16.お嬢さんと貸切プール
日頃の努力の甲斐もあり、俊介はそつなく前期試験の日程をこなした。これから八月から九月末までのおよそ二ヶ月、長い夏休みが始まる。
例年通りならば、俊介は勉強しつつせっせとバイトに精を出しているはずだ。しかし今年の夏は、雛乃とのデートという重大な任務がある。夏休み中も特にペースは変えず、週に一回会う予定だ。
俊介はいつものようにデートプランを考え、雛乃にメールで送信した。普段ならばメールで「承知しました」とそっけない返事が返ってくるだけだが、今回ばかりは様子が違った。「今お時間よろしいですか」と断ったうえで、わざわざ電話をかけてきたのだ。
「来週のデートプランですが……申し訳ありません、却下です」
「え?」
雛乃の言葉に、俊介は思わず訊き返していた。これまで特に異議なく採用されてばかりだったので、却下されるのは初めてだ。何かまずかっただろうかと、俊介は首を捻る。
「それなら、考え直しますけど……何がお気に召さなかったんですかね」
俊介が提案したデートスポットは、隣県にあるウォーターパークだった。さまざまな種類のプールに、巨大なウォータースライダーもある。前回のアミューズメント施設も嫌がられなかったので、特に問題はないだろうと思っていたのだが。
「私も、とても興味深いと思ったのですが……その、ああいった人の多い場所で、肌を露出するのは……は、恥ずかしい、です」
「ああ、なるほど。わかりました」
慎ましいお嬢様らしい考え方だ。非常に残念だけれど、そういうことなら仕方がない。もちろん雛乃の水着姿は見たかったが、俊介にとって雇用主の意向以上に優先すべきものはないのだ。
「じゃあプールとか海とか行かなくていいんで、俺にだけこっそり水着姿見せてくれません?」
「ばか」
間髪入れずに「ばか」が飛んできた。俊介のセクハラに対する雛乃の反応速度は、どんどん速くなっているようだ。
相手から見えないのをいいことに、俊介がニヤニヤしていると、雛乃がおずおずと切り出してきた。
「……俊介は、見たいのですか? その……私の水着姿」
「え? そりゃあ見たいですよ。当たり前でしょ」
正直なところ、今回のデートも半分ぐらい(いや、ほんとは八割ぐらい)は雛乃の水着姿見たさで提案したようなものである。きっとさぞかし可愛いだろう。いくら契約上の恋人だろうが、彼女の水着は見たいに決まっている。
「でも、お嬢さんが嫌なら無理強いはしません。別のプラン考えますよ」
「……それでは、こういうのはいかがでしょうか」
雛乃が提案したデートプランに、俊介は驚く。それでも断るなんて選択肢は当然存在せず、喜んでそれを受け入れた。
そして、訪れた週末。俊介は高級ホテルのラウンジで涼みながら、雛乃のことを待っていた。
どうやらドリンクは無料のサービスらしく、調子に乗った俊介は普段頼まないレモネードを注文した。炭酸なしのレモンスカッシュのような味で、よくわからないが美味い。
そのとき入口のドアが開いて、ワンピース姿の雛乃が入ってくる。いつもより、やや緊張した面持ちをしているようだ。傍には、当然のように運転手の石田が控えていた。
「こんにちは、お嬢さん」
「……ごきげんよう。では、参りましょうか」
「はい」
俊介はレモネードを飲み干してフカフカのソファから立ち上がり、持ってきていたスポーツバッグを掴んだ。中には、先日ネットで買ったばかりの水着が入っている。
エレベーターに乗って、ホテルの最上階へと向かう。それぞれ更衣室に別れて、水着に着替えた。更衣室を出るとすぐ目の前に、立派なプールが現れる。俊介以外には誰もおらず、完全な貸し切り状態である。
(やっぱ、金持ちはやることのスケールが違うな……)
雛乃が提案したデートスポットは、ホテルの屋上にあるプールだった。デートのために、わざわざ貸し切ったのだという。
不特定多数の人間に肌を晒すのは嫌だが、俊介に見られるのは構わないらしい。雇用主からの信頼を勝ち得ているのはありがたいことだが、男としては喜んでいいのかわからない。まったく、危機感のないお嬢様だ。
透き通った水面が、真っ青な空とさんさんと輝く太陽の光を跳ね返して、キラキラ光っている。ホテルの前にある海へとそのまま繋がっているように見える、いわゆるインフィニティプールというやつだ。
プールサイドに、スーツ姿の石田が立っているのが見えた。この暑さのなかジャケットを羽織っているのに、汗ひとつかいていない。なにか特別な訓練でも受けているのだろうか。俊介は彼に歩み寄り、声をかけた。
「石田さん。今日は帰らないんですか?」
「はい、本日は同席させていただきます」
何か問題でも? とばかりにじろりと睨みつけられる。
なるほど。どこの馬の骨とも知らない男子大学生と、水着姿のお嬢様を二人きりにするのは、さすがに危険だと判断されたらしい。金を貰っている以上、妙な真似をするつもりはないが、賢明な判断だと思う。
「でも、それって石田さんの仕事なんですか? 運転手でしょ?」
「私が好きでしていることですから。それに、働きに見合った報酬はいただいてるつもりです」
「へー。もしかして、お嬢様のお守りも給料分に含まれてるんですか? 大変ですね」
不躾な俊介の発言に、石田は眼鏡をくいと片手で持ち上げた。どことなく、少年漫画に出てくる強い老人キャラみたいな風格がある。かつては凄腕の傭兵でした、なんて言われても驚かない。
「石田さんって、俺とお嬢さんの関係のことどう思ってんですか? ほっといていいんです?」
ふと疑問に思い、俊介は尋ねてみた。冷静になって考えると、金で恋人を買うなどとんでもない奇行である。思えば石田は、恋人契約を結んだ一部始終を見ていたはずだが、野放しにしておいていいのだろうか。
俊介の問いに、石田は淡々と答えた。
「雛乃様のご意向に、私如きが口を出すつもりはありません」
「でも、このこと知ったらお嬢さんの親は……石田さんの雇い主は怒るんじゃないですかね」
「……それはもちろん、そうでしょうね」
「お嬢さん、婚約者いるんでしょ?」
「……私は、御陵家に仕える身ではありますが……雛乃様の幸せ以上に、優先すべきことはありません」
温度のない機械のようだった石田の声色に、ほんの少し温かなものが混じる。雛乃のことを本当に大事に思っているのだな、とこの短いやりとりだけでわかった。親代わりのようなものだ、という雛乃の言葉も嘘ではないのだろう。
「山科様とお会いになるときの雛乃様は、本当に楽しそうですから。お嬢様が笑っていることが、私の何よりの幸せなんです」
「……へえ。そうすか」
「短い間ですが、雛乃様のことをよろしくお願いいたします」
そう言って、石田は俊介に向かって深々と頭を下げた。短い間、という言葉に、俊介は軽い痛みを覚える。しかしそれに気付かないふりをして、「はいはい」と笑ってみせた。
「お、お待たせいたしました」
そのとき、背後で雛乃の声が響いた。着替えが終わったのだ。勢いよく振り向いた俊介は――雛乃の姿を見て、露骨にがっかりした。
「……いやいや雛乃さん。なんでラッシュガード着てるんですか!」
俊介の言葉に、雛乃は恥ずかしそうに俯いた。
彼女は水着の上に、長袖のパーカータイプのラッシュガードを羽織っていた。ファスナーは上までしっかりと閉められており、上半身を完璧にガードしている。
「いざとなると、少し……恥ずかしくて」
「大丈夫ですよ、俺と石田さんしかいませんから」
「……じゃ、じゃあ、脱ごうかしら。せっかく買ったのですものね」
「駄目です」
俊介の押しに負けそうになった雛乃を制止したのは、石田だった。眉間に皺を刻んだ運転手は、俊介と雛乃のあいだにずいっと割って入ってくる。
「雛乃様。先日雛乃様が購入された水着ですが、やはり少々露出が激しいかと」
「あら、石田も似合っていると言ってくれたではないですか」
「それは、そうですが……彼に見せるのは、少し危険ではないでしょうか」
そう言った石田は、チラリと俊介に視線を向けた。先ほどまでとはうって変わって、鬼のような形相でこちらを睨みつけている。
「俊介はちっとも危険ではないですよ」
「雛乃様。以前から繰り返し申し上げている通り、男は皆狼なのです。それをお忘れなきよう」
「? ……わかりました」
雛乃はそう答えたが、よくわかっていないような顔をしていた。頭にハテナマークを浮かべながら、不思議そうにこちらに視線を向けてくる。
無垢な瞳に見つめられた俊介は、小さく肩を竦めることしかできなかった。自分の中に狼が潜んでいることは、否定できなかったからだ。
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