32.お嬢さんのお見送り
冬の足音も近づいてきた、十一月の二週目。俊介は父の七回忌のため、実家に帰ることにした。
雛乃には事情を説明し、
たったの二日で帰ってくるのだから、わざわざ見送ってもらうまでもない。そう言ったのだが雛乃は引き下がらず、いつものように白いロールスロイスで東京駅までやって来た。
券売機で入場券を買って、黒のスーツケースを引いた俊介とともに、改札に入る。今日は、引っかかることなく通過できたようだ。
エスカレーターでホームに上がると、別れを惜しむカップルが人目も憚らずに抱き合っている。突如として濃厚なキスをおっ始めたので、俊介は(TPOを考えろよ)とげんなりした。が、雛乃はどこかうっとりしたような目つきで眺めている。
「恋愛映画でよくある、駅のホームでの別れのシーンが好きなんです。接吻を交わすのもロマンチックですよね」
「いやいや、発車間際にイチャイチャすんのは他の乗客に迷惑でしょ。そーいうのは家で済ませといてほしいですね。駅ではちゃっちゃとあっさり別れるべきです」
「まあ、ロマンのない」
俊介の冷めた発言に、雛乃は不服そうに唇を尖らせた。抱き合うカップルを横目に通り過ぎ、ホームのなかほどで足を止めた。俊介の乗る新幹線は、五分後にやって来る。
俊介の手をぎゅっと握りしめたまま、雛乃がおずおずと切り出した。
「ひとつ、お願いが」
「なんすか、雛乃さん」
「……ご実家に帰ったあと。俊介の時間のあるときに、電話をしてくれませんか。もちろん、時給はお支払いしますから」
「なんだ。そのぐらい、お安い御用ですよ」
そんなの、断る理由もない。俊介だって雛乃と会話はしたいし、雇用主の命令は絶対、だ。
何か思惑があるのかと思いきや、雛乃は本当にただ見送りにきただけだった。
俊介の乗る新幹線が到着したときも、おとなしく立っているだけだ。当然、抱擁や接吻を交わしたりはしない。名残を惜しむこともなく、二人の手はあっさりと離れてしまった。
「じゃあ雛乃さん、俺もう行きますから。その入場券をもっかい通して、改札から出るんですよ」
「わ、わかっています」
「もし帰り道がわからなかったら、駅員に聞いてくださいね。駅で迷子になったら、その場から動かず石田さんに電話するように」
「もう、子ども扱いはやめてください」
雛乃がぷくっと頬を膨らませた。「早く乗らないと発車しますよ」と促され、俊介は後ろ髪を引かれる思いで新幹線に乗り込む。
「俊介、いってらっしゃい。あ、あとこちらはお母様と妹さんにどうぞ。お口に合えばいいのですが」
「あ、ありがとうございます」
「どうか、お気をつけて」
そう言って小さく手を振る雛乃を見ていると、なんだか急に離れ難くなってきた。このまま腕を引いて実家に連れて帰ってしまおうか、だなんて考えが頭をよぎる。別れ際に熱い抱擁を交わすカップルの気持ちが、ほんの少しわかったような気がする。
……そんなこと、できるはずもないのに。
「……いってきます」
ぷしゅう、と音を立てて扉が閉まる。新幹線は走り出し、あっというまに雛乃の姿が見えなくなった。俊介は溜息混じりに、指定席に腰を下ろす。
(実家に帰るの、正月以来か……)
俊介にとって帰省は、なんとなく憂鬱なイベントだった。実家や家族が嫌いなわけではない。それでもあの場所に帰ると、どうしても愉快ではない記憶まで蘇ってきてしまう。
しかし何故だか、今日はそこまで嫌な感じはしなかった。雛乃が見送ってくれたおかげだろうか。
俊介はアプリを立ち上げ、雛乃あてに「見送りありがとうございました。気をつけて帰ってください」というメッセージを送信した。
新幹線でおよそ一時間半、そこから在来線に乗り換えて三十分。俊介の生まれ育った場所は、四方を山に囲まれた田舎である。
手動でしか扉が開かないワンマン電車から降りた瞬間に、冷たい空気が身体を指す。東京よりもずいぶん寒い。まだ十一月だというのに、まるで冬のような寒さだ。もう少し分厚いアウターを着てこればよかった、と両手を擦り合わせる。
「お兄、こっちこっち!」
ICカードにギリギリ対応した改札を抜けると、チャコールグレーのダッフルコートを着た少女がひらひらと手を振っていた。妹の梓だ。色素の薄い、柔らかな癖っ毛が風に揺れる。俊介自身はそう思わないが、クールな目鼻立ちでよく似た兄妹だと言われることが多い。
「よお。梓も来てたのか」
「お母さんが帰りに買い物するって言うから、しゃあなしついてきた。別に、お兄を迎えに来たわけじゃないからね!」
まるでツンデレの見本のようなセリフだ。実のところ梓は、なかなか年季の入ったブラコンである。
中学三年生という難しい年頃のため、表立ってベタベタすることはなくなったが、昔は兄ちゃん兄ちゃんと後ろをついて回っていた。母いわく、「お兄以上にかっこいい人なんかいないから、彼氏なんて作る気しない」とこっそり溢しているらしい。可愛い奴だ。
ロータリーに停車していた白の軽に乗り込むと、運転席には母が座っていた。バックミラー越しにこちらを見て、「ああ、お疲れ」と短く言う。母に会うのは夏休み以来なので、懐かしくもなんともない。
「スーパーで買い物して帰るから。夜、鍋でもいい?」
「なんでもいいよ」
助手席の梓がシートベルトを締めるのを待って、母は車を発進させる。梓は後部座席にいる俊介に向かって、「そういえば!」と首を回して言った。
「お兄、彼女できたんだって? しかもめちゃめちゃ美人のお嬢様なんでしょ!」
「母さん、梓にベラベラ喋るなよ」
雛乃のことは梓には伝えていなかったので、どう考えても発信源は母だ。おしゃべりな母は悪びれずに「いいでしょ、別に」と答える。
「写真見たけど、女優さんみたいじゃん。前付き合ってた……カレンさんだっけ? あのひともめちゃ美人だったけど。東京って、そんなに可愛い子ばっかなの? それか、お兄が面食いなの?」
「俺が美人にモテるんだよ」
「よく言うよ。どーせすぐ振られるくせにぃ。ほんっとお兄って、長続きしないよねー」
反論はない。今回も、あと二ヶ月ほどで別れることが決まっているからだ。
「あ。そういやこれ、雛乃さんから母さんと梓にって」
俊介はふと思い出して、リュックの中をゴソゴソと探る。取り出したのは、別れ際に雛乃から渡された手土産だ。紙袋を手渡すと、梓は目を丸くした。
「うわ! これ、アドリエンヌのマカロンじゃん!」
「なんだそれ。有名なのか?」
「クッソ高いやつだよ! しかも人気でなかなか買えないの! こんなのポンと渡せるなんて、お兄の彼女って何者!?」
梓は訝しげな表情で、じろじろとこちらを見つめてくる。そういえば最近は感覚が麻痺しつつあったが、雛乃は桁外れのお嬢様だったのだ。
「そういえば、スカイツリーのてっぺんからおうちが見えるって言ってたわねー。冗談かと思ってたけど、もしかして雛乃さんって本当にお金持ちなの?」
「それ、絶対半端ないお嬢じゃん! お兄、このまま無事に結婚できたらハワイで結婚式してね! タダでハワイ行きたーい!」
「馬鹿なこと言ってんな」
ぺしっと軽く頭をはたくと、梓は渋々前を向く。
もしかすると雛乃はハワイで結婚式を挙げるのかもしれないが、相手はあのいけ好かない男である。うっかり雛乃のウェディングドレス姿を想像してしまって、俊介は小さく舌打ちした。
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