22.お嬢さんと母さん
雷門と書かれた巨大な提灯の前には、スマートフォンを手に撮影をする観光客が大勢いた。
テレビ番組や旅行ガイド誌でよく目にする光景だが、実際に訪れるのは二度目だ。三年前の夏休み、東京に遊びに来た母と妹にせがまれてやって来たのが最後である。
「雛乃さん、浅草は初めてじゃないですよね」
俊介は雛乃に白い日傘をさしかけながら尋ねる。マリン風のワンピースにストラップつきのサンダルを合わせた雛乃の装いは、まさしく夏のお嬢さん、という感じだ。涼しげだったが、先日倒れた前科があるため、日差し対策はしっかりしておかなければ。
「はい。小学生の頃、遠足で訪れたことがあります」
「うわ。東京の人は遠足でこんなとこ来るんだな……」
自分の小学生時代のことを思い返してみたが、遠足の行き先は大抵山だった。ちなみに俊介の地元は雄大な大自然に囲まれた田舎だ。自然が豊かすぎて、もはや自然しかない。
本日のデートは、悩んだ結果の「ベタな東京観光デート」に決まった。浅草寺に行ったあとは、スカイツリーに登る予定だ。ちなみに、スカイツリーに行きたいと言い出したのは雛乃である。高所恐怖症の俊介は渋ったが、雇用主の希望とあらば仕方ない。
昼食は月島でもんじゃ焼きを食べた。雛乃はもんじゃ焼きを食べたことがなかったらしく、最初はその見た目に慄いていた。無理なら店を変えようと思ったのだが、おそるおそる一口食べたあとは「美味しいです」と言って、しっかり完食していた。お嬢様に好き嫌いはないらしい。
雛乃は鞄からスマートフォンを取り出して、雷門に向かってカシャカシャと何度かシャッターを切った。きっとのちほどSNSに投稿するのだろう。
雛乃のSNSには、俊介のデートで撮影した写真がたくさんアップされている。顔は映っていなくとも、俊介の存在が感じられるような写真も多くあり、なんとなく気恥ずかしくなる。とはいえ、彼女の投稿を見ているのはフォロワーである俊介と椥辻美紅、そして石田だけである。
「そこの素敵なおにーさんとおねーさん! 人力車乗っていきませんか!?」
人力車を引いた男が、雛乃に向かって声をかける。健康的にこんがり日焼けしており、なかなか逞しい体躯である。
雛乃が見惚れていたら嫌だな、と思ったが、彼女は男の立派な筋肉に反応を示さなかった。マッチョ好きというわけではないらしい。場合によっては筋トレをするつもりだったが、その必要はなさそうだ。
「どうします? 乗ります?」
「そうですね……興味はありますが、本日は遠慮しておきます。申し訳ありません」
雛乃はそう言って、人力車の男に向かってぺこりと頭を下げる。男はニコニコ笑って「またよろしくねー!」と去っていった。雛乃はその後ろ姿を見送りながら、ぽつりと呟く。
「あれを引いて走るのは、大変そうですね。あちらに、女性の俥夫の方もいらっしゃいますよ」
「そうですね。キツイしトーク力も求められるし大変ですよ。この時期は暑くて死にそうだし」
「まあ。俊介は俥夫の経験があるのですか?」
「一昨年の夏にちょっとだけ」
金の亡者である俊介は、ありとあらゆるアルバイトを経験してきた。場所は浅草ではなかったが、知り合いの紹介で人力車のアルバイトをしたことがある。外面の良い俊介はなかなか稼ぎが良かったが、体力的にきつかったので二度とやらないだろう。
「俊介はさまざまなアルバイトをしているのですね……」
「雛乃さん、アルバイトの経験は?」
「大学で、試験監督のお手伝いをしたぐらいかしら。自力でお金を稼いだことはほとんどありません」
「まじすか。俺なんか、暇さえあれば働いてますよ。ひどいときなんかバイト5つ掛け持ちしてました」
「本当ですか? 俊介は立派ですね……私も見習わないと」
澄み切った瞳で、少しの衒いもなく褒め言葉を口にした雛乃に、俊介は僅かに苛立った。
お金持ちのお嬢様にとっては、アルバイトも人生経験のひとつに過ぎないのだろうか。こちらは生活がかかっているというのに。
(別に俺だって、楽しくてバイトばっかりしてるわけじゃない。うなるほど金があるなら、好き好んで働かねーよ)
そんな内心の屈託を押さえ込んで、俊介は笑みを浮かべる。「行きましょうか」と言って、彼女と手を繋いで歩き出した。
雷門をくぐると、歴史情緒を感じさせる仲見世通りという商店街が現れる。雛乃はあれこれ目移りしながらも、人形焼を購入していた。その場で食べるのかと思いきや、「石田へのお土産です」とはにかむ。どうやら、お嬢様は食べ歩きはしない主義らしい。
仲見世通りを抜けると、本堂の前にもくもくと煙の立ち上る煙が見えた。溢れんばかりの人だかりができており、皆一様に煙を浴びようとしている。
「気になってたんですけど……あれ、何なんすか?」
「あれは常香炉といって、参拝者の身体を清めるための仏具です。あの煙を身体の悪いところにかけると良くなる、という言い伝えがあります」
「へー、さすが雛乃さん。じゃあ、俺は特にかけるとこないですね。健康だし、顔も頭も良いですし」
「ええ。たしかにそうですね」
「あの、ボケ殺しやめてください」
真顔で頷いた雛乃に、俊介は顔を顰める。冗談のつもりだったので、突っ込まれないとちょっと困る。これではただのナルシストの痛い男だ。
せっかく来たのでと線香を買い、香炉に立てて煙を浴びることにした。どこに煙をかけようかと考える。
「……性根を良くするには、どこにかければいいんですかね」
「あら、治す必要はありませんよ。俊介はそのままで、充分素敵です」
雛乃はさらりと言ったが、俊介は戸惑った。買い被りもいいところだ。彼女の目に映る山科俊介は、いったいどれだけ美化されているのだろうか。
「今度石田と一緒に来ることにします。最近、腰が痛いと言っていましたから」
そう言って微笑む雛乃の方が、よほど非の打ち所がない優しい人間だ。一緒にいると、自分の醜悪さを思い知らされるほどに。
ぼんやりしていると、とん、と背中に軽い衝撃を感じだ。どうやら誰かとぶつかってしまったらしい。「すみません」と詫びて振り向いた俊介は、次の瞬間ぎょっと目を剥いた。
「……母さん?」
「あら、俊介! こんなところで何やってるの!?」
そこに立っていた女性は、俊介の母親だった。よほど驚いたのか、こちらを向いて口をあんぐり開けている。たしかに東京観光をするとは言っていたが、まさかこんなところで遭遇するとは。
「今日、バイトじゃなかったの?」
「えーと……まあ」
俊介は目を泳がせる。どう説明しようかと考えていると、俊介の後ろから雛乃がひょっこりと顔を出した。
「あら? 俊介、そちらのお嬢さんは?」
そこでようやく母は雛乃の存在に気付いたらしく、不思議そうに瞬きをする。俊介が口を開くより先に、雛乃が深々と頭を下げた。
「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。御陵雛乃と申します」
「はじめまして、俊介の母です」
母は雛乃に向かってニッコリ笑いかけたあと、もの言いたげに俊介にチラリと視線を向けた。あれこれ尋ねたいのを我慢しているのかもしれない。おそらく、俊介と雛乃の関係を気にしているのだ。少し悩んだがこの状況では、恋人だと紹介しておいた方が面倒がないだろう。
「……母さん。この人、雛乃さん。俺の彼女。ちょっと前から付き合ってる」
「あ、やっぱり!? もー、何で言わないのよ。わざわざバイトって嘘つかなくてもいいのに」
母はそう言って、俊介の背中をバシバシと叩いた。俊介にしてみれば嘘をついたつもりはないのだが、そう捉えられてしまっても仕方がない。
「とっても綺麗なお嬢さんねー! 俊介、やるわねえ。アンタ、父さんに似て顔だけは良いものね」
あまり嬉しくない褒められ方である。俊介がぶすっとしていると、雛乃が優雅な所作で母の手を取った。まるで姫をエスコートする王子のようだ。
「俊介さんのお母様にお会いできて、光栄です。もしよろしければ、このあと一緒に東京スカイツリーに参りませんか?」
「ひ、雛乃さん!」
とんでもない提案をした雛乃に、俊介は泡を食う。一応雛乃とのデートには給料が発生しているのに、自分の母親を同席させるなんて申し訳なさすぎる。
雛乃はそんな俊介の反応を意に介さず、美しい笑みを浮かべている。そのあまりの眩さに、母はしぱしぱと瞬きをしていた。
「も、もちろん構わないけど……お邪魔じゃないかしら」
「いいえ、ちっとも! 私の方こそ、せっかくお母様が東京にいらっしゃったのに、邪魔をして申し訳ありません」
「いや、雛乃さん……それはさすがに」
「俊介。私、お母様とスカイツリーに行きたいです。行きましょう」
キラキラと瞳を輝かせながらそう言われると、もはや俊介に反論の余地はない。
お嬢様の可愛いワガママに、俊介は素直に「かしこました」と承伏する。そんな二人のやり取りを見て、母はやや訝しげに眉を寄せていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます