44.お嬢さんの初恋
大好きなモノクロ映画に出てくる、素敵な王女様のように。自分を大人にしてくれるような、期間限定の恋がしたいと思っていた。
俊介との恋人契約が終了してから、はや一ヶ月が経った。慌ただしい年末はあっというまに駆け抜けて、忙しくしているうちに年が明けた。
雛乃は毎日を気丈にやり過ごしていたが、それでもふとした瞬間に俊介のことを思い出した。彼に似た背格好の男性とすれ違うたび、はっと息を飲んで立ち止まることもある。
雛乃の手をすっぽりと包んでしまう、骨張った大きな手が好きだった。雛乃さん、と呼ぶ声が好きだった。まるで昔からの友達に向けるみたいな、からかうような口調が好きだった。「ばか」と言ったときに、やけに嬉しそうに笑う顔が好きだった。ふとした瞬間に滲み出る、無自覚な優しさが好きだった。
忘れなければならないと思うのに、心臓に根を張った恋心はちっとも枯れてくれない。
大学での授業ののち、バイオリンのレッスンに行き、雛乃は十九時前に帰宅した。家政婦の用意してくれた夕食を終えると、「少し勉強してきます」と告げて早々に自室に引っ込んだ。
行儀が悪いとは思いつつも、着替えることもせずベッドに倒れ込んだ。二十一時からはドイツ語のオンラインレッスンがあるが、それまで少し休みたい。
ベッドに横たわっているイルカのぬいぐるみを、無意識のうちに抱きしめる。それでまた俊介のことを思い出して、雛乃の瞳に涙が溢れてきた。
――人の気持ちだって、買おうと思えば金で買えますよ。
初対面でそう言い放った、掴みどころのない男のひと。飄々と笑顔の奥に、どこか底知れぬ沼のような暗さを宿したひと。
財力だって立派な才能だ、と言った彼に、少なからず好感を抱いたのは事実だった。そして、都合が良い、とも思った。
これまで恋のひとつもしたことがない雛乃は、お金以外で他人の心を動かす術を知らなかった。そんな雛乃にとって、人の気持ちは金で買える、と豪語する俊介は、期間限定の恋の相手としては適任に思えた。
――あなたの愛、私に買い取らせていただけませんか?
雛乃の提案した半年間の恋人契約を、俊介は受け入れてくれた。当初の雛乃は本当に、ひとときの猶予期間を楽しむつもりでいたのだ。今まで親の敷いたレールを歩いてきたことに対する、僅かな鬱屈を晴らすような気持ちもあった。
契約期間が終われば、ほんの少しの切なさを抱きながら、今までお疲れ様でした、と映画のように綺麗にお別れをするつもりだったのだ。
それでも雛乃は、俊介に本気で恋をしてしまった。
――可愛いですよ。俺は好きです。
最初のきっかけは、もう覚えていない。かっこいい男のひとから、まるで普通の女の子のように扱われて、舞い上がってしまったのかもしれない。たくさん笑いかけられて、何度も「可愛い」と繰り返されて、勘違いしてしまったのかもしれない。
彼と手を繋いでいろんなところに行くうちに、毎週土曜日が待ちきれなくなって。会えない時間も彼のことばかり、考えるようになって。自分以外の女の子のことを、見てほしくなくて。
一緒にいればいるほど、もっと俊介のことを知りたくなった。ただの雇用関係で終わるのは、嫌だった。勇気を出して、一歩踏み込んだとき――彼はずっと抱えてきた傷を、雛乃にそっと見せてくれた。
飄々とした笑顔に覆われた彼の本質に触れるたび、恋心はどんどん大きくなっていった。このままではダメだと思っていても、もう止まらなかった。
――雛乃さんが望むなら、どこにだって連れて行ってあげますよ。今の俺は、雛乃さんの恋人だから。
(私が〝あなたとずっと一緒に居たい〟と願えば、俊介はそれを叶えてくれるかしら)
いつしか雛乃は、そんなことを夢想するようになっていた。
もし俊介が、「結婚なんてするな」と一言口にしてくれたなら――雛乃は何もかもを捨てて、彼と一緒になれるだろうか。ロマンス映画のラストシーンのように、二人手に手を取って走り出すことができるだろうか。
(……そんなことできるわけないって、本当はわかっていた)
――命令なら、やらせていただきますよ。報酬分の仕事はしますから。
――俺は、ただのあんたの契約彼氏だよ。時給三千円ぽっちで、そこまでしてやる義理はねえな。
その言葉を聞いた瞬間、雛乃は横っ面を思い切り引っ叩かれたような気持ちになった。
一体何を勘違いしていたのだろう。俊介はただ、報酬を貰って自分の仕事をしていただけなのに。まるで彼も自分と同じ気持ちであるかのような勘違いをして、浮かれていた。
(やはり私は、お金でしか他人の気持ちを動かせない人間だった)
映画のように、上手にお別れはできなかった。さようなら、と言った彼の笑顔を焼き付けようと思ったのに、自分の涙を堪えるのに必死で、それどころではなかった。
俊介に背を向けた瞬間に、雛乃は我慢できずにポロポロと泣き出してしまった。本当は振り向いて、彼の元に駆け寄って、みっともなく縋りついてしまいたかった。そんなこと、彼を困らせるだけだとわかっている。
来週末には、松ヶ崎の家族との顔合わせがある。もちろん、籍を入れるのは雛乃が大学を卒業した後になるが――おそらく、その場で正式な婚約を結ぶことになるだろう。
松ヶ崎は、決して悪人ではない。向上心と野心が強く、目的のためには手段を選ばないきらいがあるが――おそらく雛乃のことを、妻として丁重に扱ってくれるだろう。
しかし彼はきっと本当の意味で、雛乃を大事にはしてくれない。松ヶ崎にとって、雛乃は自分がのし上がるための手段でしかないのだから。
そのとき、コンコン、というノックの音が響いた。ベッドから起き上がった雛乃は、慌てて頬の涙を拭う。
「……どなた?」
「石田です」
「……何か用かしら?」
つい、棘のある声が出る。いつまでも子どものように拗ねるのはやめようと思っても、石田の前では意地を張ってしまうのだ。それは雛乃が、石田に心底甘えていることのあらわれでもある。
「入っても、よろしいでしょうか」
雛乃は少し躊躇しつつも、部屋の扉を開けた。石田は「失礼いたします」と一礼をして、部屋の中に入ってくる。雛乃はソファに腰を下ろしたが、石田はその場に直立したままだ。
「……雛乃様。最近、体調があまり芳しくないようですが……何かございましたか?」
「……あなたは理由をわかっているくせに、白々しく訊くのはやめてください」
雛乃が拗ねて唇を尖らせると、石田は素直に「失礼いたしました」と頭を下げる。
「……お隣、よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
雛乃の許可を待ってから、石田はソファに腰を下ろした。
いつも雛乃の一歩後ろに控えている石田の顔を、隣から見るのはずいぶんと久しぶりのことだ。記憶にある横顔よりも少し痩せて、皺も増えている。彼も歳を取っているのだなと思って、なんだか寂しくなった。石田にはできる限り、元気で長生きをしてほしい。
「石田が私の部屋に来るのは、久しぶりですね。小さい頃は、眠くなるまで絵本を読んでくれていたのに」
「本来ならば、一介の運転手がやすやすとお嬢様のお部屋を訪れるべきではありません。あの頃も、社長にバレやしないかとヒヤヒヤしていました」
やれやれと頭を振った石田に、雛乃はくすりと笑みを零す。当時の石田は父に叱られるのを覚悟の上で、「絵本を読んで」とねだる雛乃の我儘を聞いてくれていたのだ。
懐かしい思い出に目を細めていると、石田が真剣なまなざしで「雛乃様」と呼びかけてくる。
「なあに?」
「……私は雛乃様の幼少の頃から、あなたのことを見てまいりました。思えば昔から雛乃様は、一番欲しいものを〝欲しい〟と口にできない御仁でしたね」
「……そうだった、かしら……」
石田の言葉に、雛乃は小さく首を捻る。自分のことは、自分ではよくわからない。それでも石田に言われると、そうなのかもしれないと思う。
「何か欲しいものがあっても、黙ってじっと見つめるばかりで……そのくせ決してその場から離れようとしないので、昔は随分と難儀をしました」
「も、もう! こ、子どもの頃の話です」
未熟だった幼少期のエピソードを、この歳になって蒸し返されるのは恥ずかしいものだ。拳でポカポカと石田を叩くと、彼は優しい目でこちらを見つめてくる。
「私にとってみれば、今の雛乃様も昔と変わりません。一番欲しいものがあるのに、口に出せずにいる」
「そんなこと……」
そこでようやく、石田が俊介の話をしているのだと気がついた。雛乃は俯いて、自らのスカートをきつく握りしめる。
「自ら言い出さなくとも、周囲が与えてくれる環境に慣れていたのでしょう。しかし、雛乃様……この世界には、自分から手を伸ばさないと、掴み取れないものもあるのです」
「……だってっ……手を、伸ばしたって……届かないものも、あるもの……」
雛乃は御陵コンツェルンの一人娘だ。雛乃の結婚が、御陵グループの行く末を大きく左右することになる。自分の意思で恋愛結婚などできるはずがないと――ずっと諦めていた。
「どれだけ好きだったとしても……私、本当に好きな人とは、結婚できない……」
そう口に出した瞬間、また涙が滲んでくる。俊介に出逢ってからの雛乃は、ずいぶんと泣き虫になってしまった。
(……彼に出逢うまで、こんなに自分が惨めで弱いなんて、知らなかった)
「雛乃様」
雛乃を呼ぶ石田の声には、いつも厳しさと優しさが絶妙のバランスで混ざり合っている。彼と話をしていると、雛乃はいつも、お父さんみたいだ、と思うのだ。実の父とは、挨拶さえまともに交わさないくせに。
「私は……あなたが手を伸ばすなら、その手の届く場所まであなたをお連れするのが、努めです。私は、雛乃様の運転手でございますから」
(……手を、伸ばしてもいいのかしら。彼との未来を、望んでもいいのかしら。まだ、間に合う?)
思えば雛乃は俊介が攫ってくれるのを待つばかりで、自分から現状を変えようとはしなかった。「結婚するなって言ってくれないんですか」だなんて、ずるい言い方だ。自分の気持ちひとつ、まともに伝えられなかったくせに。
(……私は。ただ王子様が迎えに来てくれるのを待つだけの、お姫様にはなりたくない)
涙を堪えながら顔を上げた雛乃は、背筋を伸ばして、息を吸い込んだ。それを吐き出すのと同時に、抱え込んでいた本音を吐露する。
「……私、俊介のことが、大好きなの。俊介と、これからもずっと一緒に居たい……他の人となんか、結婚したくない」
まるで子どもの駄々のような雛乃の台詞を、石田は黙って聞いていた。それから真面目な顔で、「かしこまりました」と頷く。
雛乃は枕元にあるティッシュで、滲んだ涙を押さえた。メイクが軽く落ちてしまったが、仕方ない。できる限り毅然とした態度を取り繕い、石田に問いかける。
「……石田。お父様は、もうお戻りかしら?」
「いえ、まだ。本日は二十二時にご帰宅の予定です」
「承知しました。では父に、二十二時からのアポを取っておいてください。……雛乃から大事な話があると、伝えてもらえるかしら」
「かしこまりました」
石田は立ち上がると、丁寧な一礼をする。「失礼します」と部屋を出ようとする石田の背中を、雛乃は「待って」と掴んでいた。
「……あなたも、一緒に来てくれる?」
「もちろんでございます」
戦いに挑むとき、一人じゃないというのは心強いものだ。雛乃は「ありがとう」と言って、まるで幼い頃のように、無邪気に石田に抱きついた。
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