34.お嬢さんの看病
雛乃と通話した翌日、俊介は父の七回忌をつつがなく終えた。スーツ姿の俊介を見て、母は「本当に父さんに似てきたわねえ」と目を細めていたけれど、俊介はもうそんなに嫌な気持ちにはならなかった。
そして実家から東京に戻ってきてすぐ、俊介は見事に風邪をひいた。冷え切った部屋の中で、濡れた髪のまま一時間以上雛乃と通話をしていたのだから、無理もない。
体調不良を我慢して授業とバイトに出ていたのだが、熱でぼーっとしている俊介を見かねたバイト先のマスターに、半ば強引に帰宅させられた。
夜のうちにどんどん熱が上がり、翌朝にはもう布団から起き上がれなくなってしまった。身体が鉛のように重く、頭は熱に浮かされぼうっとしているのに、嫌な悪寒がする。鼻水や咳の症状がないだけ、ましだろうか。仕方ない、今日の授業とバイトは休むことにしよう。
(……あ。雛乃さんに、メールしないと……)
今日は火曜日。そろそろ今週のデートプランを、雇用主にメールしなければ。しかし、どうにもうまく頭が働かない。
俊介はノロノロとスマホに手を伸ばすと、アプリを立ち上げて雛乃へのメールを作成した。内容をきちんと考える余裕はなかったので、『かぜをひきました。次のデートプランは木曜までには提出します』とだけ打ち込んで、そのまま送信する。
送信ボタンをタップした体勢のまま死んでいると、雛乃からのメールが返ってきた。顔を上げて、内容を確認する。
『承知しました、お大事に。デートプランはいつでも構いません。もし身体が辛ければ、週末のデートはお休みにしていただいても結構です。』
雛乃からの返事を読んだあと、それは困る、と俊介は思った。
雛乃との契約期間は、もう残り一ヶ月である。貴重なデートの時間を、体調不良ごときでふいにするわけにはいかない。
『いやです。週末までにはなおします。ちゃんとプランもかんがえます』
そう送ったところで、ついに俊介は力尽きた。枕に突っ伏して、そのままピクリとも動かなくなる。ぼやけていく意識の狭間で、ぼんやりと(雛乃さんに会いたい)と考えていた。
ピンポーン、という音で目が覚めた。
まだ朦朧としていた俊介の脳は、それが何の音なのかすぐに理解できなかった。ゆるゆると瞼を上げて、ぼうっと虚空を見つめていると、再び同じ音が鳴る。そこでようやく、インターホンの音だと気がついた。
畳の上に放り出されていたスマートフォンで時間を確認する。十六時十五分。本来ならば授業を終え、バイトに向かう準備をしている時間だ。
諦めの悪いインターホンが、再びピンポーンと鳴らされる。何か荷物でも頼んでいただろうか。
重い身体をやっとのことで起こすと、ほぼ這いずるようにして玄関の扉へと向かう。扉を開けた瞬間、目を疑いたくなる光景が飛び込んできた。
「! ああ、俊介……無事だったのですね。突然、申し訳ありません」
「ひなの、さん……」
白いマスクをつけた雛乃が、そこに立っていた。俊介の顔を見て、ほっとしたように目元を緩める。
(なんだ、これ。なんで雛乃さんがこんなとこに。会いたすぎて、頭おかしくなったのか? 都合の良い夢なら、ミニスカナースの格好ぐらいしててくれてもいいだろ……)
そんな馬鹿げたことを考えていると、ふらりとその場でよろめいた。俊介の身体を、雛乃が慌てたように支えてくれる。
甘い香りに包まれて、心が落ち着く。ひやりとした手が伸びてきて、俊介の額に押し当てられた。冷たいてのひらが心地良い。
「まあ、ひどい熱……とにかく、横になってください」
雛乃に支えられて、俊介は再び布団の上に逆戻りする。どうやらこれは幻ではなく、正真正銘の御陵雛乃らしい。
俊介は信じられないような気持ちで、心配そうにこちらを覗き込んでいる雛乃の顔を見上げる。こんなオンボロアパートに雛乃がいるという事実を、未だに受け止めきれない。
「……ひなのさん。なんで、ここに……」
「一度ここには来たことがありますし、契約書には住所の記載もありましたから。石田に頼んで、連れてきてもらいました」
「そうじゃ、なくて……」
俊介が聞きたいのは、ここに来た手段ではなく目的の方である。雛乃は手に持っていた紙袋を持ち上げると、涼しい顔でしれっと言ってのける。
「お見舞いです。一人暮らしの彼氏が風邪で倒れたら、彼女は看病に来るものだと聞きました」
「……今は、業務時間外すよ」
「それならば、時給をお支払いしましょうか」
「いや、それは……遠慮しときます」
看病してもらって金まで貰うなんて、さすがにそれは申し訳なさすぎる。それよりも、雛乃に風邪を伝染したらまずい。
「……すぐ、帰ってくださいね」
「ご心配なく。石田にも、一時間以上経って出てこなかったら突入する、と言われています。一人暮らしの男性の元に訪問するにあたっての、最大限の譲歩らしいです」
なるほど、俊介はあの運転手にまったく信頼されていないらしい。一時間あったら、結構いろんなことできると思いますけどね。しかし今は、そんな元気も準備もない。
「俊介、病院には行かれましたか?」
「行ってない、です。大丈夫、寝てりゃ治る……」
「お薬は飲みましたか? 何か食べる物は?」
俊介は無言でかぶりを振る。雛乃は持参してきた大きな紙袋から、ゴソゴソと何かを取り出した。
「こちらがスポーツドリンク、そしてこちらがフルーツゼリーです。まずは水分をたくさん摂ってください。ゼリーは冷蔵庫に入れておきますね」
「……何から何まで……すみません」
ストローの刺さったスポーツドリンクのペットボトルを受け取る。買い物に行く気力もなく、冷蔵庫が空っぽだったのでありがたかった。
雛乃はすっと立ち上がると、持参してきたエプロンを手早く身につける。可愛らしいストライプ模様で、腰の辺りにリボンがついたエプロンだ。いい眺めだなとぼんやり見ていると、雛乃がこちらを見下ろして言った。
「今からお粥を作ります」
「……へ」
「キッチンはどちらですか?」
俊介がキッチンスペースを指差すと、雛乃は眉を寄せて妙な顔をしている。小さなコンロと流し台しかない狭苦しいスペースが、お嬢様の脳内にあるキッチンとは結びつかなかったのだろう。
「あら? IHではないのですね……ここをひねればよいのでしょうか?」
「ちょ、ちょっと待って雛乃さん、俺がやります。怪我でもされたら困る……」
俊介がよろよろと起き上がろうとすると、「俊介は寝ていてください!」と厳しい声が飛んでくる。
おとなしく布団に戻ったが、雛乃の様子が気になってハラハラと落ち着かない。世間知らずのお嬢様の料理の腕を、俊介はあまり信頼していなかった。
鍋から何やら甘い香りが漂ってきた頃、雛乃はコンロの火を止めた。ハーフアップの髪を揺らして、こちらを振り向く。
「俊介、お茶碗とスプーンはどこですか?」
「茶碗は棚の中、スプーンはそこの引き出しの一番上……」
雛乃は茶碗にお粥をよそい、トレイに茶碗とスプーンを乗せて、こちらに戻ってくる。俊介を支え起こし、「食べられそうですか?」と尋ねてきた。俊介は無言で頷く。
食欲はなかったが、雛乃が用意してくれたものなら、いくらでも食べられそうだ。どれだけ不味かったとしても完食しよう、と心に決めて両手を合わせる。
「いただきます」
茶碗の中身は、小さくカットされたサツマイモが入ったお粥だった。ほのかに甘い香りがする。すくって口に運んでみると、ほんのりと優しいハチミツとミルクの味がした。
「美味い……」
ぽつりと呟いた俊介に、雛乃は「よかった」とはにかんだように微笑む。
「ハチミツとサツマイモのミルク粥です。昔風邪をひいたとき、よく石田が作ってくれました」
「石田さん、料理もできるのか……。いや、ほんとにお世辞抜きで美味いすよ」
あまり食欲がなかったはずなのに、あっというまに茶碗を空にしてしまった。「ごちそうさまでした」と言うと、雛乃が「お粗末さまです」とぺこりと頭を下げる。
「お口に合ったみたいで、何よりです」
「雛乃さん、料理上手ですね。すみません、見くびってました」
「昔から花嫁修行の一環として、家事は一通り叩き込まれてきました。誰かのためにお料理をするのは、嫌いではありません」
花嫁修行、という言葉に、俊介は苦々しい気持ちになった。
雛乃の手料理はこれから先、きっと例の婚約者に振る舞われることになるのだろう。あの男のためにキッチンに立つ雛乃の姿を想像すると、嫉妬で気が狂いそうだ。
なんだかムシャクシャしてきた俊介は、雛乃が買ってきてくれた薬を飲んで、そのまま布団に潜り込む。雛乃は枕元で正座したまま、やけに楽しそうに俊介の顔を覗き込んでいた。
「……なんすか、ニヤニヤして」
「ごめんなさい、こんなときに。少し……嬉しくて」
「嬉しい?」
「俊介のおうちにお邪魔できたことも、俊介のために料理を作れたことも、嬉しいです。不謹慎ですよね、申し訳ありません」
雛乃の手が伸びてきて、俊介の髪を優しく撫でる。「前髪を下ろしていると、いつもより幼く見えますね。可愛い」だなんて言うものだから、無性に恥ずかしくなった。
「そうだわ。子守唄でも歌いましょうか」
「……ガキ扱いしないでくださいよ」
「では、手を握って差し上げます。病気のときは、心細くなりますものね」
雛乃がそう言って手を握ってくれたので、俊介もそれを緩く握り返した。ひんやりとした雛乃の手は柔らかく、このままずっと繋いでいたくなる。
「……雛乃さん」
「はい」
「なんで、今日、来てくれたんですか」
「……だって。このあいだ、〝会いたい〟って、言ってくれたじゃないですか」
だから、会いに来ました。雛乃はそう言って、繋いだ手に力をこめる。
みっともなく泣いてしまったことを思い出して、「あれはもう、忘れてください」と俊介は片手で顔を覆った。雛乃は笑って、「忘れません」などと意地悪なことを言う。
そうこうしているうちに、時刻は十七時を回っていた。そろそろ、約束の一時間が経とうとしている。
「……俊介。私、そろそろ行かなくては」
俊介がいつまで経っても手を離さないので、雛乃はやや困ったように眉を下げている。どうやら体温はどんどん上がっているらしく、ぼうっと熱に浮かされたまま、俊介はうわごとのように「嫌だ」と言った。
あと一ヶ月経てば、雛乃は俊介の手を振り解いて、別の男のところに行ってしまう。
(俺はもう、この手を離したくない)
あと一ヶ月しか一緒に居られないなんて、そんなのは御免だ。これから先もずっと、彼女のそばに居たい。御陵コンツェルンまも婚約者も、クソ食らえだ。
「行かないで、ください」
渾身の力を振り絞って、雛乃の手を引き寄せた。バランスを崩した彼女が、俊介の上に倒れ込んでくる。重なってきた柔らかな身体を、逃すまいとばかりに抱きしめた。
ドクドクとうるさい心臓の音が重なり合って、どちらのものかわからなくなる。自分よりも低いはずの雛乃の体温が、どんどん高まっていくのがわかる。俊介はただ縋るように、彼女の背中に腕を回している。
(俺以外の男となんて、結婚しないでくれ)
そんな言葉が喉まで出かかったところで――ピンポン、とインターホンが鳴った。
はっと我に返った俊介は、彼女の背中から手を離す。その瞬間、雛乃が弾かれたように起き上がる。乱れたスカートの裾をさっと直して、素早く立ち上がった。
「……きっと、石田ですね」
「……俺が出ます」
俊介はそう言って、よろよろと起き上がった。ふらつく身体を雛乃に支えてもらいながら玄関の扉を開けると、予想通り運転手の姿があった。
「雛乃様。お迎えにあがりました」
「ええ、帰ります。俊介、ゆっくり休んでくださいね」
「……ありがとうございます、雛乃さん」
石田は俊介と雛乃の顔を交互に見つめて、眉間の皺を深くする。眼鏡の向こうの目を怪訝そうに細めて、俊介をじろりと睨みつけた。
「……雛乃様のお顔が赤いようですが……何か、ありましたか?」
「……一時間じゃ、なんもできませんよ」
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