29.お嬢さんと花火

 石田と別れた俊介と雛乃は、電車に乗るべく駅に向かった。

 慣れない雛乃が切符を買うのにモタモタしているので、代わりに俊介が購入した。「お金を」と小銭を取り出す雛乃に「あとでいいです」と言い放ち、小走りにホームへと向かう。

 タイミング良く到着した電車に乗り込んだ。驚くほどに混雑しており、車内は少しの隙間もなくぎゅうぎゅう詰めだ。この先で花火大会が行われるのだから、考えてみれば当然である。


「雛乃さん、大丈夫ですか?」

「は、はい……な、なんとか」


 生まれて初めての満員電車に、雛乃は目を白黒させている。

 小柄な雛乃が押し潰されてしまわぬよう、俊介は彼女を扉側に移動させて身体の横に手をついた。多少隙間を空けようと思ったのだが難しく、電車が揺れた拍子に雛乃の顔が俊介の胸に押しつけられた。


「きゃっ」

「あ。すみません、雛乃さん」

「い、いえ……」


 窮屈な車内では身動きが取れず、雛乃の柔らかな身体がぴたりと密着している。「転ばないでくださいね」と言うと、彼女は躊躇いがちに手を伸ばしてきて、俊介のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。

 雛乃の甘い香りが鼻先をくすぐってきて、ギクリとする。この体勢だと彼女に自分の心臓の音が聞こえてしまうのでは、とヒヤヒヤした。バクバクとうるさい鼓動を鎮めようとしても、雛乃がそばにいるとどうにも上手くいかない。

 

 満員電車に三十分以上揺られるのは、なかなかきつい。比較的慣れている俊介ですらそうなのだから、雛乃はもっと辛いだろう。黒髪の隙間から覗く雛乃の耳は真っ赤に染まっている。

 ずっと下を向いている雛乃の体調が心配になり始めた頃、車内に次の停車駅を知らせるアナウンスが流れた。雛乃の耳元に唇を寄せて「次降りますよ」と言うと、彼女は肩をびくんと揺らした。

 扉が開くと同時に、雛乃の手を引いてホームに降りる。この駅で降りたのは、俊介たちを含めて数人だった。ぎゅうぎゅう詰めの電車を見送った雛乃は、不思議そうに瞬きをしている。


「……俊介。本当にここでいいんですか? メイン会場の最寄りは、もう少し先のようですが……」

「今からあっち行ったって、いい場所は全部取られてますよ。帰るのも大変ですし。ここからでも見える場所があるらしいんで、我慢してください」

「わ、わかりました」


 二人揃って改札を出ると、少し歩いたところに海岸がある。夜の海は灯りを反射して鈍く輝き、ゆらめいている。階段を降りて砂浜に足を踏み入れると、さくさくと軽い音がした。

 高いヒールを履いた雛乃が、砂に足を取られてよろめく。俊介は慌てて彼女の身体を支えた。意図せず、腰を抱き寄せるような格好になる。どうしようかと思ったが、俊介は雛乃を離さなかった。雛乃も嫌がる様子はなく、俊介の肩に頭を預けてくる。


「花火があのへんの船から打ち上げられるんで、こっからでも多少は見えるはずです」

「なるほど。穴場というやつですね」


 雛乃が大真面目な顔で頷く。椥辻美紅を誘おうか悩んでいた龍樹から仕入れた情報だったが、役に立ってよかった。ちなみに、龍樹は結局美紅を誘えなかったらしい。

 浜辺には、俊介と同じ目的であろう人々がぽつぽつと立ち尽くしていた。家族連れや、スウェット姿の中年男性もいる。近隣に住む地元の人間なのかもしれない。そんな中でぴったりとくっついている雛乃と俊介は、きっとイチャつくバカップルに見えているのだろう。別にそれでも構わない、と思う。


 数分ののち、にわかに周囲がざわめきだした。時刻は十九時を回っている。ほどなくして、ポンポン、という軽い破裂音が夜の海に響いた。


「……あれ、かな?」

「あれ、ですね……」


 海の向こう側、真っ黒い空に弾ける炎の玉が僅かに見える。しかしここからだと角度が悪く、海岸沿いにある巨大なホテルの影に邪魔をされ、花火自体はほとんど見えない。


(ちくしょう、龍樹の奴。適当な情報掴ませやがって)

 

 心の中で友人を罵倒する。よくよく考えると、本当にここから花火が綺麗に見えるなら、こんなに人がまばらではないはずだ。

 俊介はがっくり肩を落としたが、雛乃は目線を外すことなく、まっすぐに花火を見つめている。


「とっても綺麗」

「……いや。気ィ遣ってくれなくてもいいっすよ……これなら雛乃さんの部屋から見える花火の方が、よっぽど」

「……いいえ。私がこれまで見てきた景色の中で、今この瞬間に見える花火が一番綺麗です」


 夜の海に、花火が打ち上がる音が響く。どこか遠くから、拍手や歓声の音が聞こえてくる。

 それでも俊介の耳には、雛乃の声以外何も入ってこなかった。僅かな光を反射する雛乃の黒い瞳が、この世に存在するどんなものより美しい。


「……きっと、あなたが隣にいるからですね」


 花火から目を逸らした雛乃がこちらを向いて、柔らかく微笑む。胸が締めつけられるように甘く痛む。抱き寄せた腕に、力がこもる。


(来年も再来年も、一緒にいられたらどんなに)


 本当は笑って、「来年も一緒に見ましょうね」だなんてことを言えたらよかった。それが叶わぬ願いであることを、俊介も雛乃も重々承知している。


「……俊介、連れてきてくれてありがとう。私きっとこれから先、何度もこの光景を思い出します」


 こちらを見つめる雛乃の目は潤んでいる。建物の影に隠れて碌に見えない、お世辞にも美しいとは言えない火花。それを彼女が思い出すとき、きっと俊介は、彼女の隣にいないのだ。

 

「これからどんなことがあろうとも、今日のこの思い出があれば、何だってできるような気がするのです」

「……雛乃さん、俺は」


 喉の奥が詰まって、言葉が出てこない。俊介が雛乃に言えることなんて、結局何もないのだ。彼女の気持ちを受け入れることも、自分の気持ちを伝えることもできない。


 ――私が求めているのはあくまでも、一日限りの〝ローマの休日〟なんです。上手に騙してくださいね。


 別の男と結婚する雛乃にとって、俊介は思い出以上の何にもなれない。それなら、とびきり素敵な夢を見せてやることが――契約彼氏である、自分の務めだ。


「……あと、二ヶ月間。雛乃さんを上手に騙せるように、頑張りますよ」


 お嬢様に、幸せな夢を見せてやれるように。この恋心を、絶対に気付かれないように。契約彼氏としての仕事を、完璧にまっとうしてやる。

 雛乃は一瞬悲しげに目を伏せたのち、「はい」と頷いた。花火の音はまだ止まず、真っ黒い海の上に僅かな光だけを落としている。


(この景色を、一生覚えていよう)


 業務時間も終わった、給料も発生していない今この瞬間だけは。たとえかりそめのものだとしても――御陵雛乃は、自分の恋人なのだ。

 花火を見つめながら、抱き寄せた腕にそっと力を込める。隣に寄り添うぬくもりと柔らかさに酔いしれながら、終わりに向かうしかない恋を静かに自覚した。


 


 俊介と雛乃は花火が終わる前にダッシュで電車に乗り込み、二十時半ギリギリで元いた駅に戻ってきた。

 駅前のロータリーで既に待ち構えていた石田は、渋い顔で雛乃をロールスロイスに押し込む。それから俊介を、ギロリと鋭く睨みつけてきた。


「山科様、三分遅刻です」

「……はぁ、はぁ……勘弁してくださいよ……これでも死ぬほど急いだんです」

「くどいようですが、今回はあくまでも特例でございますから。二度はないことを、お忘れなきよう」

「わかってますよ。あと二ヶ月、良い子で契約彼氏やりますってば」


 軽口混じりに石田に向けた言葉は、自分自身に言い聞かせたものでもある。冗談めかして敬礼をすると、石田は呆れたように息を吐いた。


「あのっ、俊介! 今日は本当に、ありがとうございました! とっても楽しかったです」


 後部座席の窓を開けた雛乃が、こちらに身を乗り出して興奮気味に言った。俊介は手を伸ばし、雛乃の頭を軽く撫でてやる。


「どういたしまして。言っとくけど、サービス残業はこれきりですからね。来週からまたよろしくお願いします」

「……はい!」


 最後に雛乃の髪をぐしゃりと乱すと、名残惜しく思いながらも手を離す。白のロールスロイスがすっかり見えなくなるまで、俊介はその場に立ちすくんで見送っていた。

 

(あと二ヶ月で、俺は笑って彼女にさよならを言えるようになるだろうか)


 今しがた別れたばかりなのに、もう雛乃の顔が見たくなっている。好き放題に暴れ出す、聞き分けのない恋心を押さえつけながら、俊介はこれから始まるであろう幸せな地獄の日々に絶望していた。

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