21.お嬢さんの大事なもの
八月最後の土曜日。夏休み三回目のデートは、美術館の特別展に行った。
雛乃との交際が始まってはや三ヶ月、契約期間もそろそろ折り返し地点だ。デートの定番をそろそろやり尽くしてきた感がある。世の中のカップルは、毎週毎週飽きもせずどこに行っているのだろうか。恋人と一緒にいると、それがどこであっても楽しいということなのか。
(それは正直、わからなくもない)
芸術のことなどまるでわからない俊介だったが、クラシックコンサート同様、涼しい場所で高価な芸術品を眺めるのもなかなか良いものだ。隣で雛乃が小声で解説を加えてくれるのもありがたく、思いのほか楽しめた。
雛乃と二人で行くと、それがどこであっても楽しい。その事実は、いまさら疑いようもなくなっていた。
「……こちらの絵画が、この作者の代表作です。夕陽を背景にした田園風景が美しく描かれてはいますが、実際には悪政のもと、生活に困窮する農民の生活を風刺したものですね」
雛乃の囁くような声が耳をくすぐる。彼女の声のトーンは心地良く、ずっと聞いていたいような気さえする。俊介はふむふむと頷きながら、目の前の絵画を眺めた。
繊細なタッチで描かれた美しい絵画を見ているときも、俊介が考えるのは金のことだ。無粋だと思いつつも、雛乃に尋ねてみる。
「これ、いくらぐらいするんですかね?」
「そうですね……簡単に値段はつけられないでしょうが、もしオークションに出せば数億はくだらないのではないかしら」
「うげえ」
「世間には、どれだけお金を出しても手に入れたいという好事家がたくさんいますから」
「……はー。そういう酔狂な金持ちの考えることは、俺みたいな貧乏人には理解できないですね。描いた人間には一銭も入らないあたり、余計に虚しいな」
芸術というのは不思議なものだ。ただの紙切れ同然だった絵画が、名が売れた途端に数億の値打ちがつく。しかもこの画家は生前はまったくの無名で、没後に評価されたという。死んでから得る名声に意味があるのだろうか、と俊介は思う。
「生前の彼は世間に認められることなく早逝したそうですが、死ぬまで絵を描き続けたそうです。ひたすらに絵を描きたい、という情熱があったのではないでしょうか」
「……馬鹿馬鹿しい。情熱だけじゃ生きていけないでしょうに」
「彼にとっては、お金よりも大事なものだったのでしょう。絵を描くことが生きることだったのかもしれませんね」
「それで死んでちゃ、なんの意味もないですよ……金さえあれば、死なずに済んだのに」
俊介の口から溢れた言葉は、思いのほか暗く重たく響いた。
雛乃の澄んだ瞳がこちらを見据えていることに気付いて、はっと我に返る。すぐに、へらへら笑いを取り繕った。
「俺はできれば、生きてるうちにせいぜい稼ぎたいですね。死んでからじゃ美味いモンも食えないし」
「それもまた、立派な心掛けです。大事なものは人それぞれですから」
雛乃は俊介の考え方を否定せず、至極真面目な顔で頷いてくれた。彼女は俊介のことを、ケチだの守銭奴だのと馬鹿にしたりしない。それだけのことで、なんだかほんの少し救われたような気さえした。
美術館を出たあと、二人は近くにあるジェラート屋へと移動した。夏のデザートはやはり冷たいものに限る。甘いものに目がない雛乃は、さんざん悩んだあとピスタチオとバニラを選んでいた。
銀のスプーンでマンゴーとミルクのジェラートをつついていると、テーブルの上に置いているスマホが鳴った。目線だけでディスプレイを確認すると、「母」と表示されている。一体何の用事なのか気になったが、業務時間中のため当然無視をする。
「どなたですか? 出ていただいても構いませんよ」
雛乃は言ったが、俊介はかぶりを振った。鳴り止んだスマホをバッグの中に片付ける。
「失礼しました。母親です。あとでかけ直すんで、大丈夫ですよ」
「俊介のお母様? そういえば、俊介のご家族の話を聞いたことがありませんでしたね。ご実家はどちらですか?」
「東北です。めったに帰りませんけどね」
「妹さんがいらっしゃるのでしょう? お父様はどのようなお仕事を? 俊介は母親似ですか? 父親似ですか?」
雛乃は矢継ぎ早に問いかけると、興味深そうに身を乗り出してきた。無神経な質問だな、と俊介は内心苛立つ。お嬢様の瞳が好奇心に輝いていることには気付いていたが、俊介は知らないふりをする。
「別に、雛乃さんが聞いても面白くない話ですよ」
話したがらない俊介の空気を察したのか、雛乃はそれ以上深入りはしてこなかった。しかしやや寂しげな表情で、軽く下唇を噛み締めている。
そんな表情を見ていたくなくて、俊介は慌てて「すみません」と詫びる。
「ちょっとキツく言い過ぎました。でも、俺の家族の話なんてつまんないでしょ」
「そんなことはありません」
俊介は言ったが、雛乃は引かなかった。背筋を伸ばして、まっすぐにこちらを見つめている。
「私は、俊介のことをもっと知りたいのです。ご家族のことだけではなく、いつもどんなところで過ごして、どんな友人がいて、どんなことをお話しているのか。だから、たくさん教えてください」
「……俺の、こと?」
「あなたが大事にしているものを、私も大事にしたいのです」
少しの衒いもなくそんなことを言われると、なんだか胸の奥がむず痒くなる。
互いのことを知ったところで、遠からず終わりが訪れる関係だというのに。ただの暇潰しの恋人ごっこに、どうしてここまで全力を注げるのか不思議で仕方ない。
(……俺にとって、金以上に大事なものなんてない)
俯いた俊介は、ガラスの器に入ったジェラートをスプーンでつつく。鮮やかなオレンジ色をしたマンゴージェラートが、どろりと溶けて崩れた。
雛乃とのデートを終えてアパートに帰宅したのは、十九時前だった。夕暮れにはまだ早く、窓の外はほの明るい。部屋には昼間の熱気がこもっていて、俊介は慌ててエアコンのスイッチを入れた。
先ほど雛乃とカフェで高級ジェラートを食べたが、少々小腹が空いたため、素麺を茹でることにした。扇風機のスイッチを入れ、鍋をコンロにかけて湯を沸かす。途端に体温が上がり、じりじりと額に汗が滲んできた。
沸騰するのを待っているあいだに、畳の上に放置していたスマホが鳴り響いた。ディスプレイに表示された文字を確認してから、受信ボタンを押す。
「……なに?」
「なに、じゃないでしょ。夕方に電話したの、気付いてた?」
「あー、ごめんごめん」
電話の向こうで響く声は、故郷にいる俊介の母のものだった。アパートに帰ったらかけ直そうと思っていたのに、すっかり忘れていた。
母は時折こうして連絡を寄越してくるが、電話をかけてくることは滅多にない。母の声を聞くのは、今年の正月に帰省して以来のことだった。
「毎日暑いけど、元気にしてる? ちゃんとごはん食べてるの?」
「食べてる食べてる。今から素麺茹でて食う」
「ちゃんと野菜も食べるのよ。栄養のつくもの食べないと、夏バテするからね」
早口でまくしたてるような口調は、実家にいるときにはよく聞いたものだ。初対面の人間からは怒っているように思われがちだが、これが母のデフォルトである。
「母さんは? 元気にしてた?」
「まあまあよ。こっちも暑すぎて、昨日はさすがに一晩中クーラー入れたわね」
「そういや、わざわざ電話かけてくるってことは何か用事?」
ぐつぐつと煮えたぎった湯の中に素麺を放り込みながら、俊介は尋ねた。母は本来の目的を思い出したのか、『そうそう』と続ける。
「俊介、十一月の三連休は帰ってくる?」
「え、なんかあったっけ」
俊介の地元は、東京から新幹線で一時間半ほどの場所にある。決して遠くはないが、気軽に帰れる距離ではないし、交通費の出費も痛い。理由はそれだけではないのだが、俊介はだいたい年末年始にしか帰省しないことにしている。
「父さんの七回忌なんだけど」
なんてことのない口調で、母が切り出した。
俊介は電話の向こうに動揺を悟られぬよう、ゆっくりと唇を湿らせる。鍋から湯が吹きこぼれていたため、慌ててコンロの火を止めた。
(……七回忌。もう、そんなに経つのか)
当時のことを思い出すと、今でも喉の奥から胃液がこみ上げてくるような感覚がする。
あれから六年もの月日が経ち、当時高校生だった俊介は二十二歳になった。もう、世の中の不条理を呪って泣き喚いたりしない。
「……ああ。帰るよ」
「そう、わかった。じゃあそのつもりで準備しておくわ」
母はあっけらかんと答えた。父があんな死に方をしたというのに、母は意外とさっぱりしている。俊介は未だに父の話題には、できるだけ触れないようにしているというのに。
茹で上がった素麺をザルに移し、水で軽く洗い流す。俊介は額に滲んだ汗をTシャツで拭うと、母に向かって「じゃあ切るから」と言った。母は慌てたような声を出した。
「あっ、待ちなさい。まだ話は終わってないのよ!」
「まだなんかあんの?」
「母さん、来週の日曜に知り合いの結婚式でそっちに行くんだけど、よかったら泊めてくれない?」
「別にいいけど」
「よかった! 宿代も馬鹿にならないものね。せっかくだから、土曜日に東京観光でもしようかな。俊介、案内してくれる?」
「土曜日は……」
当然、雛乃とのデートの予定がある。が、彼女の門限は十九時だ。おそらく夜までには解散することになるだろう。
「昼間はバイトだけど、夜から空いてる」
雛乃とのデートはれっきとした時給が発生しているのだから、嘘はついていない。肝心なことを伏せただけだ。
「じゃあ、お昼は一人でウロウロしてるわね。どこかで合流して、一緒に晩ごはん食べましょう。また連絡するわね」
母はそう言って、一方的に電話を切った。言いたいことを言って満足したらしい。
久しぶりに父のことを思い出して、俊介の気持ちはまるで鉛を飲み込んだかのように重く沈んでいく。落ち込んだ気分を誤魔化すように素麺をすすったが、なんだか味気なく感じられた。
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