上階まで連れて行かれた。高級感溢れる、広々とした豪華なサロンだ。ソファに座らされて、飲み物まで出てきた。買い物に来ただけなのに、どんなVIP待遇だ。

 支配人らしき男は雛乃の美貌を褒め、お父様にくれぐれもよろしくと言って、どこかへ消えていった。俊介の存在には、特に触れられなかった。荷物持ちか何かだと思われているのかもしれない。

 

 隙のない化粧を施した年配の販売員が、雛乃に似合いそうな服を次々持ってくる。雛乃は広々とした試着室から一歩も動くことなく、店員に勧められた服を試着していた。試着室のカーテンが開くたび、さまざまな格好をした雛乃が姿を現す。


「いかがでしょうか?」

「可愛いですよ。似合ってます」

「もう。先ほどからそればかり」


 雛乃は拗ねたように腕組みをして、軽くこちらを睨みつけてくる。

 そんなことを言われても、どんな格好も似合っているのだから仕方がない。もうこれ以上に似合っている服はないだろうと思っても、次に扉が開いたときには容易く最高を更新してしまう。


「次はこちらはいかがでしょうか?」

「素敵ですね。着てみます」


 店員に手渡された衣服を受け取り、雛乃は再び扉を閉める。手持ち無沙汰になった俊介は、ぐるりとサロンの中を一回りしてみる。

 ハンガーラックに掛けられた衣服はどれも高級感に溢れており、デザイン自体はファッションビルにあるものとほぼ変わらないが、素材や質感がまったく違う。いくらぐらいするのだろうかと興味が湧いたが、値段はどこにも書かれていなかった。こんなものをポンと購入する人間、怖すぎる。

 美しく磨き上げられたショーケースの中に、アクセサリーが飾られていた。ネックレスやピアスと並んで、ヘアアクセサリーが飾られている。雛乃がよく髪をまとめている、いわゆるバレッタというやつだ。


(これ、雛乃さんに似合いそうだな……)


 パールがあしらわれた清楚なデザインで、雛乃の艶やかな黒髪にきっと映えるだろう。

 もし、俊介が雛乃に「このバレッタ、似合うと思いますよ」と言ったら――雛乃はきっと、「じゃああなたがプレゼントしてください」なんてことを言うかもしれない。そしてデートが終われば、そのプレゼントは経費として落とされるのだ。

 なんだか虚しくなってきて、俊介はショーケースの前から離れた。そのとき、試着室のカーテンが開く。


「いかがでしょうか?」


 鮮やかな赤のツインニットを着た雛乃が現れた瞬間、またしても最高を更新してしまった。もう、店ごと買い取ったらいいんじゃないですかね。




 結局雛乃は、冬物のアウター二着とワンピースを一着、ニットを三着とスカートを一着購入した。合計金額がいくらだったのか、知りたいような知りたくないような。

 クレジットカードで会計を済ませると、販売員は満足げに「では、いつものようにご自宅にお届けしておきますね」と微笑む。そういうシステムなのか。俊介が荷物持ちをするまでもなかった。


「少し、買いすぎてしまいました」

「あれで〝少し〟なんすね」


 俊介は溜息混じりに呟く。俊介の呆れ顔にも気付かず、隣を歩く雛乃の足取りは軽い。どうやら満足のいく買い物ができたらしい。まあ彼女がどれだけ散財しようが自分の腹は痛まないし、世の中の経済は回るし、お嬢様が幸せなら何よりだ。


「そうだわ。これから俊介のお洋服も買いに行きませんか?」

「え? いや、俺は別にいいですよ。金ないし」


 突然の提案に、俊介は慌ててかぶりを振った。そもそも俊介は「いかに金をかけずに今風っぽいオシャレをするか」に命をかけているタイプである。基本的に古着屋やファストファッションでしか買い物をしない。持っている衣類で一番高価なものは、バイト先のマスターに譲ってもらった冬物のマウンテンパーカーである。


「あら、経費で落としていただいても構いませんよ?」


(……デートして飯食わせてもらって、服買ってもらうって。それじゃ、ほんとにただのヒモじゃねーか)


 雛乃はこともなげに言ったが、俊介はほんの少し傷ついた。何故傷ついたのかは、よくわからない。少し前の俊介ならば、プライドなどかなぐり捨てて、ここぞとばかりに経費申請していただろうに。


「……あー、今特に欲しいものないんで。遠慮しときます」


 へらっと笑って答えると、雛乃は残念そうに「そうですか」と答えた。


「あなたの服を選んでみたかったのですが……では、見るだけというのはいかがですか?」

「まあ、そういうことなら」


 根負けした俊介が頷くと、雛乃がニッコリ笑って腕を絡めてくる。歩きづらいな、と思ったが、振り払うことはしない。なにせ今の自分は、お嬢様の契約彼氏なのだから。

 

 と、しばらく歩いたところで、雛乃がぴたりと足を止めた。「どうしました?」と覗き込むと、彼女は顔面蒼白になって一点を見つめている。

 彼女の視線の先には、すらりと背の高い男が立っていた。年齢は二十代後半ぐらいだろうか。着ているスーツは高級そうだが、派手でやや品がない。目鼻立ちがはっきりとしており、まるで外国の俳優のように掘りが深かった。充分美形の部類だろう。


「雛乃ちゃん?」


 男は大きく目を見開いて、雛乃を見つめている。雛乃と腕を組んでいる俊介にチラリと視線をやると、怪訝そうに眉を寄せた。ピカピカに磨き上げられた革靴をコツコツと鳴らしながら、こちらに歩み寄ってくる。

 雛乃は腕を解き、まるで俊介を庇うかのように男の目の前に立ちはだかる。背の高い男が小柄な雛乃を見下ろすと、どこか威圧的な雰囲気を感じる。


「こんにちは、雛乃ちゃん。偶然だね」


 にこやかな笑みを讃えながら、男は言った。雛乃は唇の両端を上げて、氷の仮面のような笑みを返す。


「お久しぶりです、松ヶ崎まつがさきさん。年度末のパーティーでお会いして以来ですね」

「お父様とは先月ゴルフでご一緒したけどね。それにしても雛乃ちゃん。少し見ないあいだに、また綺麗になったね」

「ありがとうございます」


 雛乃の口元は笑みの形を作った。が、その目はちっとも笑っていない。それは男も同じことで、和やかに談笑をしつつも、二人のあいだにはどこか冷ややかな空気が漂っていた。ここだけ周囲より気温が低いような気さえする。

 松ヶ崎と呼ばれた男は、まるで俊介がこの場にいないかのように振る舞っている。雛乃に話しかけるばかりで一瞥もくれないので、どんどん居心地が悪くなってきた。

 視線を彷徨わせている俊介に気付いたのか、雛乃が口を開く。


「松ヶ崎さん、申し訳ありません。私たちこれから予定がありますので、そろそろ失礼させていただきます」


 そのとき初めて、松ヶ崎がこちらを見た。俊介も目を逸らさず、真正面から受け止める。彼の瞳に、敵意や悪意の類は感じられなかった。道端に落ちているゴミを見るような目だ。


「……そうだね、雛乃ちゃんも大学生だし。きみもまだまだ遊びたい年頃だよね」


 溜息をついた松ヶ崎は、呆れたような、憐れむような目で雛乃を見る。雛乃は少しも表情を動かさず、じっと黙り込んでいた。

 

「とりあえず今は目を瞑るけど。御陵家に泥を塗ることのないよう、くれぐれも行動には気をつけるんだよ」

「…………」

「正式な婚約までには、きちんと関係を整理しておくようにね。お父様には黙っておいてあげるから」


 そこでようやく確信した。薄々気付いていたが、やはりこの男は雛乃の婚約者だ。


(なんだよ、それ。お嬢さんの気持ちはどうでもいいのかよ。寛大なふりして、お嬢さんの家柄と自分の体裁にしか興味ないんだろ)


 てめえは何様だよ、と顔面に唾を吐き捨ててやりたい気持ちになった。が、拳をぐっと握って耐える。雛乃の大事な婚約者と揉め事を起こすことなど、あってはならないことだ。

 雛乃は紙のように真っ白な顔で、「はい」と答えた。まるで温度のない、ぞっとするほど冷たい声だった。


「それじゃあ、また」


 松ヶ崎はそう言って、足早に立ち去っていく。雛乃はその後ろ姿が見えなくなる前に「参りましょう」と言って、俊介の手を取る。小さな手にぎゅっときつく握りしめられて、痛いくらいだった。

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