14.お嬢さんからの給与明細

『大学の試験期間に入りますから、次回のデートはお休みにしましょう。再来週のデートプランは、来週の水曜日までにメールで送っておいてください』


 デートの翌日、雛乃からそんなメールが届いていた。来週はどこに行こうかな、なんて考えていたところだったので、やや拍子抜けする。

 スマホを片手に、俊介は自室の畳の上にゴロンと寝転がった。三連休も終わり、もう七月の後半。暑さは日に日に厳しくなるばかりで、俊介も躊躇なく部屋のエアコンを入れている。電気代をケチるよりも、熱中症で病院に運ばれる方が金がかかるからだ。

 雛乃の言う通り、来週からは前期試験が始まる。必要な単位はほぼ取得し終えているし、留年の懸念はないが、学生の本分を疎かにするわけにはいかない。

 俊介も試験勉強はしたいと思っていたし、ありがたく休ませてもらうことにしよう。俊介は「了解です」と返信した。ほどなくして、メールが返ってくる。


『6月11日〜7月20日までの給与明細を添付します。念の為、内容に間違いがないか確認ください。支給日は7月25日です。』


 給与明細。俊介の大好きな言葉のひとつである。そういえば当初の契約で、給料日は毎月二十五日ということになったのだった。

 本来ならばテンションが上がるところなのだが、あまりにも事務的な文面に、俊介はややげんなりした。相変わらず、業務時間外は愛想のかけらもない女だ。デート中の彼女との温度差で風邪をひきそうである。昨日の甘えたような声と笑顔は、幻だったのだろうか。


(俺としばらく会えなくて寂しい、みたいな感情はないんですかね。……なんて、ないに決まってるか)


 俊介はこっそり自嘲しつつ、添付されていたPDFファイルを開く。総支給額の下に内訳が書かれている。時給の他に食事代や交通費も含まれているため、思っていたよりも多い。俊介がしっかり摘要を書いたうえで、領収書を提出したからだ。


(……こんなにも心ときめかない給与明細は、生まれて初めてだな)


 プレゼントしたイルカのぬいぐるみも、二人でケーキを分け合ったスイーツビュッフェも、大学で食べたラーメンも。すべて、「プレゼント代」「食事代」として経費精算されている。

 そのすべてが彼女にとっては、恋人気分を盛り上げるための必要経費に過ぎない。わかっていたことだが、改めて形にされると少し気分が落ちた。理由は、自分でもよくわからない。


(いやいや、なにヘコんでんだよ。金が貰えること以上に嬉しいことなんてないだろ……この世で一番尊く素晴らしいものは金だ)


 俊介にとって、金以上に大事なものはない。ちなみに次点は健康だ。

 俊介は起き上がると、試験勉強をすべくテーブルの上にテキストを広げた。が、今ひとつ集中できず、ちっとも頭に入ってこなかった。




 試験一週間前の図書館は、大勢の学生で溢れかえっていた。試験勉強をしている奴もいるし、期限ギリギリの課題に追われている奴もいる。ちなみに俊介は、提出すべき課題は既に片付けている。

 涼しくて静かな場所で勉強しようかと思ったのだが、図書館にある自習スペースはすべて埋まっている。学部棟のラウンジやゼミの研究室も同様だろう。どうしたもんかね、と考えながら俊介は図書館をあとにした。


 外に出た途端に、凶悪な日射しとうだるような熱気に包まれてげんなりする。ここ最近は、日中暑すぎて蝉すら鳴いていない。そのうち蝉の鳴き声が秋の風物詩になるんじゃないだろうか。


「あっ、俊介ー!」


 ぼんやりしている俊介の背中に、何かが勢いよく突進してきた。「ぐえっ」といううめき声が漏れる。振り向かなくてもわかる、この騒がしい声は龍樹である。俊介はげんなりしながら答えた。


「俊介聞いてくれ、一大事だ!」

「なんだよ。明日の十二時提出締め切りのレポートが終わらないのか? 千円で手伝ってやってもいいぞ」

「バカ、終わってねーけどそれどころじゃないんだよ! 今、美紅ちゃんがウチの大学に来てるらしい!」


 終わってないなら、それどころじゃないわけがないだろうに。色ボケしている龍樹にとっては、椥辻美紅以上に優先すべきことなどないのだろう。

 俊介が「ふーん」と興味なさげに答えると、龍樹は鼻息荒く捲し立てる。


「さっき連絡きて、〝よかったら一緒にお昼でも食べませんか?〟だってさ! これって絶対脈あるよなあ!」

「おまえの脈の測り方、ガバガバだな……いつか医療ミス起こすぞ」

「今から図書館の前来るってさ! 何食いに行こうかなあ!? 女子の好きそうなモンなんてわかんねーよ!」

「知らねえよ。学食でラーメンでも食えば」


 ぎゃあぎゃあうるさい龍樹をあしらっていると、向こうから軽やかな足取りで美紅が歩いてくるのが見えた。夏らしいオレンジカラーのノースリーブに、白のワイドパンツを合わせている。雛乃とタイプはまったく違うが、彼女にもどことなく品の良いお嬢様らしいオーラが漂っていた。

 美紅に気付いた龍樹は、満面の笑みを浮かべてブンブンと手を振る。美紅はぱっと表情を輝かせて、こちらに駆け寄ってきた。


「たっちゃーん。急に呼び出してごめんなさい!」

「全然いいよ! 暇してたから!」


 龍樹はデレデレと眉を下げている。美紅は隣にいる俊介の姿に気付いて、「あら」と目を丸くした。


「山科さん。合コン以来ですねー」

「椥辻サン、こんにちは。今日、どうしたんすか? なんでウチの大学に?」

「うちのゼミの教授が、さっきまでここで講演会してたので、手伝いも兼ねて参加してたんです。ところで山科さん、雛乃ちゃんと一緒じゃないんですか?」

「え?」


 突如出てきた雛乃の名前に、俊介は眉を寄せる。美紅は不思議そうに首を傾げた。


「今日雛乃ちゃんも一緒に来てたんですけど、たっちゃんとお昼食べるけど一緒にどう? って誘ったら、山科さんと約束があるからって断られちゃったんです」

「あー……」


 当然俊介は、雛乃と約束などしていない。ここに来ていることすら、今知ったのだ。

 もしかすると雛乃は、龍樹のために気を利かせてくれたのかもしれない。とりあえず、話を合わせることにしよう。


「……そうそう。このあと、一緒に昼飯食う予定なんです」

「順調にラブラブしてますねー。わたしがセッティングした合コンがきっかけなんですから、感謝してくださいよお」


 そう言って、美紅が誇らしげに胸を張る。俊介は「そうすね、あざす」とへらへら笑って答えた。

 それにしても、うちの大学に来るなんて話、彼女は一言もしていなかった。別に知らせる義務はないのだが、なんとなく腹の底にモヤッとしたものを感じる。


「ほんと、雛乃ちゃんと山科さんが付き合ってるなんてびっくりですよ! 難攻不落のお嬢様を落とすなんて、山科さんやるぅ」


 美紅にぐりぐりと肘で突かれて、俊介は愛想笑いを浮かべる。

 どうやら雛乃は、俊介との交際を周囲に伝えているらしい。下手に隠しておくより面倒ごとが少ないと判断したのかもしれないが、俊介は心配になった。俊介と付き合っていることが、婚約者の耳に入ったらどうするつもりなのだろうか。


(……そんなの、俺の心配することじゃないか)


 雛乃の結婚がどうなろうが、契約が終わったあとのことなど知ったことではない。

 美紅と話している俊介のことを、龍樹は恨みがましい目つきでじとっと睨みつけてくる。そろそろ、お邪魔虫は退散した方がいいだろう。


「じゃあ、俺はお嬢さ……雛乃さんのとこ行ってきます」

「はーい! 今度また四人で飲みに行きましょうねー」

「じゃあなー、俊介」


 俊介が背を向けた瞬間に、龍樹はウキウキと「美紅ちゃん、なに食べる?」と美紅に尋ねている。きっと今の奴の頭からは、締切が迫ったレポートのことなどすっかり抜け落ちているらしい。もし締め切りギリギリで助けを求めてきたら、さっきの倍の値段をふっかけてやろう。

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