42.お嬢さんを忘れられない

 かくして御陵雛乃と山科俊介の半年間の恋人契約は、滞りなく終了した。

 めでたく雇用満了となった俊介は、大学の研究室に籠って、年が明ける前に卒業論文を完成させた。別のことで頭をいっぱいにすることで、できる限り雛乃のことを考えないようにしていた。

 椥辻美紅から事情を聞いたらしい龍樹が、何故別れたのかと事の次第を聞きたがったが、当然言えるはずもない。

 十二月二十五日のクリスマスには、口座に最後の給料が振り込まれていた。雛乃からの明細も、メールで届けられた。内容をご確認ください、という事務的な文章に、俊介は返信をしなかった。


 半年前と、何かが変わったわけではない。俊介も雛乃も魔法が解けて、お互い居るべき場所に帰って行っただけだ。

 それでも俊介は、毎日に物足りなさを感じていた。〝週末に雛乃に会える〟という事実は、どうやら思いのほか俊介を奮い立たせていたらしい。俊介は空虚に日々のタスクをこなしながらも、表面上は半年前と変わりなく過ごしていた。

 雛乃との別れから一ヶ月が経っても、彼女は俊介の心を奪ったまま返してくれない。この場に残されたのは、幸せな思い出と六ヶ月分の給与だけだ。




 年が明けた一月の半ば。俊介の大学生活も、およそ残り二ヶ月だ。とはいえ必要な講義はすべて取り終えているし、すべきことはほとんどない。残る関門は、一月末にある卒業論文の口頭試問のみである。


「いやー、終わった終わった! これで無事卒業できるー!」


 つい先ほど、締切ギリギリで無事に卒論を提出し終えた龍樹も、晴れ晴れとした表情を浮かべている。何もかも忘れたような顔でうーんと伸びをしているので、一応釘を刺しておく。


「おまえ、口頭試問のこと忘れてねーか? 俺が手伝ってやったとこ、ちゃんと答えられるように対策しとけよ」

「ヘーキヘーキ! オレ、適当に誤魔化すスキルだけは高いから!」


 そう言ってヘラヘラ笑う龍樹を、俊介はジト目で睨みつける。教授に詰め寄られてしどろもどろになっている姿が目に浮かぶようだったが、あとはもう俊介の知ったことではない。


「手伝ってやったんだから、相応の報酬払えよ」

「御礼はオレの感謝の気持ちってことで」

「気持ちで腹は膨れない」

「はいはい、わかりましたよー。じゃ、さくらや食堂行こうぜ。昼メシ奢ってやるよ」

「そんなんで済まされると思うなよ」


 俊介は文句を言いつつも、大学近くにある定食屋に移動した。遠慮なく、一番高いビフテキ定食九百八十円を注文する。龍樹は「容赦ねえー」と言いつつ、カキフライ定食を注文していた。

 カウンター席に並んで腰掛けると、ほどなくして目の前に定食の乗ったトレイが置かれる。メインのビフテキに白米、千切りキャベツ、小鉢に入った切干し大根に味噌汁。俊介はあまり訪れないが、近隣の大学生御用達の定食屋である。

 俊介の皿を覗き込んだ龍樹が、「おっ」と声をあげた。


「俊介、それ美味そうだな。オレのカキフライと一個ずつ交換してくれ」

「バカ言うな。俺のビフテキ定食は六切れで九百八十円、おまえのカキフライ定食は五個入りで七百八十円。その交換は俺の方が損だ」

「どっちもオレの金だけどな!」


 喚く龍樹を無視して、カウンター上に置かれた割り箸を手に取る。ふたつに割ろうとしたところで、まるで世間話のようなトーンで龍樹が言った。


「あ。そういや御陵さん、今週末に婚約者と結納? するんだってさ」

 

 パキン、と音を立てて割り箸が歪に割れた。不揃いな二本の棒を眺めながら、割り箸検定不合格、と俊介は舌打ちをする。にわかに喉が渇いてきて、グラスに入った水を一気飲みした。


「あれ、結納でいいんだっけ。婚約前の両家顔合わせみたいなやつ」

「……たぶん」


 俊介は眉を寄せ、お椀に入った味噌汁をすする。不機嫌そうな俊介に気付いたのか、龍樹は慌てたように言った。


「あ、もしかしてまだ御陵さんのこと引きずってた!? ごめんごめん、俊介全然平気そうだから、吹っ切れてるのかと」

「全然引きずってねーよ」


 俊介はそう強がったが、実際は相当堪えていた。未だ新鮮な血が流れ続けている傷口に、容赦なくナイフを突き立てられたような感じだ。


「……お嬢さんのこと。誰から聞いたんだよ」

「美紅ちゃんに決まってるだろ! 美紅ちゃん、俊介と別れてから御陵さんが落ち込んでるって心配してたぞ。優しい子だよなあ」

「……」


 別れた後の雛乃の様子を、俊介はできるだけ考えないようにしていた。彼女が俊介のことを想って悲しんでいるのも、忘れて吹っ切れているのも嫌だったからだ。

 いざ実際に落ち込んでいると聞かされると、やはり胸が苦しくなった。九百八十円のビフテキ定食を食べようとしたところで、最悪のタイミングだ。

 甘辛いタレの絡んた肉を口に運んでいると、龍樹がぽつりと呟いた。


「御陵さん、別の男と結婚するんだな……気の毒に」

「……気の毒かどうかは、わかんねーだろ。今は落ち込んでても、長い目で見ると、俺みたいなのと結婚するよりずっと幸せだ」


 俊介がそう吐き捨てると、龍樹はまるで自分のことのように悲しげな顔をした。


「なんでそんなこと言うんだよ。御陵さんは、俊介のことが好きなんだぞ。オレはあんまりあの子のこと知んねーけど、美紅ちゃんの話聞いてるだけでわかる」

「……雛乃さんは御陵コンツェルンのお嬢様だぞ。釣り合いの取れた相手と結婚した方がいいに決まってる」

「それ、御陵さんが言ってたの? あなたは貧乏だから他の男と結婚したいんですーって」


 俊介はかぶりを振る。雛乃の口から直接そんなことを言われたら、俊介はきっとショックで卒倒していただろう。


「じゃあさ、ちゃんとおまえの気持ち伝えたうえで、御陵さんの話聞いてあげた方がいいんじゃねーの。たいていの男女のすれ違いは話し合いで解決するって、うちのバアちゃんが言ってたぞ」

「話し合い、ねえ……」


 ――なんであの手のラブストーリーって男も女もホウレンソウしないんですかね? 中盤のすれ違い、ちゃんと話し合えば八割がた解決する問題だったでしょ。

 ――まあ、俊介は恋愛の機微というものがわかっていませんね。そこで口に出して相手の気持ちを確認できないのが、恋というものですよ。


 いつだったか、雛乃と二人で見た映画のことを思い出す。あのとき雛乃が言っていた言葉の意味が、今の俊介にはよくわかった。


(もし、雛乃さんが好きですって、伝えられてたら……二人で一緒に幸せになる方法を考える道も、あったんだろうか)


 そんなことを考えて、ぶんぶんと頭を振った。

 どのみち、もう手遅れだ。週末には雛乃は正式に婚約を取り交わして、俊介の手の届かないところに行ってしまう。


「……もう、いまさらどうにもなんねーよ」

「俊介って、ほんとに去る者追わないよな……一回ぐらい、本気で泣いて縋ってみれば?」


 龍樹がそう言って、憐れむような視線を向けてきた。泣いて縋ってどうにかなるなら、もうとっくにしている。

 俊介は「やんねーよ」と言って、性懲りもなくビフテキに箸を伸ばしてくる龍樹の手を叩いた。




 枕元でけたたましくアラームが鳴り響く。俊介は手だけを伸ばしてそれを止めると、すぐに毛布の中に手を引っ込めた。布団の外に出た瞬間に、凍りつきそうな寒さだ。

 俊介はノロノロと瞼を持ち上げて、窓の外を確認する。カーテンの隙間から弱々しい光が射し込んでいるのがわかって、今日は晴れているんだな、と判断する。

 雨が降っていなくてよかった。結納という儀式の詳細を俊介は知らないが、きっと振袖を着たりするんだろう。振袖姿の雛乃を想像して、見たかったな、なんて未練がましいことを考えてしまう。

 覚悟を決めていたはずが、実際に土曜日が訪れると気分が沈んだ。こんな日に限って、夜のバイトまで予定もない。今日は家から一歩も出ずに過ごすことにしよう、と決意する。

 時刻はまだ朝の九時だ。二度寝でもするか、と再び目を閉じる。ほんの一ヶ月前までは土曜日が楽しみで、早起きだって苦にはならなかったのに。

 ロールスロイスから降りてきた雛乃が俊介を見つけて、ごきげんよう、と微笑む瞬間が好きだった。あの笑顔はもう、二度と向けられることはない。


 毛布にくるまって感傷に浸っていると、ピンポン、というインターホンの音が鳴った。なんとなく胸がざわめくものを感じた俊介は、すぐに布団を跳ね除ける。


(まさか、もしかして……雛乃さん?)


 婚約を間近に控えて、やはり俊介のところに来てくれたのではないか。そんな淡い期待が胸をよぎる。

 俊介は勢いよく起き上がると、高鳴る心臓を押さえつけながら、玄関の扉を開けた。


「おはようございます。山科様」

「……石田、さん」


 俊介に向かって恭しくお辞儀をしたのは、黒のスーツを身に纏った、お嬢様の運転手だった。

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