12.お嬢さんとおそろい

 七月の三連休初日、土曜日の午前九時四十五分。

 俊介の目の前で停車したロールスロイスから、雛乃が優雅に降りてきた。凶悪な初夏の日差しは、運転手の石田から差し掛けられた紺色の日傘によって遮られている。


「本日も、十八時にお迎えに参ります」


 石田はそう言って、持っていた日傘を当然のように俊介に手渡した。これじゃあ彼氏じゃなくて従者じゃないですかね、と思いつつ、素直に日傘を受け取る。

 石田が再び車に乗り込み、あっというまに走り去っていく。二人きりになった途端に、俊介は雛乃の姿を頭から爪先までじろじろ眺めた。

 冷房の効いたロールスロイスでやってきたお嬢様は、この暑さだというのに涼しげな表情を浮かべている。黒髪ロングはいつものようにハーフアップに結われ、完璧な化粧は少しも崩れていない。本当に汗腺が存在するのか不思議に思うほどだ。

 服装は襟のついた清楚なブラウス、ふくらはぎが隠れるぐらいのタイトスカートにハイヒール。デートのとき、雛乃はたいてい上品なスカートやワンピースを着ていることが多い。よく似合っているし、俊介は彼女の服装に文句をつけたことはなかった。しかし今日ばかりは、一言ばかり言いたくなる。


「お嬢さん、もしかしてその格好で行くつもりですか?」

「あら、なにか問題でも?」


 雛乃は眉ひとつ動かさず、首を傾げた。


 本日の俊介と雛乃のデートの行き先は、さまざまなスポーツが楽しめるアミューズメント施設である。例にも漏れず、「大学生 デート 行き先」で検索してヒットしたものだ。

 今回ばかりは断られるかな、と思っていたのだが、雛乃はあっさりとOKを出した。誘っておいてなんだが、汗ひとつかかない深窓の令嬢が身体を動かしているところを、俊介は少しも想像できない。果たしてこの人は、走ったり飛んだりするんだろうか。おそらく俊介のように、遅刻ギリギリで電車に飛び乗ったりはしないのだろうが。

 今日の雛乃の装いもお嬢様然としており、どう考えても運動に不向きである。ブラウスの胸元を指でつまんだ雛乃は、不思議そうに瞬きをしている。


「そんなスカートじゃ、マトモに走れないでしょ」

「……まあ。レンタルウェアなどはないのですか?」

「俺もあんまり詳しくないですけど、普通はないと思いますよ。靴ぐらいなら貸してもらえると思いますけど……そんなにガチらなくても、Tシャツにデニムとかでいいんじゃないですかね」

「そうなのですか。申し訳ありません、私も下調べが不十分でした。では、どこかで調達することにいたしましょう」


 こういうとき、すぐに金で解決しようとするあたりがお嬢様である。お金持ちには、家に帰って着替える、などという発想はないのだ。


 そのとき、時刻が十一時になった。俊介との距離をさりげなく詰めてきた雛乃は、「では、案内していただけますか」と微笑む。業務時間中の彼女の声のトーンは、いつもよりやや甘えた響きがある。


「え、どこに?」

「普段あまりカジュアルな格好をしないので、そういう衣服が売っているお店を知らないんです。よろしければ、俊介が連れて行ってください」


 雛乃の言葉に、俊介は困ってしまった。俊介とて、女性のファッションにそれほど詳しいわけではない。それでも雇用主こいびと命令おねがいとあれば、従わないわけにはいかないだろう。


「……承知しました、雛乃さん」


 俊介はそう答えて、日傘を雛乃に差し掛ける。傘の影に入るようにこちらに寄り添ってきた彼女は、俊介の腕にそっと手を置いてきた。




 俊介が雛乃を連れてきたのは、駅前にある女性向けのファッションビルだった。以前、香恋の荷物持ちに付き合わされた際に一度だけ来たことがある。

 当時の記憶をたどりながら、香恋が買い物をしていた店に足を向ける。少々派手だが、動きやすい服のひとつやふたつあるだろう。雛乃が物珍しそうに、キョロキョロと店内を見回した。


「そういえば、以前お会いした……北山さん、でしたか。彼女もこういった格好をしていましたね」

「……そうでしたっけ」

「はい。おへそが出ていました」


 別にやましい気持ちはないのだが、俊介は内心冷や汗をかいた。雛乃は妙に鋭いところがある。元カノとデートした場所に恋人を連れてくるのは、減点対象だろうか。気付かれないようにしなければ。

 雛乃はハンガーラックにかかった丈の短いTシャツを手に取って、まじまじと眺める。着てみるのかと思いきや、彼女はすぐにそれをラックに戻した。


「あれ、買わないんですか」

「……そうですね。お、おへそが出るのはちょっと……」

「なんだ。見たかったのに」

「ば、ばか」


 俊介の軽口に、雛乃は頰を赤らめる。はい、「ばか」いただきました。ちなみに、冗談ではなく半分本音だ。

 雛乃は難しい顔をして、あれやこれやと服を手に取っては戻している。このまま彼女の買い物に付き合うのも悪くない気分だったが、本日の目的はそれではない。


「これなんか、どうです? 試着してみたらどうですか?」


 俊介は適当な服を手に取って、戸惑う雛乃に押し付けた。すぐさま飛んできた店員が、「おねえさん、めちゃめちゃ美人ですねー! 絶対似合いますよ!」などと言いながら、雛乃を試着室へと連行していく。


 試着室の前で腕組みをして待っていると、中から雛乃の「俊介、そこにいますか」という不安げな呼びかけが聞こえてきた。俊介は彼女を安心させるように「ここにいますよ」と返事をする。


「着替え手伝いましょうか。あ、サイズ大丈夫でした? ウエスト入ります?」

「け、結構です! もう、あなたって、本当にデリカシーのない……!」


 カーテンの向こう側で真っ赤になって怒っている雛乃を想像して、俊介はこっそり笑みを溢す。ほどなくして、カーテンの隙間からひょっこりと雛乃が顔を出した。


「着替え終わりました?」

「終わりました、けど……少々脚が出過ぎているような気もします」


 もじもじしている雛乃をよそに、俊介は遠慮なく試着室のカーテンを開ける。これまでに見せたことのないカジュアルな装いの雛乃が姿を現す。

 俊介が選んだのは、オーバーサイズのTシャツにデニムのショートパンツ、白のスニーカーだった。見た目も涼しげで動きやすそうだ。ショートパンツの裾からすらりと伸びた脚は眩しかったが、雛乃が気にするほど露出が多いわけではない。普段隠されている部分が見えているのはエロくていいな、と思ったが、口に出すのはやめておいた。


「可愛いですよ。俺は好きです」


 俊介が言うと、雛乃ははにかんだように微笑んだ。真正面からその笑顔に撃ち抜かれて、俊介はぎくりとする。彼女が時折見せるこんな顔の方が、真っ白い太腿よりもよほど破壊力が高い。


「……では、これにします。すみません、このまま着ていくのでタグを切っていただけますか」


 試着室から出てきた雛乃は颯爽とレジに向かい、合計金額を聞いて目を丸くしている。どうやら安さに驚愕しているようだ。おそらく普段彼女が着ている服は、桁がひとつかふたつ違うのだろう。

 彼女はいつものように、真っ黒いカードで会計を済ませた。先ほどまで着ていた服は、綺麗に畳んでショップバッグに入れられる。俊介は雛乃の代わりに、店員からそれを受け取った。


「それでは、参りましょうか」


 雛乃はそう言って、俊介の手をぎゅっと握りしめる。隣を歩く彼女がなんだかやけに嬉しそうにしているので、不思議に思って問いかけた。


「なんかニヤニヤしてますね、雛乃さん」

「そうかしら? でも、たしかに……普段しない格好をするのは、なかなか楽しいものですね」

「ふーん。コスプレみたいなもんですかね」

「スニーカーも歩きやすいですし。俊介とお揃いですね」


 言われて初めて、俊介も雛乃と似たような白のスニーカーを履いていることに気がついた。俊介の格好はシンプルなTシャツに古着のデニムだ。普段はまったく釣り合いが取れていないが、今日ばかりは隣にいてもそれほど違和感がないかもしれない。


(……まあ少なくとも、主人と従者には見えないだろうな)


 踵のないスニーカーを履いている雛乃はいつもより背が低く、不思議と幼く見える。雛乃は手も小さいが足も小さい。こうして並べると、余計に大きさの違いが強調されてしまって、なんだか胸の奥がうずうずした。

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