18.お嬢さんの運転手

「今日もとっても楽しかったです。プールで泳ぐなんてずいぶん久しぶり」

「それはよろしゅうございました」

「でも、俊介は少々加減がなさすぎです。本気で水をかけてくるものだから、すっかりメイクが落ちてしまいました。プールに放り投げられたときはどうしようかと」


 ハンドルを握った石田の背後で、雛乃がくすくすと楽しげに肩を揺らして笑った。彼女のそんな表情を見ると、石田の頬は自然と綻ぶ。

 山科俊介とのデートのあと、雛乃はいつもあれこれと感想を話してくれる。イルカが可愛かった、映画が面白かった、ケーキが美味しかった、など。それを聞くのが、最近の石田の楽しみになりつつあった。

 思えば昔は毎日こうだったな、と石田は過去を懐かしんで目を細めた。当時小学生だった雛乃は、学校での出来事を嬉しそうに話してくれたものだ。

 幼少期から英才教育を受けていた雛乃は、バレエや生花、書道に英会話といった習い事に毎日追われていた。たまには友達と遊びたい、とぐずる彼女を宥めたことも一度や二度ではない。


 ――いきたくないです。ひな、ゆりちゃんとあかねちゃんとあそびたい……。いしだ、だめですか?


 当時の自分は、ぽろぽろと透明な涙をこぼす雛乃の頭を撫でて、習い事へと連れて行くことしかできなかった。

 そんなことを繰り返しているうちに、いつしか雛乃はすべてを諦めたような目で、黙って車に乗るようになった。無邪気な笑みは次第に失せて、氷のように冷たい表情を浮かべるようになっていた。

 ……果たして自分の行動が正しかったのか否か、石田にはわからない。

 それでも、ただひとつだけ言えることは。半世紀近く御陵家に仕える石田政宗にとって、御陵雛乃は自分の命よりも大事なお嬢様だということである。


 かつては雛乃の父親の秘書をしていた石田だったが、雛乃が生まれてすぐに、彼女の専属運転手を任せられた。

 幼い雛乃は自分のことを慕ってくれて、天使のような笑顔で「いしだ、いしだ」と呼んでくれた。おままごとに付き合わされたこともある。きっと、周囲の大人たちが構ってくれずに寂しかったのだろう。石田はそんな彼女のことを、目に入れても痛くないほど可愛がっていた。

 それから十年以上の時を経て、雛乃は美しく聡明で心優しい女性に成長した。きっと彼女は父の決めた男性と、幸せな結婚をするのだろう。雛乃が嫁ぐその日のことを想像して、涙ながらに晩酌をすることもしばしばだった。


 しかし手のかからない優等生だった雛乃が、突如として反乱を起こした。


 ――山科俊介さん、私の恋人になってください。もちろん報酬はお支払いします。

 

 どこの馬の骨とも知らない男と、あろうことか恋人契約を結ぶと言い出したのだ。

 当然のことながら、石田は心配した。雛乃が連れてきた男は今風の洒落た美青年(若い人たちはイケメン、とでも言うのだろうか)だったが、どことなく遊び慣れた雰囲気もあった。大事に見守ってきたお嬢様が、得体の知れない男の毒牙にかかるのでは、と思うと不安で仕方がなかった。


 しかし石田の心配をよそに、雛乃は毎週楽しそうにデートに出掛け、満足そうに戻ってきた。話を聞く限りでは、プラトニックで健全なデートをしているらしい。手の早そうな顔をしているくせに意外である。


(しかし、まあ……よほど金目当ての碌でなしかと思ったが、そうでもなさそうだ)

 

 石田は今日初めて雛乃と俊介のデートを目の当たりにしたが、傍目から見る二人は仲睦まじいカップルそのものだった。雛乃のことをあんな風に扱う男を、石田は今まで見たことがない。親しげに笑い合う姿を見ていると、彼らが契約関係にあるだなんて誰も思わないだろう。

 雛乃が真剣に選んだ水着を、きっとあの男は見たのだろう。席を外して戻ってくると、デレデレと鼻の下を伸ばしていたから間違いない。あの生意気な若造め。しかし雛乃が幸せそうに微笑んでいたので、石田は何も言えなかった。


「来週は、一緒に夏祭りに行こうって言ってくれたんです。とっても楽しみ……」


 バックミラーに映る雛乃は、少女のようにキラキラと瞳を輝かせて窓の外を眺めている。頬を紅潮させるその姿は、まさしく恋する乙女と呼ぶに相応しい。


 ――このこと知ったらお嬢さんの親は……石田さんの雇い主は怒るんじゃないですかね。


 俊介の言葉が蘇ってきて、石田は苦々しい気持ちになった。

 当然、怒られるに決まっている。石田が黙っていたことが雇い主にバレては、きっと即刻首が飛ぶだろう。長年の恩を仇で返すのか、と罵られても仕方がない。


「俊介はどんな浴衣が好きかしら? 手持ちの小紋柄のものは、少し地味かもしれませんね」


 俊介と契約を結んでからの雛乃は、かつてのように感情を豊かに表すようになった。笑ったり拗ねたり怒ったり、そんな雛乃の表情を取り戻したのは、紛れもなくあの男である。

 しかしこの恋人契約は、ほんのひとときのモラトリアムである。今まで親に決められたレールをひたすらに歩いてきた雛乃の、ささやかな反乱。

 契約期間が終われば、石田は雛乃を俊介から引き離し、定められた婚約者の元へ連れていかなければならない。

 雛乃は泣くだろうか。それとも、仕方がないと諦めたような顔をするだろうか。いずれにせよ、石田に選択肢などありはしない。それが御陵家に仕える自分の使命なのだから。


「ねえ石田。もしよろしければ、浴衣を選ぶのも手伝ってくれませんか? とびきり素敵なものを新調したいのです」


 しかし、かつてのように無邪気に微笑む雛乃を見ていると、少し未来さきの鬱屈などどうでもよくなってしまう。

 

「……ええ。もちろんです、雛乃様」


 そう答える石田は今日も、彼らの関係の歪さに目を瞑るのだ。

 御陵邸が近付くにつれて、雛乃の表情から次第に温度が失われていく。巨大な駐車場にロールスロイスを停め、後部座席の扉を開けて雛乃の手を取ったときには、彼女の瞳は氷のように冷たくなっていた。

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