31.お嬢さんと原価計算

「……雛乃さん。なんでこんなとこに」


 俊介の前でぴたりと足を止めた雛乃は、口角を上げて美しい笑みを浮かべる。威圧感のあるオーラに気圧されたのか、俊介のそばにいた竹田は一歩後ずさった。


「椥辻さんと一緒に来ていたのですが、はぐれてしまいまして」

「そ、そうなんすか」

「どうしようかと途方に暮れていたところで、猫耳をつけた俊介が、猫耳の女の子にデレデレしているところに遭遇したということです」

「ちょ、ちょっと待ってください。どう見てもデレデレはしてなかったでしょ」

「あら、そうでしょうか。私には鼻の下がずいぶん伸びているように見えましたが……」

「いやいや、いつも通りのイケメンですよ。ほらよく見て」


 そう言って雛乃の顔を覗き込むと、彼女は頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いてしまった。どうやら拗ねているらしい。そういうところも可愛いが、他の女子にデレデレしていると思われるのも心外である。


「御陵さん、久しぶりー」


 龍樹がひらひら手を振ると、膨れっ面だった雛乃は我に返ったように咳払いをした。よそゆきの表情を取り繕うと、「小野さん、お久しぶりです」と優雅な挨拶を返す。

 雛乃と俊介を交互に見つめた竹田は、ぐいと龍樹のシャツの袖を引いて尋ねた。


「ねえねえ、たっちゃんセンパイ。この人、もしかして山科センパイの彼女?」

「そうそう! 御陵コンツェルンのお嬢様だよ。すげえだろ」

「え、ほんとに? やっぱハイスペイケメンの彼女はハイスペ美女なんだねー」


 竹田はそう言って、雛乃の顔をじろじろ眺める。それから俊介に向かって、「山科センパイ、意外と彼女の尻に敷かれるタイプだったんですね!」と言い放った。余計なお世話だ。


「ところで御陵さん、美紅ちゃん来てんの!? はぐれちゃったんだって?」

「はい。噴水広場にいる、と聞いたのですが、学内の地図を見てもよくわからなくて」

「雛乃さん、方向音痴だからなぁ」

「方向音痴ではありません」

「じゃ、オレ迎えに行ってくるよ! 御陵さん、よかったらオレの代わりに店番してて!」


 龍樹はここぞとばかりにそう言って、勢いよく駆け出した。相変わらず龍樹は美紅にアプローチを繰り返しているらしいが、あまり進展は見られないようだ。それでもめげずに想い続けているあたり、なかなか一途な男である。

 龍樹に店番を任された雛乃は、所在なさげに俊介の隣に立っている。半分焼けたタコ焼きをくるくると回しながら、俊介は雛乃に言った。


「……いきなり来るから、びっくりしましたよ」

「ごめんなさい。今日突然椥辻さんに誘われて……迷惑でしたか?」

「いや、全然」

「それなら安心しました。俊介に会いたかったので」


 雛乃はそう言って微笑んだ。俺もです、と答えようとしたが、今は業務時間外だということに気付いて慌てて口を噤む。


「大袈裟すね。別に、明日も会うでしょ」

「それは、そうですが……でも来てよかったです。猫耳姿の俊介も見られましたし。とってもお似合いですよ」


 どこかからかうような口調で、雛乃がくすりと笑みを零す。そう言われると、ふざけた猫耳カチューシャをつけていることが急に恥ずかしくなってきた。


「俺なんかより、雛乃さんの方が似合うと思いますけど」

 

 俊介はそう言って自分のカチューシャを外すと、雛乃の頭にかぶせてやった。想像通り、とてもよく似合っている。「可愛いですよ」と素直に褒めると、雛乃は頬を赤く染めた。


「ちょっと〝ニャン〟って鳴いてみてください」

「ば、ばか」

「あ、ついでに客引きしてきてください。雛乃さんなら、ちょっと微笑むだけで入れ食い状態ですよ」


 俊介が冗談めかして言うと、意外なことに雛乃は「わかりました」と力強く頷く。俊介が止める暇もなく、ちょうど通りかかった男子学生四人組の元へと駆け寄っていった。

 一言二言会話を交わしただけで、デレデレと表情を緩めた男たちがついてくる。客を引き連れてきた雛乃は、すんと済ました顔で言った。


「俊介。タコ焼きを4つお願いします」

「……はいよ」


 さすがだ。接客など向いていなさそうだと思っていたが、そうでもないらしい。やはり雛乃には、何故かひれ伏したくなるような不思議な魅力がある。

 男たちは小柄な雛乃を取り囲み、ニヤニヤと嬉しそうに話しかけている。


「おねえさん、ここのサークルの人なの? 何年生?」

「めっちゃ美人だよね。よかったら、連絡先教えてよー」

「お断りします。個人情報ですから」

「えー、そう言わずにさあ」

「はいはーい、タコ焼き4つお待たせしました。合計二千円でーす。熱いので気をつけてくださいねー」


 猛スピードでタコ焼きをパックに詰めた俊介は、雛乃の前に割り込むと、男たちにタコ焼きを押しつける。

 これ以上しつこくするようだったら口の中に熱々のタコ焼きをブチ込んでやろう、と思っていたのだが、彼らは「またねー」と手を振ってあっさり立ち去っていった。


「どうですか、俊介。私もやればできるのです」


 雛乃はそう言って、得意げに胸を張っている。

 たしかにこのまま彼女に客引きを任せたら、驚異的な売り上げを叩き出せるかもしれない。しかし、俊介は面白くなかった。

 

「では、次はあの方に声をかけてみましょうか」

「……いや、もういいですよ。雛乃さんはおとなしく俺の隣に居てください」


 猫耳姿の雛乃を、これ以上他の男の視線に晒すのは癪である。雛乃はやや残念そうに「そうですか」と唇を尖らせた。


「あっ、雛乃ちゃーん! やっと会えたぁ!」


 そのとき、美紅がぶんぶんと大きく手を振りながらこちらにやって来た。その傍には、このうえなく嬉しそうにだらしなく眉を下げた龍樹がいる。


「ああいうのを鼻の下が伸びてるって言うんですよ、わかりますか雛乃さん」


 俊介は雛乃の耳元でそう囁いたが、彼女はそれを無視した。

 

「椥辻さん、申し訳ありません。無事に合流できてよかったです」

「全然いいよお! うふふ、山科さんに会えてよかったね」

「え、ええ」

「わたし今日、雛乃ちゃんにどうしてもついてきてほしいって頼まれたんですよお。絶対山科さんの猫耳見たいからって! ね、雛乃ちゃん」

「な、椥辻さん! そ、それは秘密にしておいてくださいと、言ったではないですか!」


 美紅にぐりぐりと肘でつつかれた雛乃は、真っ赤になって慌てふためいている。俊介はニヤリと唇の端を上げて、意地悪な笑みを浮かべる。


「へーえ? 雛乃さんさっき、いきなり椥辻サンに誘われたって言ってませんでしたっけ?」

「う……」

「そんなに見たかったんですか? 三回回ってニャンって鳴いてあげましょうか? 雛乃さんにならいくらでもサービスしますよ」

「……も、もう! しなくていいです!」

「はいはい、イチャイチャしないのー」


 美紅が呆れたように肩を竦める。正直イチャイチャしている自覚はあったので、おとなしく黙った。雛乃も気まずそうに両手を胸の前で弄っている。


「雛乃ちゃん、せっかくだし山科さんと二人で文化祭回ってくれば?」

「え、でも彼は仕事が」

「いいよいいよ。俊介、昼メシも食ってないだろ。休憩ついでに御陵さんと遊んでこいよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 俺はつけていたエプロンを脱いで、龍樹に押し付ける。雛乃さんに「行きますよ」と声をかけると、躊躇いつつも彼女はついてきた。


 思い返してみれば、雛乃とこうして大学構内を歩くのは三度目だ。しかし、これまでとはまったく景色が違う。歩き慣れたキャンパス内が、今日ばかりはまるで別世界のようだ。


「……すみません。結果的に、俊介の邪魔をしてしまいましたね」


 隣を歩く雛乃が、しょんぼりと申し訳なさそうに肩を落とした。心なしか、頭の上の猫耳も垂れているような気さえする。

 そんな顔をしなくても、俊介だって雛乃に会えて嬉しいし、こうして一緒に学園祭を回れるのも楽しい。しかし俊介はへらっと笑って、「別に邪魔じゃないっすよ」と言うに留めておいた。

 

「あー、腹減った」


 ポツリと呟くと、雛乃はずらりと並んだ屋台を指差して首を傾げる。


「何も買わないのですか? 美味しそうなものが、たくさんありますよ」

「夏祭りのときも言いましたけど……こんなの、原価考えたら何も買えないですよ。タコ焼き五百円で売るのもぼったくりみたいなモンですから」

「そうでしょうか……原価の問題ではない気がしますが」

「あ。そういや香恋が焼きそば売るって言ってたな。せっかくだし奢ってもらいましょう」


 雛乃はやや複雑そうな表情を浮かべつつも、「わかりました」と頷く。少し歩いた広場のそばに、香恋が所属しているテニスサークルの屋台がある。香恋の彼氏である法学部の〝菩薩〟も同じサークルらしい。

 香恋は段ボールで作った看板を首から下げて客引きをしていた。俊介の姿を見つけるなり、「げっ」と嫌そうな顔をする。


「なんだ、その反応は」

「あんたがわざわざ来るなんて、たかりに来たのが丸わかりなのよ。……あら、御陵さん?」

「こんにちは、北山さん」


 顔を合わせるのも三回目になると、二人のあいだにもやや気安い空気が流れている。バチバチ火花を散らして険悪になられるよりは、こちらも気が楽だ。


「あんた、猫耳つけた可愛い彼女見せびらかすために連れ回してんの? ちょっと浮かれすぎじゃない?」

「そういうわけじゃねーけど、雛乃さんが自慢したくなるぐらい可愛いのはホント」

「そのセリフ、半年前のあんたが聞いたら卒倒するわよ」

「それ、龍樹にも同じこと言われた」


 俊介はそう答えて、肩を竦めて笑う。雛乃は二人のやりとりを聞いて、やや気まずそうに俯いていた。

 

「香恋、焼きそばひとつ。タコ焼きのタダ券と引き換えならいいだろ」

「チッ。仕方ないわね」


 香恋は俊介の手からチケットを引ったくると、透明のパックに入った焼きそばを手渡してくれた。雛乃に向かって、「半分こしましょう」と言うと、彼女は嬉しそうに頷く。


 近くにある自動販売機でお茶を買って、広場のベンチに座る。雛乃はベンチにハンカチを敷いて、その上に腰を下ろした。いただきますと手を合わせてから、これでもかとばかりにパンパンに詰め込まれた焼きそばを食べ始める。

 ソースのよく絡んだ焼きそばには、申し訳程度の豚肉が入っていた。モヤシでカサ増しされており、原価はせいぜい数十円というところだろう。しかし、ソースと紅しょうががあれば何でも美味いと感じるのが、人間の脳というものである。


「雛乃さんもよかったらどうぞ」

「ありがとう。では、いただきます」


 俊介から箸を受け取った雛乃は、お行儀よく焼きそばを口に運んだ。猫耳をつけた雛乃が、俊介の隣で嬉しそうに笑う。


「とっても美味しいです」


 太陽の光は心地良く降り注いでいて、広場の芝生が緑色に輝いている。秋の空は抜けるように高く、吹き抜ける風はひやりと心地良い。どこか遠くから、軽音楽部の奏でる賑やかなロックが聴こえてくる。涙が出るぐらいに平和で、幸せな時間だ。


「俊介がいただいたものを、私ばかり食べるのは申し訳ないですね」


 雛乃はそう言って、どうぞ、と箸でつまんだ焼きそばを差し出してきた。俊介は彼女の手首を掴んで引くと、そのまま焼きそばを頬張る。

 そのとき俊介は、ものの価値というものは原価で測れるものではないのだな、と唐突に理解した。


 ――私がこれまで見てきた景色の中で、今この瞬間に見える花火が一番綺麗です。……きっと、あなたが隣にいるからですね。


 あのときの雛乃の気持ちが、今の俊介にはよくわかる。雛乃の手ずから食べた焼きそばは、間違いなくこの世界で一番美味かった。


「……俺、五百円の焼きそばが高いなんて二度と言わないです」

「あら、唐突な心境の変化ですね」

「もう一口ください」


 そう言って甘えるように口を開けると、雛乃は嬉しそうに焼きそばを差し出してくれる。

 香ばしいソースの味を楽しみながら、こんなサービス付きなら五千円ぐらい払ってもいいな、だなんて馬鹿げたことを本気で考えていた。半年前の自分が聞いたらきっと、正気に戻れと真顔で肩を揺さぶってくるだろう。

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