43.お嬢さんへの気持ち
「石田さん……なんでこんなとこに? もしかして、雛乃さんも来てるんですか?」
突然現れた石田の背後に、ついつい雛乃の姿を探してしまう。しかし俊介の期待を嘲笑うかのように、石田は首を横に振った。
「いいえ、私一人です」
「そう、すか」
答える声が掠れている。雛乃がすべてを捨てて自分のところに来てくれるなんて、ありえないことだとわかってはいたけれど――それでも俊介はがっかりした。
馬鹿げた期待を一瞬でもした自分を殴り飛ばしたくなる。最後に雛乃を突き放したのは、他でもない俊介自身だというのに。
「入っても?」
「え? あ、はい、どうぞ」
俊介は戸惑いながらも、石田を部屋に招き入れた。一応クッションを用意したが、石田はそこには腰を下ろさず、畳の上に正座をした。一応お茶のひとつでも出した方がいいだろうかと、俊介はキッチンの棚を開く。
「コーヒーでも飲みます?」
「いえ、結構です。お茶を飲みに来たわけではありませんので」
石田はそう言って、くいっと眼鏡の縁を持ち上げた。かしこまっているわりに高圧的な口調が、雛乃にどことなく似ていて、俊介はなんだか懐かしくなった。
「じゃあ、何の用なんすか」
俊介は敷きっぱなしの布団の上であぐらをかく。石田はまっすぐにこちらを見据えながら、口を開いた。
「……本日は、雛乃様ではなく、松ヶ崎様の使いで参りました」
「……ああ、お嬢さんの婚約者の。そういや今日、結納するんですってね。おめでとうございます」
心にもない祝いの言葉を口にすると、ギロリと鋭く睨みつけられた。
「結納ではありません。結納とは、挙式のおよそ一年前に執り行われるのが一般的ですから。本日はただの両家顔合わせです」
「はあ、そうすか。違いがよくわかんないですけど」
「そもそも松ヶ崎様と雛乃様は、まだ正式に婚約を取り交わしたわけではございません」
「……こないだ、パーティーで婚約発表してたみたいですけど」
「あれは松ヶ崎様の勇み足です。……ただ、本日の顔合わせが終われば、お二方の婚約は正式に取り交わされ……体外的にも発表されることとなるでしょう」
石田の言葉に、俊介は緩く下唇を噛み締めた。どんどん、取り返しのつかない事態が迫っているのがわかる。もう俊介には、どうすることもできないというのに。
「……それはさておき、あなたとのんびり話をするつもりはありません。本題に入りましょう」
石田はそう言うと、高価そうな革の鞄からファイルを取り出すと、その中から一枚の紙を差し出してきた。受け取ってみると、「誓約書」と書かれている。
〝私、山科俊介(以下、甲とする)は、今後一切御陵雛乃(以下、乙とする)に近付かず、関わりを持たないことを誓います。〟
そこに書かれた文章を読んで、吐き気がしてきた。そのあとにもつらつらと、禁止事項が書き連ねられている。内容はおおむね、雛乃との接触を禁止する、向こうから接触があった場合も拒否する、というものだった。
〝甲は、乙への恋心を完全に捨て去ること。以上〟
よくもまあこんな文言を、大真面目な顔で突きつけられるものだ。人をストーカーか何かだと思っているのだろうか。
最後の一文まで読み終えたところで、むかっ腹の立った俊介は石田を睨みつける。しかし彼は、涼しい顔で俊介の視線を跳ね返した。
「何なんですか、これ」
「松ヶ崎様より、こちらを取り付けるよう命じられました」
「はぁ?」
「どうやら松ヶ崎様は、山科様の存在を危惧しているようです。雛乃様が婚約を破棄し、あなたの元に行ってしまうのではないかと」
冷たい目で俊介を見据えていた、いけ好かない婚約者の顔が頭に浮かぶ。俊介は不機嫌さを隠そうともせず、「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てた。
「……こんなもの書かなくても、俺はもうとっくに雛乃さんから手を引いてますよ」
「本当に? もし雛乃様がすべてを投げうってあなたの元にやって来たとき、あなたは本当に彼女を拒絶できますか?」
内面を探るような鋭い目つきに、俊介はすぐに返答ができなかった。まごついているうちに、石田は淡々とした口調で続ける。
「考え過ぎとお思いでしょうが、万にひとつの可能性も潰しておきたいと。松ヶ崎様は、そういう周到なお方なのです」
「……ともかく、不愉快です。俺がこんなもんにサインする義理、ないですよ」
俊介は苛立ちを隠そうともせず、誓約書を石田に突き返した。
一方的にこちらを悪者扱いして、こんなものを書かされるなんて御免だ。人の気持ちをなんだと思っているのだろうか。
「山科様の仰ることはもっともです。こちらも当然、何の見返りもなく山科様にお願いに来たわけではありません」
石田はそう言って、再び手元にファイルを開く。続いて差し出してきたのは、長方形の小さな紙――小切手だった。
こんなもの、フィクションの世界でしか見たことがない。記載された金額のゼロの数を確認して、目眩がしてきた。俊介はまるでうわごとのように呟く。
「五百万円……」
「いわゆる、手切金というやつでしょうか。一介の学生にとっては大金でしょうが、松ヶ崎様にとっては端金だ」
俊介の手が震えて、生唾を飲み込む。
この世で何よりも大事なものは金だ。俊介は今までずっと、心の底からそう信じてきた。金さえあれば、俊介の父親だって死なずに済んだ。
「簡単なことでしょう。あなたが雛乃様への想いを捨てると一言言えば、それはあなたのものだ」
「俺、は……」
「おめでとうございます。世間知らずのお嬢様を誑かして、上手くやりましたね」
その言葉を聞いた瞬間、かっと全身の血液が沸騰したようになった。怒りと恥ずかしさで、顔面に熱が集中する。
金目当てで彼女と付き合ってたわけじゃない、なんて口が裂けても言えない。雛乃との関係は、文字通り金目当てで始まったのだ。たった半年間の、時給三千円の割の良いアルバイト。
人の気持ちなんてものは、いくらでもお金で動かせる。奇しくもそれは、俊介自身が雛乃に向けたセリフだった。
――では、あなたの愛はお金で買えますか?
――そうすね。札束で頬ブン殴ってくれたら、いくらでも。
はは、と渇いた笑いが唇から漏れた。やっぱり自分はどうしようもないクズで、人の心がない金の亡者だった。
俊介は石田に向かって、小切手をひらひらと振ってみせる。
「……雛乃さんの婚約者は、俺のことをよくわかってるみたいですね。たしかに俺はがめつい守銭奴で、札束で頬を殴ればいくらでも動く人間です」
歪な笑みを浮かべてそう言うと、石田がまるで失望したかのように表情を歪める。しかしそれも一瞬のことで、すぐに能面のような顔つきに戻り、「話が早くて助かります」と言った。
「……ただ、これっぽっちじゃ到底足りませんね」
俊介は手にしていた小切手を、勢いよく破り捨てた。ポイッとゴミ箱に放り込んだあとで、呆気に取られている石田に向かって、ニヤリと不敵に笑ってみせる。
「俺の雛乃さんへの気持ちを動かしたかったら、国家予算ぐらい見積もってきてください」
いまさら、遅すぎるけれど――今になってようやく、自分の雛乃への気持ちの大きさを思い知らされた。五百万ぽっちじゃぴくりとも動かないぐらいに、俊介は雛乃のことが好きだった。
世間知らずで天然で、イルカが好きで、ラーメンを食べるのが下手くそで、ポニーテールがよく似合って。負けず嫌いで、ちょっと意地っ張りで、方向音痴で。他人のために涙を流せる、優しい女の子。
見て見ぬふりしてきた自分の醜いところを掬い上げて、とっても綺麗ですよと笑ってくれた。まっすぐにこちらを見つめる黒い瞳はきっと、どんな宝石よりも価値があるんだ。
雛乃はいつだって真正面から俊介に向き合ってくれたのに、俊介は自分の気持ちを伝えることさえできなかった。彼女の幸せがどうだ、住む世界がどうだと御託を並べたところで、結局のところ俊介は逃げたのだ。自分が傷つくことも、自分のせいで雛乃を苦しむことも、怖かった。
(雛乃さんの幸せを、俺が勝手に見積もるべきじゃない)
自分の気持ちを伝えて、雛乃の答えを聞く猶予ぐらいは、あるだろうか。二人で幸せになる道が、残されているだろうか。
――きっと、まだ間に合う。
「……俺、行かないと」
俊介は立ち上がると、石田が目の前にいるのにも構わず、適当なパーカーとデニムに着替えた。マウンテンパーカーを羽織ってスニーカーを履く俊介に向かって、石田が問いかける。
「山科様、どちらに?」
「……雛乃さんの、とこですよ! 正式に婚約してないなら、まだセーフでしょ!」
俊介が言うと、石田は呆れたように肩を竦めた。
「雛乃様がどちらにいらっしゃるのか、山科様はご存知なのですか」
「……俺が、知るわけないでしょうが! さっさと教えてください!」
「それが人に物を頼む態度ですか」
石田はやれやれと首を振って、高級そうな腕時計に視線を落とす。現在の時刻は十時半だった。
「両家の顔合わせは十一時からです。ここからだと電車を乗り継いで、一時間はゆうにかかります。到底間に合いませんよ」
「……っ、でも、俺は」
諦めたくありません、と俊介が言い終わる前に、石田がポケットから車のキーを取り出した。彼に不釣り合いな、やけに可愛らしいイルカのキーホルダーが、ちゃりんと音を立てて鳴る。
「私の車なら、三十分もかからず到着します。山科様、参りましょう」
促されるがままに、石田の後ろについて外に出ると、オンボロアパートの前に、白のロールスロイスが停車していた。石田は優雅な仕草で、「どうぞ」と後部座席の扉を開いてくれる。
俊介がぽかんとしていると、眼鏡の向こうの瞳を細め、ほんの少しだけ口角を上げて微笑んだ。
「私には雛乃様の幸せ以上に優先すべきものはないと、以前申し上げたでしょう」
俊介は石田に笑みを返すと、「今度なんか奢ります!」と叫んで、ロールスロイスへと乗り込んだ。
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