45.お嬢さんのお願い
雛乃の元へと向かう石田のドライビングテクニックは、それはそれは凄まじいものだった。発進して五分も経たないうちに、俊介は(もう二度と、この男の運転する車には乗るまい)と大層後悔した。何度か、本気で死を覚悟した。
石田に連れられてやって来たのは、高級そうな料亭だった。時刻は十時五十分。まだ、両家の顔合わせは始まっていないはずだ。俊介はシートベルトを外し、転がるようにロールスロイスから降りる。
「……あの、どちら様ですか? ご予約は?」
瓦造の門をくぐり、ズカズカと中に入って行くと、年配の女将に止められる。どうみても場違いな俊介の格好を、訝しんでいるのだろう。先日石田に買ってもらったスーツを着てくるべきだったか。
俊介が返答に悩んでいるうちに、石田が追いついてきた。
「こんにちは。本日、御陵家と松ヶ崎家の会食が行われる予定かと思うのですが」
「ああ、石田さん。一足先に、雛乃お嬢さんがいらっしゃってますよ。こちらにどうぞ」
女将は相好を崩し、やけに気安い様子で二人を案内してくれる。連れて行かれたのは、離れにある個室だった。女将は閉じた襖の向こうに「失礼します」と声をかけた。
「雛乃お嬢さん、石田さんがいらっしゃいました」
「どうぞ」
中から鈴のような声が響く。襖が開くと、個室には雛乃と松ヶ崎の二人しかいなかった。雛乃は地味なネイビーのワンピースを着ており、スーツ姿の松ヶ崎は渋い顔で腕組みをしている。ピリピリとした空気が漂っており、どう見ても、婚約の両家顔合わせという雰囲気ではない。
が、俊介はそれに気付く余裕すらなかった。
(雛乃さんだ。雛乃さんが、そこにいる)
雛乃の顔を見た瞬間に、ぶわっと身体の底から熱が湧き上がってくる。諦めて身を引く、だなんてよく言えたものだ。顔を見ただけで、こんなにも気持ちが溢れて止まらなくなる。
こちらを向いた雛乃の目が、驚きに見開かれる。俊介、と可愛らしい声で名前を呼ばれた瞬間に、歯止めが効かなくなってしまった。
「どうして、あなたがここに」
俊介は猛ダッシュで彼女に駆け寄り、がしっと両手を掴む。何度も諦めようとしたこの手を、結局俊介は忘れられなかった。
(もう二度と、離したくない。……諦めたくない)
完全に舞い上がっていた俊介は、腹の底から突き上げてくる衝動の赴くままに、大声で叫んでいた。
「雛乃さん! 俺と、結婚してください!」
俊介の三段飛ばしのプロポーズに、雛乃は目を白黒させた。
それからようやく思考が追いついたのか、かあっと頬が真っ赤に染まる。アワアワと口をぱくつかせている彼女のことを、可愛い、と思った瞬間にはもう抱きしめていた。
「しゅ! しゅっ、しゅ、」
「雛乃さんが、他の男と結婚するなんて嫌です! 婚約なんてしないでください!」
「あの、えっと、しゅ……俊介! と、とりあえず、その、は、離してください!」
強い口調で咎められて、俊介は渋々「はい」と答えておとなしく引き下がった。雛乃は茹蛸のような顔で、目をぐるぐるさせている。そんな表情も可愛くて、もう一度抱きしめたくなる。
「……あの、ちょっといいかな」
そのとき正面に座っていた松ヶ崎が、オホンと大きな咳払いをした。俊介と雛乃は、弾かれたようにそちらを向く。
「そちらの事情は、よくわかったよ。こんなところに呼びつけられて、ラブシーンを見せつけられる方の身にもなってほしいけどね」
「す、すみません」
ようやく落ち着きを取り戻したらしい雛乃が、はっとしたように松ヶ崎に向き直る。松ヶ崎は眉間に皺を寄せたまま、深い溜息をついた。
「……さて、雛乃ちゃん。役者も揃ったところで、さっきの話の続きをしようか」
「はい」
「きみはその男と結婚したい。僕は御陵社長の跡を継ぎたい。両者の希望を満たすために、お父上を説得するとのことだったね」
松ヶ崎の言葉に、俊介は驚いて雛乃を見る。雛乃は眉ひとつ動かさず、「仰る通りです」と頷いた。
「僕はきみの要望を、はいそうですかと素直に飲む気にはなれない。御陵社長が、そう簡単に折れるとも思わないしね」
「……」
「ただ僕にしてみれば、きみとの結婚には微塵も興味がない。将来のポストが約束されていれば、それでいいんだ。きみがお父上を説得できた暁には、喜んで婚約破棄を受け入れるよ」
松ヶ崎は温度のない冷ややかな口調でそう言うと、その場から立ち上がった。
「きみが大学を卒業するまでは、返答を保留にしてあげよう。父と母には、僕からも話をつけておく」
「お心遣い、感謝します」
「……両家の話し合いは十一時からだったね。そろそろ父と母が到着する頃だろうし、僕は一旦席を外すよ。じゃ、またのちほど」
「よろしくお願い致します」
雛乃は深々と頭を下げた。松ヶ崎は去り際に、呆れたように俊介を一瞥する。「若いね」と小馬鹿にしたような口調で揶揄されて、俊介ははっと我に返った。
……なんだかものすごく、恥ずかしいことをした気がする。
「……あの、雛乃さん……」
どうにも状況が飲み込めない。今日は、婚約のための両家顔合わせではなかったのか。
戸惑っているのは雛乃も同じらしく、俊介の顔をまじまじと見つめながら「どうして、あなたがここに」と呟く。
「……石田さんに、連れて来てもらったんですよ……雛乃さんが今日、あの男と正式に婚約するからって」
「まあ! とんでもない!」
雛乃は声をあげると、俊介の両手をぎゅっと握り締める。らんらんと輝く黒い瞳には、強い決意の光が宿っていた。
「私は、彼との婚約を破棄しようと思っています」
「へ……」
「私は先日、父に〝好きな人ができたので自由恋愛を認めてほしい〟と直談判しました。今日ここに来たのも、直接お断りをするためです。松ヶ崎さんには、先に根回しをしておきました」
「そ、そうだったんですか……」
「父には、まだ認めてもらえませんでしたが……これから時間をかけて説得するつもりです。……あなたには、きちんと決着がついてから連絡するつもりだったのだけれど」
次々と新事実が明かされて、俊介の思考がついていかない。呆気にとられていると、雛乃が石田の方を見て首を傾げた。
「石田が、俊介をここに連れてきてくれたの? 彼に事情を説明していなかったのですか?」
「……え!? 石田さん、知ってたんすか!?」
俊介は弾かれたように石田を見る。石田はまるで悪戯が成功した子どものような表情で、にやりと笑ってみせた。
「……山科様の雛乃様へのお気持ちを、確かめる必要があると感じましたので。生半可な覚悟の男では、雛乃様を幸せにはできませんから」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。じゃあ、さっきの手切金云々ってのも嘘ですか!?」
「はい、嘘です」
石田は少しも悪びれた様子なく、しれっと頷く。俊介はがっくりと脱力した。もしあの場で金を受け取っていたらどうなっていたのか、あまり考えたくないことである。
俊介が項垂れていると、雛乃が顔を覗き込んできた。何かを期待するような、それでいて不安に怯えているような、複雑な表情を浮かべている。
「……ねえ、俊介。どうして、ここに来てくれたんですか?」
そんなの、答えはひとつしかない。俊介は手を伸ばして、雛乃の頬にそっと触れる。柔らかな頬は僅かな弾力をもって、俊介の指を押し返してくる。
「一番好きな人と、幸せになりに来ました。……可愛い恋人のお願いは、死ぬ気で叶えるって言ったでしょ」
――どうか、あなたはあなたの好きな人と、幸せになってくださいね。
最後の〝
「……わ、私! そんなことを言われると、自惚れてしまいそうです……」
「自惚れてもらわないと、困りますよ。プロポーズまでさせといていまさら……」
「ふふ……そうですね。……さっきの俊介ったら……あんな顔、初めて見ました」
雛乃の頬が安堵に緩んで、ふにゃりと柔らかく微笑む。幸せそうなその笑顔を、一番そばで見れるなら、なんだってできそうな気がするんだ。
「雛乃さん」
勢い任せのプロポーズを仕切り直すべく、俊介は真面目な顔で雛乃の両手を取った。
「俺はただの貧乏大学生だし、身分違いだってわかってます。雛乃さんのこと……不幸にするだけかもしれない。でも」
こつん、と小さな額に自分の額をぶつける。触れた部分は、俊介と同じ温度をしている。宝石のようにキラキラ輝く瞳に映る自分は、見たことがないぐらい必死の形相をしていた。
「これからもずっと一緒にいられる方法、二人で探しませんか。俺……頑張りますから」
眼前にある雛乃の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えて、雛乃はじっとこちらを見つめている。
「……これから、私の両親と松ヶ崎さんの両親がここにやって来ます。そこで私は、きちんと婚約のお断りをするつもりです。……あなたも……同席していただけますか?」
「もちろんです」
いずれにせよ、雛乃の両親にはきちんと話を通さなければと思っていた。こんな格好でいきなり乗り込んできて、無礼だと思われるかもしれないが、好感度は既に最低値なのだからもう腹を括るしかない。
「一発ぐらいなら殴られてもいいですよ」と笑ってみせると、雛乃は悲痛そうに表情を歪ませた。
「……これから私のせいで、たくさんあなたに迷惑をかけるかもしれません。決して平坦な道では、ないかもしれません。今日のこの選択を、あなたが後悔する日が来るかもしれません……」
雛乃は震える声で、ゆっくりと言葉を紡いでいく。彼女の一言一句を決して聞き漏らさないように、俊介は全身全霊で耳を傾けている。
「でも。……これから、何があったとしても……私と一緒に、居てくれますか? 他の誰でもない、あなたと幸せになりたい。あなたと一緒に、これからの人生を歩んでいきたいのです」
俊介も、雛乃と同じ気持ちだった。どうせ目指すなら、完全無欠のハッピーエンドだ。身分違いの二人が結ばれる幸せなエンディングを、これからの人生をかけて掴んでやろうじゃないか。
「……私、俊介のことが好きです」
「俺も……愛してますよ、雛乃さん。これは絶対に、嘘じゃないです」
その瞬間、ぽろりと雛乃の瞳が涙が零れ落ちた。俊介は手を伸ばして、濡れた頬を拭ってやる。視界の隅で、石田がこっそりハンカチで目頭を押さえているのが見えた。
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