23.お嬢さんにはわからない

「わあ、すごいすごい! 高いわねー!」


 エレベーターで展望デッキまでやってきた母は、年甲斐もなくはしゃいだ声をあげた。雛乃はその傍で、「素晴らしい景観ですね」と満足げに頷いている。

 

 浅草寺を後にした三人は、タクシーに乗って東京スカイツリーまでやって来た。躊躇いなくタクシーという移動手段を選んだ雛乃に、母は驚いたようだった。俊介も普段ならば、タクシーという選択肢が生活の中に組み込まれていない。あの距離ならば、どう考えても歩く。

 スカイツリーに入るためのチケットも、雛乃がさっさと三人分を支払ってしまった。恐縮する母が財布を出しても、「気になさらないでください。大した金額じゃありませんから」と笑っていた。お嬢様にとっては文字通り端金なのだろうが、母は大いに戸惑っていた。


「お母様、向こうに富士山が見えますよ」

「あらあ、こんなに離れててもよく見えるものねー。いい天気で良かったわ。そうだ俊介、写真撮って」


 母に手渡されたスマホを構えると、母は「雛乃さんも一緒に」と雛乃の袖を引く。ピースサインを作る母の隣で、雛乃はぎこちなく微笑んだ。俊介はカメラのシャッターボタンを押す。母が使っている格安スマホの画質は今ひとつで、富士山がほとんど映っていない。


「俊介、私のスマートフォンでも撮影してください」


 今度は雛乃がスマホを渡してきた。雛乃が使っている最新機種のスマホは一千万画素で、富士山を背景にした見事な2ショットを収めることができた。


「それにしても、東京って都会ねえ。大きなビルばっかりだわ」

「お母様、あちらが俊介さんの通う大学です」

「えっ、どれどれ?」

 

 二人は楽しげに東京の街を見下ろしていたが、俊介は頑としてその場から動かない。雛乃のリクエストでなければ、こんなところには絶対来なかった。

 何が悲しくて、金を払って高所に上らなければならないのか。世の中には酔狂な人間がたくさんいるものだ。ナントカと煙は高いところが好き、と負け惜しみのひとつも言ってやりたくなる。


「俊介も来てください」

「ちょっと、あんたもこっち来なさいよ」


 雇用主と母からしつこく手招きをされ、俊介は渋々ガラス窓へと近付いた。あらためて自分のいる場所を自覚すると、下を見てもいないのに、なんだか足がすくむような感覚がした。思わず隣にいた雛乃の腕を掴むと、彼女はくすりと笑みを零す。


「そんなに心配しなくても、落ちませんよ」

「わ、わかってますよ」

「そういえばこの上に、ガラス床の展望回廊があるそうなのですが。そちらにも参りましょうか」

「……」


 ガラス床の上を歩くなんて、想像しただけで寒気がしてきた。青ざめた俊介を見て、雛乃は「冗談です」とくすくす笑っている。余裕綽々なさまが腹立たしい。


「雛乃さんは、なんか慣れてますね」

「そうですね。スカイツリーは初めてですが、高所からの景色には慣れています」


 雛乃はそう言って、どこか冷めた目つきで地上を見下ろす。そびえ立つ建物の狭間には、オモチャのような車や豆粒のような人の姿がある。人がゴミのようだ、と喩えた悪役は誰だったっけ。


「雛乃さん、スカイツリー初めてなんすか」

「地元の観光地って、いつでも行けると思ったらなかなか行かないわよねえ。雛乃さんは東京にお住まいなの?」

「はい、生まれも育ちも東京です。ちょうど、あちらに見えるのが我が家ですね」


 そう言って雛乃が指差した先にあるのは、ひときわ立派な豪邸だった。庭園は公園かと見紛うほど広く、敷地面積は莫大である。ここからでも認識できるとは恐れ入る。俊介の住むアパートなど、塵芥程度にしか見えないだろう。


「へえ。ずいぶんいいところにお住まいなのねー」


 よくわかっていない母は呑気にそんなことを言っているが、それどころの話ではない。御陵コンツェルンの邸宅は、日本の経済のど真ん中に腰を据えている。まあ、説明するのが面倒だから言わないが。


「さっきの写真、あずさにも送ってあげよう。ちゃんと勉強してるかしら」

「あら。もしかして、妹さんですか?」


 いそいそとスマホアプリを立ち上げた母に、雛乃が尋ねる。母は「ええ」と頷いた。


「中学三年生で、今年受験なの。お兄ちゃんに会いについてくるかって訊いたけど、別にいいって。遊び呆けてなければいいんだけど」


 母は溜息をついた。妹の梓は俊介ほど真面目ではないが、世渡り上手で要領だけは良い。家族の居ぬ間に好き放題している可能性はあるが、きっとちゃっかり志望校には合格するのだろう。あいつはそういう女だ。


「妹さんにもお会いしたかったです」

「あ、写真あるわよ。見る?」

「はい!」


 母が差し出したスマホ画面には、今年の正月に帰省した際の写真が映し出されていた。コタツに入った俊介と梓が、仏頂面で雑煮を食べている。いつのまにこんな写真を撮っていたのだろうか。


「わ、美人さん。こうして見ると、美形なきょうだいですね。そっくりです」

「俊介も梓も、顔だけは父さんに似てるのよねー。イケメンだったからねえ、あのひと」

「お父様は、今回ご一緒にいらっしゃらなかったんですか?」


 無邪気な雛乃の問いに、俊介は僅かに息を飲む。俊介の動揺をよそに、母はあっけらかんと答えた。


「うちの父さんはね、六年前に事故で死んじゃったのよ」

「え……」


 雛乃の表情が引き攣り、みるみるうちに青ざめた。両手を頬に当てて、唇を震わせる。


「……そんな……あの……申し訳ありません」

「いいのよ、気にしないで。もう六年も前のことだしねー」


 母はそう言ってケタケタ笑ったが、雛乃はじっと俊介の方を見つめていた。真っ黒い瞳に罪悪感が滲んでいる。事情を知らずにあれこれ尋ねたことを悔いているのだろう。俊介は何も言わず、曖昧な笑みを浮かべていた。


 


 展望デッキをぐるりと一回りしたあと、母が「お土産を買いたい」と言うので、スカイツリーの下にある商業施設に行った。

 母が土産を物色しているあいだ、俊介は壁にもたれかかってぼんやりしていた。先ほどまで母と一緒にクッキーを選んでいた雛乃が、こちらにやって来る。


「……こんなことになってすみません。今日の給料、ナシでいいです」


 俊介が言うと、雛乃は「いいえ」とかぶりを振った。

 

「私が希望したことですから。それに、私はお母様も一緒で楽しいですよ」

「でも、余計な気ィ遣うでしょ」

「そんなことはありません。俊介のご家族と親しくなれるのは、嬉しいです」


(……俺の母親と仲良くなったところで、三ヶ月後には別れるだろうが。次に会う機会なんて、もう二度とないぞ)


 そんな言葉を飲み込んで、俊介は「そうすか」と渇いた声で言った。さっと目を伏せた雛乃は、やや言いにくそうに口を開く。

 

「俊介、あの……私、何も知らずに……あれこれお父様のことを尋ねてしまい、申し訳ありませんでした」


 しゅんと眉を下げた雛乃が、深々と頭を下げた。俊介は口角を上げて笑顔を作った。


「あー、気にしないでください。母さんも言ってたけど、もう六年も前のことだし」

「……でも……」

「……ほんとに、気にしてないんです。あんな親父、死んでくれてせいせいしてますから。死亡保険金もガッツリ遺してくれましたしね」


 吐き捨てた俊介の言葉に、雛乃は弾かれたように顔を上げた。驚きと怒りが入り混じったような表情で、こちらを睨みつけている。


「お父様に向かって、そんな酷いこと……! 言うべきではありません!」


 まるで俊介を責めるような口調だ。俊介はまるで嘲笑うかのように、雛乃のことを見下ろしている。

 彼女の言うことは正しい。いつだって清く美しく純粋で真っ直ぐで、この世の汚れなんて少しも知らないような顔をしている。その視野はあまりにも狭く、自分の見える世界がこの世のすべてだと思っている。

 彼女と一緒にいると、自分がいかに醜悪な人間かを思い知らされる。この世の何よりも金が大事な、がめつい守銭奴。


「……俺はあんたが思うほど、立派な人間じゃない。俺にとって、金以上に大事なものなんてないんだ」

「いいえ、あなたは」

「恵まれたお嬢さんには、俺の気持ちなんて到底わかりませんよ。……わかってほしいとも、思いません」


 突き放すような言い方に、雛乃は下唇をきつく噛み締めた。スカートの裾をぎゅっと握り締めて、何かに耐えるように肩を震わせ、こちらを見つめている。

 曇りのない澄んだ瞳に映る自分の顔を見たくなくて、俊介はふいと視線を逸らした。


「お待たせー!」


 そのとき、紙袋を抱えた母が戻ってきた。二人のあいだに漂う険悪な空気に気付いているのかいないのか、明るい口調で続ける。


「梓に、東京にしかないキャラメルサンド? 買ってきてって言われてるんだけど、ここには売ってないのかしら」

「あ……それならおそらく、東京駅のデパートに置いているかと思われます」

「そうなの? じゃあ明日帰る前に買うわ。あ、あと雛乃さん」


 母は鞄から財布を取り出すと、札を数枚抜いて雛乃に押し付けた。雛乃は面食らったように、目を白黒させている。


「タクシー代と入場料、これで足りるかしら」

「えっ。そんな……結構です」

「いいから受け取っておいて。あなたにとっては大した金額じゃなくても、息子の彼女に奢ってもらうには過ぎた金額だわ。心苦しいわよ」


 きっぱりとした母の言葉に、雛乃ははっとしたように目を見開いた。自分との金銭感覚の違いを突きつけられて、衝撃を受けているようにも見える。

 震える手で金を受け取った雛乃は、ハイブランドの財布にそれをしまいこむ。「すみません」と呟いた声は、か細く悲しげだった。




 雛乃と別れた俊介は、母とファミレスで夕飯を済ませ、共に自宅アパートへと帰ってきた。

 狭苦しい部屋は、来客用の布団などない。母に布団を譲って、自分はバスタオルを敷いた畳の上に寝ることにした。寝心地が良いとは言えないが、一晩ぐらいどうってことはないだろう。


「雛乃さん、ほんとに綺麗なひとだったわね! 前にお付き合いしてた香恋さんも美人だったけど、あんたって父さんに似て面食いよねー」

「それ、もしかして自分のこと美人って言ってんの?」


 やたらとポジティブな母に呆れつつ、俊介はごろりと寝転んだ。電気を消したあとも、母はぺらぺらと話しかけてくる。


「それにしても、ずいぶん羽振りがよかったみたいだけど。アンタもしかして、あの子のヒモなの?」

「……」


 茶化すような母の言葉を否定しきれず、俊介は黙った。ヒモと言うと聞こえが悪いが、金を貰って付き合っている以上似たようなものである。突っ込まれるのも面倒だし、このまま寝たふりをしてしまおう。

 目を閉じると、瞼の裏に雛乃の顔が浮かんでくる。「あんたにはわからない」と告げたときの、打ちひしがれたような表情。


(お嬢さん。……俺はあんたに相応しくない、碌でもない人間なんだよ)


 どうか彼女と結婚する男が、自分のような男でありませんように。クッションに顔を埋めながら、俊介は心の底からそう願った。

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