17.お嬢さんの水着
睨みを利かせている石田をよそに、俊介は雛乃の腕を軽く引いた。せっかくの貸切プールなのだから、楽しまなければ損である。ホテルのインフィニティプールを貸し切ることなど、おそらくこれからの人生で二度とない。
「雛乃さん、泳ぎましょうか。浮き輪とか借りられるんです?」
「え、ええ……でも、浮き輪がなくても泳げますよ。水泳は得意な方です」
「まあまあ、念の為にあった方がいいでしょ」
俊介に手を引かれた雛乃は、ぴょこぴょことポニーテールを揺らしながらついてくる。
ラッシュガードは着ているものの、決して小さくない胸の膨らみはしっかり確認できるし、短いスカートから伸びる太腿は健康的で柔らかそうだ。長い髪をポニーテールにしているのも素晴らしい。やはり雛乃のポニーテールは最高だ。
(神様、ありがとうございます)
俊介は意味もなく神様に感謝した。無宗教のくせに、こんなときだけ都合の良いことだ。
さすがは高級ホテルということもあり、レンタルできる浮き輪の種類も豊富である。バスタオルも使い放題、ドリンクも飲み放題だ。貧乏性の俊介は、ただそれだけのことでテンションが上がった。
「あっ、雛乃さん。これにしましょう」
巨大な浮き輪を手に取って、雛乃にかぶせる。そのまま、「ちょっと失礼」と断ってから、雛乃の身体を肩の上に持ち上げた。想像以上に軽い。中身がちゃんと詰まっているのかと、心配になるほどだ。
「きゃっ、きゃあ!」
驚いて悲鳴をあげる雛乃を、ぽいっとプールの中に放り投げた。ばしゃんと小さな飛沫が跳ねる。それを追うように俊介もプールに飛び込む。
「お、お、お、驚かさないでください! し、心臓が止まるかと思いました……!」
雛乃はぽかぽかと俊介の胸を叩いてくる。プールサイドにいる石田が般若の如き形相でこちらを見ていたが、知らないふりをする。俊介は片手を立てて、「すみません」と謝罪した。
「お詫びにエスコートしますよ、お姫様」
「当然です!」
膨れっ面の雛乃の浮き輪を引っ張ってやる。水温はほどよく低く、夏の熱で火照った体をひんやりと冷ましてくれる。たまにはプールで泳ぐのもいいものだ。
「はあ、気持ち良いですね……」
「夏の贅沢の極みっすね」
雛乃は浮き輪に身体を預けて、うっとりと目を閉じている。青い海と空と一体になったプールは開放感があり、このままどこにでも行けてしまいそうな気がする。
しかし、いくら果てがないように見えたとしても、実際には限りがあるのだ。あっというまにプールの縁までやって来た二人は立ち止まる。下を見ると、溢れた水を受け止める排水溝があった。こういう構造になってたのか、と俊介は感心する。
「これ以上は、どこにも行けませんね」
雛乃がポツリと呟いた。その声が思いのほか暗い響きを孕んでいて、俊介は驚いて彼女の顔を見る。
浮き輪にしがみついた雛乃は、決して辿り着けない海の向こう側をじっと見つめていた。
(……欲しいものは何もかも手に入る、金持ちのお嬢様のくせに。なんで、そんな顔するんだよ)
俊介の胸に、嫉妬にも似たどす黒い感情が押し寄せてくる。しかしそれを表には出さず、俊介は手を伸ばして彼女の濡れた頬を拭ってやった。
「そういや、さっきビーチボールもありましたね。あとでビーチバレーしましょうか」
「あら、今度は負けませんよ」
俊介の言葉に、雛乃は微笑む。その笑顔には、先ほどまでの屈託はもう見えなかった。
恵まれているはずの彼女は、果たしてどこに行きたいと思っているのだろうか。それを尋ねてみたい気もしたが、俊介は何も言わなかった。
それから俊介と雛乃は、二人でプカプカと浮かんだり、はしゃいで水を掛け合ったり、ビーチバレーの勝負をしたりした。ラッシュガード越しでも雛乃の胸が揺れているのがわかって、着てなかったらさぞかし絶景だっただろうなあ、と残念に思ったりもした。
そのあと二人はテラスルームに移動して、ビーチベッドに腰を下ろした。石田がすかさず雛乃にバスタオルを差し出し、雛乃は自然にそれを受け取る。ずっと二人を見守っていた石田は、相変わらず汗ひとつかいていない。
「石田さんは泳がないんですか?」
「私は遠慮しておきます。文字通り、年寄りの冷や水ですからね」
「石田も水着を買えばよかったのに。このあいだ、私の水着を買うのに付き合ってもらったんですよ」
女性向けの水着売り場に同行する石田の姿を想像して、俊介は吹き出した。このお嬢様と運転手、ちょっと仲が良すぎないか。本物の父子でも、なかなか一緒に水着は買いに行かないぞ。
「雛乃さん、わざわざ水着買ったんですね」
「ええ、競泳用の水着しか持っていなかったもので」
「それはそれでエロ……いえ、なんでもないです」
石田の視線が怖かったので、皆までは言わなかった。もし口に出していたら、間違いなく「ばか」と言われていただろうが。
「たくさん種類があって迷いましたが……石田のおかげで、素敵なものが買えました」
「へー。どんなやつ買ったんです?」
「シンプルな白のビキニです。胸元にフリルがついています」
言われて、ビキニ姿の雛乃を想像してみる。上品な白のフリルは、さぞかし清楚な彼女に似合うだろう。想像した途端に、彼女の肌を覆うラッシュガードが憎らしくなってきた。
「見たかった……」
思いのほか、悲痛な声が出てしまった。見たかった。本当に、見たかった。
がっくりと項垂れた素直な俊介を見て、雛乃はキョロキョロと視線を彷徨わせる。それから、コホン、とわざとらしい咳払いをした。
「……石田」
「はい、雛乃様」
「申し訳ないのだけど、私と俊介に飲み物を作ってきてくれないかしら? 生のパイナップルが入ったトロピカルドリンクをお願いします」
「かしこまりました」
うやうやしくお辞儀をした石田は、テラスルームの奥にあるドリンクコーナーへと向かう。彼の姿が見えなくなってから、雛乃がいそいそと俊介の隣へと移動してきた。腕と腕がくっつきそうな距離だ。
「あの、俊介」
「はい」
「……実は私も、せっかく水着を買ったのだから、俊介には見てもらいたかったのです」
「へ」
「……石田には、内緒ですよ?」
雛乃は小悪魔めいた仕草で、一本立てた人差し指を口元に当てた。まるで催眠術にかけられたように、ぼうっとした俊介は「ハイ」と頷く。
雛乃はラッシュガードのファスナーに手をかけた。まるで焦らすかのようにゆっくりと、それを下ろしていく。
雪のように真っ白な肌、綺麗な鎖骨の窪み。大きなふたつの山のあいだに刻まれた、くっきりとした谷間。ふくらみを包み込む白のフリル。きゅっとくびれた腰に、小さくて可愛い臍。
そのすべてが目の前に晒されるさまを、俊介は馬鹿みたいに口を開けて眺めていた。ビーチベッドの上に畳んだラッシュガードを置いた雛乃は、はにかんだように首を傾げる。
「い、いかがでしょうか?」
雛乃に問いかけられて、俊介ははっと我に返った。いつものようにポーカーフェイスを取り繕おうと思ったが、みっともなく声が裏返る。
「あ、いや……たいへん……お似合いです」
「本当に?」
「はい。可愛いですよ」
「ふふ。ありがとうございます」
嬉しそうに微笑んだ雛乃の水着姿は、想像以上の破壊力だった。石田が「俊介に見せるのは危険だ」と言った気持ちがよくわかる。腹の中に飼った狼が暴れ出しそうだ。
水着姿の雛乃が、そっと距離を詰めてくる。濡れた肌と肌がぶつかる。柔らかなものが二の腕あたりに押し付けられて、俊介は内心ぎくりとした。理性がじりじりと擦り切れていくのがわかる。
「……やっぱ、貸切プールで正解でしたね」
「え?」
「雛乃さんのこんな格好、他の男に見せるのは嫌です」
俊介の言葉に、雛乃はキョトンと瞬きをする。
せめて、今だけは――契約期間が終わるそのときまでは、自分以外の人間に、こんなにも無防備な姿を見せないでほしい。そんなことを考えるのは、過ぎた願いだろうか。
(俺は本当は、彼女の素肌に触れる権利なんてない)
俊介は名残惜しく思いながらも、しっかりと雛乃の水着姿を網膜に焼き付ける。口うるさくて過保護な運転手が帰ってくる前に、彼女にラッシュガードを着せて、ファスナーを上まで閉めてやった。
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