19.お嬢さんの理想
八月二週目の土曜日、恒例となった雛乃とのデートの日。本日のシフトは十四時から十八時だ。
駅前のロータリーで立っていた俊介の目の前で、白いロールスロイスが停まる。後部座席から降り立った雛乃は、運転手に手を引かれながら俊介の目の前にやってきた。
彼女が小さく首を傾けると、髪に飾られた簪がしゃらんっと鳴る。長い黒髪は後頭部で綺麗にまとめられていた。水着姿も最高だったが、これもなかなか良いものだ。
「ごきげんよう。俊介、どうかしら?」
「とてもよくお似合いですよ、雛乃さん」
俊介の言葉にはにかんだ雛乃は、レトロな古典柄の浴衣姿だった。日傘も浴衣に合わせたのか、洒落た和風のものになっている。紺色の浴衣は派手でははないが、上品で高級感がある。クリーム色の帯は複雑な形で結ばれており、脱がすのが大変そうだな、などと考えてしまった。脱がせる予定はないから、余計な心配だ。
「まさか、浴衣着てくるとは思いませんでした」
「ふふ。せっかくの夏祭りですから」
今日はここから少し離れた川沿いで、大規模な夏祭りが行われる。夜になれば花火も上がるのだが、雛乃の門限の都合上、花火の時間までは一緒にいられない。
しかし昼間でも出店などは出ているし、一度行ってみたかったという雛乃の言葉を聞いて、デートプランに組み込んでみたのだ。
「雛乃様。本日は暑さが厳しいですから、充分にお気をつけて。水分補給を忘れませぬよう」
「わかっています。子ども扱いしないで」
石田の言葉に、雛乃は拗ねてむくれてみせる。石田は「雛乃様をくれぐれもよろしくお願いします」と俊介に言ったあと、再びロールスロイスに乗り込んでいった。
凶悪な日差しは、じりじりと容赦なく二人に降り注いでいる。俊介はげんなりしつつ、雛乃の手を取った。
「あー、暑すぎてもう無理。雛乃さん、さっさと電車乗りましょう」
夏祭りの会場は、ここから少し離れた場所にある。会場近くは歩行者天国となっており車が停められないので、ここで待ち合わせをしたのだ。
俊介は雛乃と手を繋いだまま、駅の改札と向かった。雛乃はカラカラと下駄を鳴らしてついてくる。そのまま改札を抜けようとすると、雛乃が「あの」と戸惑った声を出した。
「すみません。えっと……切符を購入しても良いでしょうか」
「え、雛乃さんICカード持ってないんすか?」
「はい……あの、切符の購入方法を教えていただいても?」
「あ、はい。もちろん」
俊介は雛乃を券売機の前に連れて行く。クレジットカードが使用できないことに動揺していたが、一応財布の中に現金も入っていたらしい。タッチパネルを操作して、無事に二百六十円の切符を購入した雛乃は、「買えました!」と誇らしげな顔をしていた。
「……普段、電車乗らないんですか?」
「そうですね、ほとんど乗った記憶がないです。大抵、石田が送迎してくれるので。あとはタクシーですね」
考えてみれば当然だ。どこに行くにもあの運転手の送迎つきなのだから、電車に乗る機会などほぼないだろう。日頃公共交通機関を駆使している俊介は、目から鱗が落ちたような気持ちだった。
「気が回らなくてすみません。電車、乗り方わかります?」
「も、問題ありません。経験はありませんが、知識はきちんとあります!」
雛乃はそう言ったが、どうにも不安だ。
俊介に見守られるなか、雛乃は緊張の面持ちで、握りしめていた切符を自動改札機に通す。無事通過してほっとしたのも束の間、切符を取らずにそのまま行こうとするので、俊介は慌てて声をかけた。
「雛乃さん! 切符忘れてる!」
「えっ、あっ、そ、そうですね。失礼しました」
自動改札機から切符を抜いた雛乃は、再びそれをしっかりと握りしめた。なんだかこっちがドキドキしてしまう。まるで「はじめてのおつかい」を見ている気分だ。
俊介は事前にチャージしておいたICカードをかざして改札を通った。雛乃が羨ましそうな目つきでこちらを見てくる。
「あら、スマートですね……私もそれにしようかしら」
「ほとんど電車乗らないなら、いらないでしょ。雛乃さん、切符なくさないでくださいね」
「こ、子ども扱いしないでください!」
そう言って雛乃は膨れてみせたが、急に不安になったのか、いそいそと切符を財布の中にしまいこんだ。
雛乃の手を引いてホームへと向かう階段を上がると、ちょうど電車が到着したところだった。「乗りますよ」と声をかけてから車両に乗り込む。
夏祭りに向かう浴衣姿の女性の姿もちらほらあり、車内はそれなりに混雑していたが、ちょうど目の前の座席が空いていた。雛乃と並んで腰を下ろす。車内は少々冷房が効きすぎていて寒いぐらいだ。雛乃は落ち着かないのか、膝の上で不安げに拳をギュッと握りしめている。
二駅進んだところで、目の前の扉から男性が入ってきた。まるで俳優のように端正な顔立ちをした長身のイケメンだ。顔だけでいくらでも金稼げそうだな、と思いつつ、俊介は視線をそちらに向ける。
男は一人ではなく、傍に女性を伴っていた。落ち着いた雰囲気のある、なかなかの美人だ。男に支えられるようにして車内に入ってきた彼女は華奢だったが、腹だけが大きく膨らんでいる。別に、ワンピースの中にスイカを隠しているわけではないだろう。妊婦なのだ。
「おねーさん。よかったら、ここどうぞ」
俊介は立ち上がると、妊婦に向かってそう声をかけた。彼女は驚いたように目を見開いたのち、「ありがとうございます。助かります」と丁寧に礼を言ってくれた。重そうな腹を抱えながら、空いた席へと腰を落ち着ける。
「あの、私も」
雛乃がそう言って立ち上がろうとするのを、イケメンは片手で軽く制した。真面目くさった顔で「大丈夫です。俺の腹の中は何も入ってないから」と言うと、女性は吹き出す。
俊介は雛乃の前の吊り革を掴んで立った。隣の夫婦は、ぽつぽつと小声で会話している。どうやら子どもの名前を考えているらしく、あれこれ候補を出していた。これは語呂がよくないとか、画数はどうだとか、なかなか楽しそうだ。身重の妻を見つめる男の表情には、彼女を大事に思う感情が滲み出ていた。
そうこうしているうちに、目的の駅に到着してしまった。雛乃に向かって「降りますよ」と声をかけると、彼女は頷いて立ち上がる。
「あの、本当にありがとうございました」
最後に夫婦が、もう一度俊介に向かってそう言ってくれた。大したことはしていないが、感謝されるのは気分が良い。
電車から降りて、改札へと向かう階段を降りて行くと、雛乃がポツリと呟いた。
「先ほどのご夫婦、幸せそうでしたね。赤ちゃんのお名前、結局どうされるのでしょうか……」
「なんだ。雛乃さん、盗み聞きしてたんですか」
俊介がからかうように言うと、雛乃はややばつが悪そうに目を伏せた。
「し、自然と耳に入ってきただけです。俊介だって聞いていたのですよね?」
「隣に立ってたんで、そりゃあ」
「……とっても素敵な旦那さんでしたね。いいなあ」
雛乃がうっとりとした表情で、ほうっと溜息をつく。彼女にも、ああいう容姿の整った優しい男性と結婚したい、という願望があるのだろうか。
俊介はなんだか悔しくなってきた。自分の容姿に自信がないわけではないが、さすがにさっきの男には負ける。
「雛乃さんも、やっぱりああいうイケメンと結婚したいんですか? もしかして面食い?」
「そういうわけでは……いえ、どうなのでしょう。あまり考えたことがありませんでした。完全に容姿を度外視しているわけではないと思いますが」
ほんの軽口のつもりが、思いのほか真剣に考え込まれてしまった。雛乃は頰に手を当てて、小さく首を傾げる。
「考えておきます。自分がどんな男性と結婚したいのか」
「そんな、真面目に答えてくれなくてもいいですよ。ちょっと気になっただけなんで」
「……そう、ですね。どうせ、私には選択肢はありませんものね」
そう言った雛乃の横顔はどこか悲しげで、俊介の胸は軋んだ音を立てる。彼女はそう遠くない未来に、俊介の知らない男と結婚するのだ。
「雛乃さんの婚約者、イケメンだといいですね」
そんな、心にもないことを口走る。こちらを見上げた雛乃が、じいっと俊介のことを見つめた。浴衣姿の彼女の唇は、いつもより濃い赤色をしている。口紅を塗っているのだろうか。
「……私。あなたのことも、とてもかっこいいと思います」
「お褒めにあずかり光栄です。たしかに、顔面の造形の良さはそれなりに自負してます」
「いえ、単に容姿の問題だけではなくて」
雛乃はそこで言葉を切ると、きゅっと目を細めて柔らかく笑んだ。
「先ほどのような場面で、妊婦さんに迷わず席を譲れるところも、素敵ですね」
「……いや、それは別に……普通のことでしょ」
そんなところを褒められると思っていなかったので、俊介は面食らった。
自分が座っているときに目の前に妊婦が現れたら、大抵の健康な人間は同じことをするのではないかと思う。現に、雛乃だって席を立とうとしたではないか。
「特別褒められるようなことじゃ、ないと思いますけどね」
「そうでしょうか。……それを当たり前のことだと思ってるところも、とっても素敵です」
ふわりと微笑んだ雛乃と目が合った瞬間に、電車の冷房で冷やされたはずの頰が、また熱を持っていく。突如として、繋いだ手に滲む汗が気になり始めた。
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