15.お嬢さんと業務時間外
あてもなく歩き出した俊介は、知らず雛乃の姿をキャンパス内に探していた。何もしていなくても目立つひとだから、きっとすぐに見つかるだろう。
(あ、いた)
しばらく歩いたところで、噴水前にある案内板と睨めっこしている雛乃の後ろ姿を見つけた。
シンプルな白の半袖カッターシャツに、黒のタイトスカートを合わせている。いつもより地味でフォーマルなスタイルだが、教授の手伝いだからだろうか。椥辻美紅はもっとカジュアルな格好をしていたが。
しかし、地味な格好をしていても、やはり御陵雛乃は抜群に目立つ。ピンと伸びた背中に、行き交う学生たちがチラチラと視線を向けている。俊介はそれらを牽制するように、大股で歩いて彼女の隣に立った。
「こんにちは、お嬢さん」
声をかけると、雛乃はハーフアップの髪を揺らしてこちらを向いた。俊介の姿を認めると、驚いたように目を丸くする。が、それも束の間のことで、すぐに氷の仮面のような顔つきに戻ってしまった。
「こんにちは。山科さん、奇遇ですね」
「さっき、椥辻サンに会いましたよ。ウチの大学来てたんですね」
「ええ、教授の講演会があって」
「お嬢さんに会うのかって聞かれたんで、適当に話し合わせときました」
俊介が言うと、雛乃はやや気まずそうに視線を彷徨わせる。
「……嘘に付き合わせてしまって、申し訳ありません。咄嗟にあなたの名前を出してしまいました」
「別にいいっすよ。龍樹に気ィ遣ってくれたんでしょ。あいつ、椥辻サンと二人でメシ食えるって浮かれてましたよ」
「喜んでいただけたなら、よかったです」
雛乃は涼しい顔で答える。俊介は先ほどまで雛乃が見ていた、大学内の案内板へと視線を移す。
「お嬢さん、こんなところで何してるんですか? どっか行こうとしてます?」
「……学生食堂で、お昼をいただこうと思っています。先日のラーメンが美味しかったので」
雛乃の言葉に、俊介の気持ちはほんの少し浮き上がった。お世辞ではなく、俊介と一緒に食べたラーメンを美味しいと思ってくれたならば、嬉しいことだ。
「へえ。学食の場所、わかります? 案内しましょうか」
「いえ、結構です。あなたには関係のないことですから」
冷たい声でぴしゃりと跳ね除けられて、俊介はややムッとした。業務時間外の雛乃が冷たいのはいつものことだが、ここまできっぱり「関係ない」と言われるのは腹が立つ。
(業務時間外は恋人でもなんでもありません、ってか。こっちだって、タダ働きするつもりはねーけど)
「ああ、そうすか。じゃあ俺はこれで」
自分の口から出た声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
雛乃は「では」とお辞儀をして、颯爽と歩いていく。が、学食とは反対方向だ。追いかけて教えてやるべきか、一瞬悩んだ。
(……いや。わざわざ教えてやる義理もないか。関係ない、って言われたもんな)
そう思いつつも、俊介はいつまでも雛乃の後ろ姿を見守ってしまう。もしかすると彼女は方向音痴なのだろうか、やや不安げな様子でキョロキョロと周囲を見回している。
そのとき、背の高い軽薄そうな男が、雛乃に声をかけた。距離があるため、何を言ったのかはよくわからない。おそらく、何してんの、とか、きみ可愛いね、とか、そんなところだろう。雛乃は相変わらずクールな表情で男をあしらおうとしたが、奴はめげなかった。
尚もしつこく話しかけてくる男に、雛乃の表情が、どんどんうんざりしたものに変わっていく。
頭を下げて立ち去ろうとした雛乃の腕を、男ががしりと掴む。雛乃の表情が、恐怖に歪むのが見てとれた。
「雛乃さん!」
そこで、俊介の我慢に限界が訪れた。大きな声で名前を呼ぶと、小走りで雛乃の元へと駆け寄る。男は反射的に、彼女の腕から手を離した。
「俊介……」
雛乃はやや戸惑ったように、俊介の名前を呼ぶ。俊介はニコッと笑って(営業用の笑顔だ。時給が発生しない場ではめったに見せない)、彼女に向かって言った。
「雛乃さん。俺もちょうど学食でメシ食おうと思ってたので、一緒に行きましょう」
「は、はい……」
俊介は顔面に嘘くさい笑みを貼り付けたまま、男に向かってしっしと手を振る。なにウチの雇用主に余計なちょっかいかけとんじゃい、という気持ちをこめて。
男はモゴモゴと口籠もったが、結局何も言わずにその場から逃げるように立ち去っていった。
「ありがとう、ございます……」
雛乃の頰が、ほっとしたように緩む。先ほど男に掴まれた腕を、左手で軽く撫でた。見知らぬ男に突然身体に触れられるのは、さぞ恐ろしかっただろう。
「変な奴に絡まれたみたいで、大変でしたね。ウチの大学、そんなに治安悪くないはずなんですが」
「い、いえ……少し驚きました。中学の頃から女子校だったもので、男性にあまり慣れていなくて」
雛乃が女子校育ちなのは予想通りだ。どこに行くにも運転手の送迎付きのお嬢様は、一人で繁華街をウロウロしないだろうし、強引なナンパに遭ったことなどないのかもしれない。
「大丈夫でした?」
俊介の問いかけに、雛乃は深々と身体を折りたたんで頭を下げた。大したことはしていないのに、そこまで恐縮されると居た堪れない。
「……気を遣わせてしまって、申し訳ありません」
「いやまあ、それはいいんですけど……」
(……じゃあ、何がよくないんだ)
考えなくてもわかる。俊介が雛乃に腹を立てたのは、彼女に突き放されたように感じたからだ。少し躊躇ってから、俊介は素直に口に出した。
「関係ないって言われるのは、多少ヘコみますね」
俊介の言葉に、雛乃ははっとしたように口元を押さえる。申し訳なさそうに目を伏せると、驚くほど長い睫毛が白い頰に影を落とす。
「失礼しました。その……報酬が発生しない場で、あなたに恋人としての振る舞いを強要するのは申し訳ないかと」
「え?」
「あくまでも私とあなたの関係は、契約上のものですから」
雛乃の言葉を聞いて、ようやく腹落ちした。彼女の業務時間外の冷たい態度は、どうやら俊介を気遣ってのものだったらしい。
もともと、そういう割り切った関係を望んでいたはずだった。都合が良く後腐れがない、業務時間内のみの恋人関係。別に、業務時間外に馴れ合う必要はない。
……ないのだ、けれど。
「……別に。そこまで頑なにならなくても、いいんじゃないですかね」
「そう、でしょうか……」
「そうですよ。取引先の人間と仕事帰りにメシ食ったりするようなもんだと思えば……いや、それもなんかたとえが変だな。えーと、仕事仲間? 上司と部下?」
俊介が言うと、雛乃はほんの僅かに唇の端を上げて微笑んだ。じっと凝視をしなければわからないような、儚く薄い笑み。業務時間外の雛乃の笑顔を見たのは、初めてのことだった。
「……あなたは私と業務時間外に一緒にいることが、嫌ではないんですか?」
「別に、嫌じゃないっすよ。そりゃ今は仕事じゃないから、恋人のフリはしませんけどね。甘さは普段の五割減だと思ってください」
「業務時間中も、そこまで甘やかされているようには感じませんけれど」
「え、マジですか? もっと甘やかせと? うわあ、さすがお嬢さんは甘やかされ慣れてますねー」
俊介の言葉に、雛乃はやや不満げに唇を尖らせた。いつものデートの際に見せるような、子どもっぽい表情だ。業務時間外にそんな顔が見れたことが無性に嬉しくて、俊介は思わず破顔する。
にやにやしている俊介に向かって、雛乃がやや遠慮がちに切り出した。
「あの……もしあなたが、嫌ではないのなら」
「はい」
「……仕事仲間として、一緒に昼食をいただくのは……いかがでしょうか。残念ながら時給は発生しませんし、経費では落ちませんが」
「そうすね。構いませんよ、お嬢さん」
彼女との契約期間は、あと五ヶ月。決して短くはない時間なのだから、多少交流を深めるのもいいだろう。その方が、日頃の仕事もしやすくなるというものだ。
俊介は「じゃあ行きましょうか」と言って、学食に向かって歩き出す。黒のパンプスを履いた彼女は、やや早足で追いかけてきた。
「そういえばお嬢さん。さっき迷ってたみたいですけど、もしかして方向音痴なんですか?」
「違います。以前に通った道を思い出せなかっただけです」
「そういうのを方向音痴って言うんじゃないですかね」
「放っておいてください。俊介は、何を食べるのですか?」
「俺は百円の素うどんです。無料トッピングの天かすとネギを、死ぬほど入れるのが美味さの秘訣ですよ」
「まあ、うどんが百円で食べられるのですね……私もそれにしようかしら」
「別にいいですけど、食い慣れないモン食べて腹壊さないでくださいね」
そんな他愛もない会話を交わしながら、二人は肩を並べて歩いていく。業務時間内のような甘さはないやりとりだったけれど、何故だか妙に心地良く感じられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます