33.お嬢さんはお見通し
俊介の実家は、昔ながらの古びた平家だ。扉に空いた大きな穴を、ベニヤ板で雑に塞いだ跡がある。昔、借金取りが蹴り飛ばして空けた穴だ。
母が作った寄せ鍋を三人で食べたあと、リビングでテレビを観た。妹は最近デビューした関西のアイドルグループにハマっているらしく、「大学は絶対大阪か京都にして、関西弁のイケメンに出逢う!」などとはしゃいでいた。
六年前までは想像もできなかった、平和な一家団欒の光景だ。しかしその平和は、父の死を犠牲にして成り立っているものなのだ。そんな仄暗い罪悪感が、今も俊介の中に澱んでいる。
「俊介、梓。明日は朝の八時には出るから、ちゃんと自分で起きて準備してね」
風呂上がりの母が、リビングにいる俊介と梓に声をかけた。父の七回忌は明日の昼、市内の斎場で行われる。それが終わり次第、俊介は新幹線で東京に帰ることになっている。
「ねえねえお母さん。明日、制服でいいよね?」
「いいわよ。俊介は、入学式と成人式で着てた黒のスーツ出しておくから。父さんの部屋に置いておくわ」
「わかった」
「じゃあ、おやすみ」
母はそう言って、自室へと戻っていった。〝推し〟が出演しているバラエティを見ている梓が「お兄、先にお風呂入ってきてよ」と言うので、渋々立ち上がる。
風呂に入った後、俊介はそのまま父の部屋へと向かった。母が用意してくれたスーツを取りに行くためだ。薄暗い廊下を歩くと、ギシギシと床板が軋む。
父が死ぬまでは毎日、夜が来るのが恐ろしかった。夜な夜な訪れる借金取りの怒号は、十六歳の俊介を震え上がらせるには充分すぎるほどだった。
こんな家出て行ってやると何度思ったかわからないが、幼い妹を置いて逃げることなどできなかった。あのときの俊介は父を恨みながら、泣きじゃくる妹を抱きしめて、ただひたすらに長い夜が明けるのを待っていた。
父亡き今、かつての父の部屋は物置代わりになっている。部屋は閉め切られていたが、特に埃っぽくは感じなかった。母が定期的に掃除をしているのかもしれない。部屋の奥にあるハンガーラックに、俊介のスーツが吊るされている。
(父さんの部屋、入るの久しぶりだな……)
父が死んでからは、この部屋にもまともに寄りつかなかった。父を想起させるものを、意図的に遠ざけていたからだ。母や妹がどうして普通に父の話題を出せるのか、俊介は不思議で仕方がなかった。
しかし今は、ほんの少しだけ父の思い出に浸ってみたいような気がしていた。今なら、父の死を悲しんで泣けるかもしれない。あのとき、自分のために泣いてくれた彼女のように。
――あなたが当時、何を思ったとしても……自分を責めて、気に病む必要は一切ありません。
――……あなたが、いちばん、泣きたい、はずなのに……。
(俺、本当は泣きたかったのかな……)
父が死んで六年が経ち、それすらもうわからなくなってしまった。父に対する怒りや憎しみさえ、とっくに薄れてしまった。自分の名を呼ぶ父の声も、自分を抱きしめる父の腕のぬくもりも、どんどん思い出せなくなっている。
ふと思い立って、部屋の奥にある押し入れを開いてみた。そこには、俊介が幼い頃から母が残しているアルバムが入っている。ずしりと重いアルバムを一冊引き抜いて、開いた。
そこには、生まれたばかりの俊介を抱いて笑う父の姿ががあった。遺影以外で父の顔を見るのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
まだ二十代半ばの父の姿は、今の俊介と瓜二つだ。とはいえ、俊介はこんなに屈託なく笑えない。心の底から幸せそうに、デレデレと眉を下げて笑っている。
(こんな顔して、笑う人だったっけ……)
記憶の中にある父の表情はいつも苦しげで、申し訳なさそうに下を向いてばかりいた。最後に真正面から父の顔を見たのは、一体いつだったろうか。
父はマメな方だったらしく、アルバムには多くの写真が収められていた。誕生日に七五三、小学校の入学式。梓が生まれると、幼い俊介が梓と共に映っている写真も増えた。家族で水族館に行ったときの写真もある。俊介を肩車した父は、ペンギンの水槽を背景にピースサインをしていた。
こうして振り返ってみると、楽しかったことばかり思い出してしまう。どんなに父が善良な人間であろうと、あの地獄のような日々の記憶は上書きできないのに。
「……え、なにやってんの?」
黙々とアルバムをめくっていると、ふいに背後から声をかけられた。びくりと肩を揺らして振り向くと、バスタオルを肩から掛けたパジャマ姿の梓が、入り口に立っていた。まるで幽霊でも見たかのように、目を真ん丸にしている。
「……びっ……くりしたー」
「なんだよ」
「いや……その……部屋の電気点いてたから……パパがいるのかと思って」
「はあ?」
「そろそろ命日だから、帰ってきたのかと思ったじゃん」
梓はそう言って、じいっとこちらを見つめている。俊介を透かして、ここにいない誰かのことを探そうとするみたいに。
「……お兄、やっぱパパにそっくりだね」
俊介は舌打ちをして、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。
「今昔のアルバム見てたけど……そんなに似てるか? 俺、あんなに歳食ってねーよ」
「パパ見た目若かったし、おじさんにしてはかなりイケてたじゃん。嬉しくない?」
「……全然嬉しくない」
父に似ていると言われるたび、俊介は複雑な気持ちになる。自分の中に父の面影を見つけるたび、胸が締めつけられるように苦しくなるのだ。
梓は不思議そうに首を傾げて、俊介に問いかけた。
「お兄は、パパのこと嫌いだった?」
不意打ちの問いに、俊介は答えられなかった。
梓は俊介の返事を待つことなく、「お兄もさっさと寝なよ。風邪ひくよー」と言って、自室へと戻っていく。
梓からの質問が、脳内でぐるぐると回っている。ぐちゃぐちゃになった思考がまとまる前に、俊介は自身のスマートフォンに手を伸ばしていた。
(……雛乃さんの、声が聞きたい)
そういえば、電話をかけるように言われていたのだった。俊介は通話アプリを立ち上げて、発信ボタンを押す。しばらくコール音が鳴ったあと、「はい」と雛乃の声が聞こえてきた。
「……雛乃、さん」
「こんばんは。お電話いただきありがとうございます。無事にご実家に着きましたか?」
「雛乃さん、俺……」
雛乃の声を聞いた瞬間に、俊介の胸は震えた。雛乃の質問に答える余裕もなく、俊介は声を絞り出す。
「……俺の父さんさ。めちゃめちゃお人好しだったんだよ」
唐突に話し始めた俊介の言葉を、電話の向こうの雛乃は黙って聞いている。まったく整理できていない剥き出しの思考が、そのまま唇から零れ落ちていく。
「自分だってそんなに余裕があるわけじゃないのに、友達が困ってたから簡単に金を貸した。頼み込まれたら、借金の保証人にもなった。普通の人よりかなりお人好しで……馬鹿だったんだ」
父は馬鹿だった、と今でも思う。つまらない情にほだされて、その結果家族に迷惑をかけて、一人で勝手に死んでしまった。
「……っ、ほんとに、馬鹿だよ……」
父が死んだことで、俊介は間違いなく救われた。救われてしまった。そのせいで俊介は今も、父の死を素直に悲しむことができずにいる。
「俺、やっぱり父さんに生きててほしかったって素直に思えない。あのままだったら、俺はたぶんもっと碌でもない生き方してただろうから」
「……」
「……でも、父さんよりも誰よりも、父さんが死んでそんな風に思ってる自分が一番嫌いだ……」
スマホを片手に項垂れて、俊介が声を震わせる。アルバムの中にいる写真の父は、そんな俊介の気持ちなどつゆ知らず、呑気に笑っている。
やがて雛乃が、囁くように言った。
「……人の感情は、そんなに単純なものではありません。お父様のことを許せない気持ちも……あなたの本心なのだと思います」
「……雛乃、さん」
「もしあなたが、あなたの言うような酷い人間なら、そのことに罪悪感を感じたりしないと思います。……あなたはきっと……お父様のことが、好きだったのですね」
雛乃の言葉が、俊介の胸にすとんと落ちてくる。それはおそらく間違いなく、梓の問いに対する明確な答えだった。
「…………は、い」
頷いた瞬間、今まで抱えていた罪悪感が、ほんの少し軽くなったような気がした。瞳から溢れてきたものが畳に落ちて、ポタポタと水滴を作っていく。
(俺、ちゃんと、父さんのことが好きだった)
「俊介。泣いてもいいんですよ」
雛乃が優しい声で言った。顔は見えないけれど、たぶん微笑んでいるのだと思う。俊介は鼻を啜りながら、「泣いてませんよ」と強がった。
「あら。それならば、ビデオ通話にしましょうか」
「……勘弁してください……」
情けない声で言った俊介に、雛乃はくすりと笑みを零す。自分の顔は見られたくないけれど、雛乃の顔は見てみたい気がする。今彼女がそばに居てくれないことが、どうしようもなく寂しく感じられた。
雛乃はいつだって、俊介の痛みや苦しみを柔らかく包み込んでくれる。別の世界に住んでいる俊介の気持ちに寄り添って、理解しようとしてくれる。母や妹の前では言えなかった本音を、このひとには伝えることができる。
「……雛乃さんに、会いたい、です」
唇から溢れたその言葉は、契約彼氏としてのリップサービスでも何でもなく、紛れもない俊介の本音だった。
私もですよ、と答える雛乃の声が優しくて、俊介はまた少し泣いてしまった。
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