10.お嬢さんは寂しい

「えっ、御陵さん!? なんで俊介と一緒にいんの!?」


 雛乃を連れて学部棟のラウンジに顔を出すと、予想通り龍樹がいた。龍樹の他にもゼミの連中が何人かおり、その中には香恋の姿もある。

 香恋は一瞬こちらを気にする様子を見せたが、すぐ知らんふりをすることに決めたらしい。ふいと視線を逸らして、ノートパソコンに向き直った。


「も……もしかして、俊介の彼女って御陵さんなの!?」


 龍樹は俊介と雛乃の顔をじろじろ見比べて言った。

 俊介がチラリと雛乃の様子を窺うと、雇用主こいびとは「今は業務時間内ですよね?」とばかりにこちらを見上げてくる。


「……ああ。ちょっと前から付き合ってる」


 俊介が頷くと、龍樹は目を丸くして「マジかー!?」と大声で叫んだ。俊介の両肩をがしりと掴んで、ガクガクと激しく揺さぶってくる。


「も、もしかしてあの合コンがきっかけか!?」

「それ以外何があんだよ」

「おまえはっ……! おまえはいつもそうやって、オレをスキップで追い抜いていくよなあ! オレなんか、未だに美紅ちゃんと進展ゼロだっていうのに……!」

「おう、せいぜい頑張れよ」

「なになにー? 俊介の新しい彼女?」

「え!? なにこのエグい美人!」


 龍樹が大騒ぎしたせいで、他の奴らも集まってきてしまった。小柄な雛乃を男どもが取り囲む。雛乃は怯んだ様子もなく「お初にお目にかかります」と頭を下げた。


「御陵雛乃と申します」

「アッ、は、はじめまして」

「ど、どうも、いつも俊介がお世話に……」


 美女にまっすぐ見つめられ、女慣れしていない男たちは揃って挙動不審になった。「可愛い」「やばい」「いい匂いする」などとデレデレと眉を下げているものだから、俊介はなんだか面白くない気持ちになる。雛乃を庇うように、彼女の目の前に立ちはだかった。


「オラッ、さっさと散れ散れ。どうしても見るなら金払え。十秒で百円な」

「クソッ! なんでこんな守銭奴がモテるんだ! 顔だけのくせに!」

「いやあ、しかしすげえ可愛いな……これは金払ってもいいわ……俊介には払わないけど」

「おーいカレンちゃーん! 俊介の彼女来てるよー!」


 龍樹がそう言って、香恋に向かって手招きをした。せっかく香恋が気を遣って知らないふりをしてくれていたのに、余計なことを、と俊介は内心舌打ちしたいような気持ちになる。

 香恋は躊躇しつつも、渋々といった様子でこちらに歩いてきた。香恋が目の前で立ち止まると、雛乃が俊介の後ろからひょっこりと顔を出す。タイプの違う美女が自分を挟んで向かい合っているのは悪くない光景だったが、少々胃が痛い。


「北山香恋です。山科とは、ただのゼミ仲間で……」


 香恋が言い終わらないうちに、周りの男どもが「元カノと今カノのバトルだ」などと余計なことを囁き始める。香恋は眉をつり上げて、そいつらの足を順番に踏んで回った。


「いってぇ!」

「あのねえ! 彼女の前で余計なこと言わないの! 御陵さん誤解しないでね。付き合ってたのももう一年以上前だし、今はあたしも彼氏いるし、もうコイツとはなんでもないから!」

「何の問題ありません。お気遣いありがとうございます」


 香恋は必死の形相で言い募ったが、雛乃は涼しい顔をしている。特に険悪なムードにもならなかったので、俊介はホッとした。

 よく考えなくとも、雛乃にとって俊介はただの契約上の恋人だし、昔の恋人に嫉妬する必要などないのだろう。香恋にしても、今は他に彼氏がいて俊介に微塵も興味がない。


「それにしても、めちゃめちゃ可愛いじゃん! こんなに素敵な子とどこで知り合ったの?」

「龍樹のバイト先の子の知り合いだよ」

「そうそう! なんとこのお方は、御陵コンツェルンのご令嬢だぜ」


 なんの関係もない龍樹が、何故か得意げに胸を張っている。雛乃を取り囲んでいた男たちが、恐れ慄いたかのように一歩退いた。今目の前にいる女が、ただの「友達の彼女」ではないと気付いてしまったのだ。


「はー、あの俊介が御陵コンツェルンのお嬢様と……」

「分不相応だよ、絶対釣り合ってねえじゃん」

「オレたちみたいなのとは住んでる世界が違うって」


 雛乃の正体が判明した途端、友人たちは口々にそんなことを言い出した。美女と交際している俊介へのやっかみも含んでいるのだろうが、俊介も同感だ。雛乃と自分は、住んでいる世界も見ている景色もまるで違う。


「俺もそう思う」


 俊介が頷くと、雛乃は「そうかしら」と呟いて、そっと目を伏せる。頬に影を作るほどに長い睫毛は、悲しげにふるりと震えた。




 学部棟をあとにした俊介と雛乃は、適当にキャンパス内をブラブラして、学食へと移動してきた。

 地下へと向かう階段を降りていくと、五百席以上あるだだっ広い食堂がある。昼どきにはほぼ満席になってしまうのだが、この時間だとさすがに空いている。

 初めて学食に訪れたという雛乃は、キョロキョロと周囲を見回して戸惑っている。この学食はやや複雑な構造をしているため、初心者にはハードルが高いのだ。


「トレイを持って、そこのメニュー見て何食べるか決めてからレーンに並ぶんですよ」

「なるほど、承知しました。では、今日は夕飯をここで済ませましょう」

「……ほんとにいいんですか?」


 意気揚々とトレイを手に取った雛乃に、俊介は溜息をついた。

 御陵家の食卓に何が並んでいるのか、俊介には想像することしかできないが、百円の素うどんよりはいいものを食しているに違いない。家に帰れば、きっともっと豪華なものが食べられるだろうに。


「あなたと同じものを注文することにします」

「後から文句言わないでくださいね」


 俊介は悩んだ結果、無難にラーメンを選んだ。この世にラーメンとカレーを嫌いな人間はいない、というのは俊介の持論である。

 券売機で食券を購入し、学食のおばちゃんからラーメンを受け取った雛乃は、慎重な足取りで席へと歩いていく。椅子に腰を下ろすと、ハーフアップにしていた髪を解いて、頭の後ろでポニーテールにまとめる。真っ白いうなじが露わになって、俊介の視線は自然とそこに吸い寄せられた。


「? どうかしましたか」

「あ、いや」


 雛乃は怪訝な表情で見つめられて、俊介は慌てて目を逸らした。割り箸を咥えてパキンとふたつに割る。雛乃は割り箸を割るのに失敗したらしく、片方が鋭利な槍のようになっていた。「割り箸検定不合格っすね」とからかうと、軽くむくれてみせる。

 ほかほかと湯気の立つ醤油ラーメンには、メンマとネギ、薄っぺらいチャーシューが二枚乗っている。「いただきます」と手を合わせてから、雛乃はゆっくりとラーメンを口に運んだ。

 いつものように黙々と食べているが、食べるスピードが遅い。というより、麺を啜るのが下手くそなのだ。食事の際に音を立てるな、という教えの元に育ってきたのかもしれない。

 俊介がすっかり食べ終えたあとも、雛乃の鉢にはまだ半分以上残っていた。暑いのか頰を赤く染めて、首のあたりにうっすら汗の粒が浮かんでいる。はむはむとラーメンを食べていた雛乃は、手を止めて軽くこちらを睨みつけてきた。


「……そんなに見られると食べにくいです」

「いい眺めですよ。どうぞごゆっくり」


 こうして一緒にラーメンを食べていると、相手が御陵コンツェルンのお嬢様だということを忘れそうになってしまう。割り箸を割るのが下手くそで、ラーメンが啜れなくて、ポニーテールが似合う可愛い女の子。


(……もし彼女がお嬢様じゃなくて、同じ大学に通う普通の女の子だったら。別の形で付き合うこともあったんだろうか)


 一瞬そんな想像をしてしまって、馬鹿げている、と自嘲した。目の前にいる女は、自分とは別の世界に住んでいるお嬢様だ。その事実は、どうあっても揺るがない。


 麺が伸びてしまうのではないか、と心配になるほどの時間をかけて、雛乃はラーメンを食べ終えた。しゅるりとポニーテールを解いて、元通りのハーフアップに戻してしまったとき、俊介は内心がっかりした。


「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「え、マジですか」

「ええ、たまにはいいものですね。他のメニューも食べたくなりました」

「お嬢様もラーメンとか食べるんすね。庶民の味がお口に合ったなら幸いです」


 冗談めかして俊介が言うと、雛乃はやや傷ついたように下唇を噛み締めるのがわかった。


「……俊介は、私のことを何だと思ってるのかしら。そんな風に線を引かれるのは、少し寂しいです」


 本来であれば、寂しい、だなんて思われる筋合いはない。俊介にとって、雛乃はただの雇用主だ。彼女に優しくするのも、相応の金を貰っているからだ。

 それなのに、どうして――彼女が悲しそうにしていると、胸が苦しくなるのだろうか。


(なんで、そんなに本気で寂しそうにするんだよ。金で繋がってる契約関係なんだから、冗談めかして「減点です」とでも言ってくれよ)


 そんな言葉を飲み込んで、俊介はへらへら笑顔を取り繕う。「すみませんね」と答えた言葉は、やたらと薄っぺらく空虚に響いた。

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