28.お嬢さんとサービス残業
松ヶ崎と別れたあと、俊介は顔色の悪い雛乃を気遣い、近くにある適当なカフェに移動した。
俊介はアイスコーヒー、雛乃はホットのカフェラテを注文した。ふかふかのソファに座って、コーヒーカップに口をつけた雛乃は、ようやく人心地ついたようにほっと息をついた。
「雛乃さん、大丈夫ですか」
「……はい。お気遣いありがとうございます」
「さっきの男って、やっぱり」
俊介の問いに、雛乃はさっと目を伏せると、やや言いにくそうにボソボソと答えた。
「……私の婚約者、です。まだ正式に婚約を取り交わしたわけでは、ありませんが……」
俊介は息を呑む。わかってはいたが、雛乃の口から聞くとショックが大きかった。今まで輪郭のぼんやりとした概念でしかなかった「雛乃の婚約者」が、突然リアルな質量をもって殴りかかってきたような感じだ。
「……彼は、御陵グループの関連会社の社員です。家柄も良く優秀なので、五年前に父が私との婚約を決めました。ゆくゆくは父の跡を継ぐことが決まっていますから、チャンスを逃すまいと必死なのでしょうね」
雛乃は早口に、どこか言い訳めいた口調で言った。まるで、この婚約に自分の意思は少しも介在していない、と主張するかのように。
俊介は内心の動揺を押し殺しながら、いつものへらへら笑いを取り繕う。
「……結構男前でしたね。しかも、優秀で野心と向上心もある。よかったじゃないですか」
俊介の言葉に、雛乃は弾かれたように顔を上げた。怒ったような、それでいて今にも泣き出しそうな表情で、こちらを見据える。
「私にとっては、あなたがっ……」
そこまで言って、雛乃は言葉を切った。きつく下唇を噛み締めて、いやいやをするように首を横に振った。
「……いいえ。婚約者に対して、こんなことを言うべきではありませんね……」
「……」
「彼にしてみれば、いくら恋人の真似事とはいえ、不貞を働いているのは私の方です。
雛乃は自分に言い聞かせるかのように言うと、カフェオレをもう一口だけ飲む。彼女を見つめながら、俊介はぼんやりと考えた。
(……もうこれ以上、この契約を続けるのは良くないかもしれない)
契約期間はまだ二ヶ月残っているが、婚約者に俊介の存在がバレてしまった。彼は黙っていると言ったが、雛乃の父の耳に入るのも時間の問題だろう。
このままだと、俊介は厄介な揉め事に巻き込まれてしまうかもしれない。就職先の内定も決まっているこの状態で、御陵コンツェルンを敵に回すことなど絶対に避けたい。いい加減、この契約から手を引いた方がお互いのためなのではないだろうか。
(そうしたら雛乃さんも、これ以上傷つかずに済む)
おそらく雛乃は日を追うごとに、俊介に惹かれてきている。これ以上一緒にいるのは、別れを迎えたときの雛乃の傷口が深くなるだけだ。
「雛乃さん、あの」
俊介は口を開いたが、雛乃の澄んだ瞳にまっすぐ見据えられると、何も言えなかった。
もう終わりにしましょう。その言葉が喉の奥に引っかかったまま、いつまで経っても出てこない。割の良いバイトを手放すのを、惜しいと思っているからだろうか。それとも――
「……なんでも、ないです。そろそろ十八時ですよ。石田さんに、ここまで迎えに来てもらったらどうです?」
「そうですね。連絡してみます」
それから二十分ののち、俊介は会計を済ませて店を出た。一足先に外で待っていた雛乃は、店外に貼られたポスターをぼんやりと眺めている。夕陽に照らされた横顔は、まるで彫刻のように美しかった。
「? 何見てんすか、雛乃さん」
「あ、俊介……こんな時期に珍しいな、と思いまして」
雛乃の背後から覗き込むと、彼女が見ていたのは花火大会のポスターだった。打ち上げ会場は、ここから電車で四十分ほどの場所にある海岸だ。本日十九時から開催されるらしい。
たしかに季節外れだが、最近は秋に行われる花火大会も多いようだ。暗くなるのも早いし涼しいし、夏より向いているのかもしれない。浴衣を着るには少し寒いかもしれないが。
「……俊介と一緒に、見てみたいな……」
雛乃は小さな声で、ぽつりと呟いた。そういえば、夏祭りの花火も一緒に見ることは叶わなかった。俊介は唇を引き結んだまま、じっとポスターを睨みつけている。
くどいようだが、雛乃の門限は十九時である。彼女が俊介と花火大会に行くことは、おそらく今後一生ない。
それでも俊介は、以前のように「将来結婚する人と一緒に見るといいですよ」だなんてことは言えなかった。そんなことを口にしてしまったら、あの男の隣に並ぶ雛乃の姿を、リアルに想像してしまう。二人で夜空に弾ける花火を見上げて、男が雛乃の肩を抱き寄せて、それから――
(――ああ、吐き気がしてきた)
俊介が押し黙っているうちに、白のロールスロイスが目の前で停まった。十七時五十五分。運転席から石田が降りてくる。雛乃はまだ、俊介の手を離さない。
「雛乃様。お迎えにあがりました」
「はい……」
最後に雛乃が顔を上げて、俊介の方を見た。まるで親と別れる小さな子どものように、不安げな表情を浮かべている。
宝石のように美しい黒の瞳は、ほんの少し潤んで西日を反射していた。艶やかな黒髪がふわりと風に揺れて、甘い香りが漂ってくる。
(……嫌だ)
雛乃の手が離れたその瞬間、俊介はその手を追いかけて、がしっと掴む。戸惑う指をしっかりと絡め取って逃がさない。
彼女の唇がさよならを紡ぐ前に、気付けば俊介は口走っていた。
「雛乃さん。今から花火、見に行きましょう。……俺と二人で」
雛乃が驚いたように目を見開く。正直、俊介自身も驚いていた。
何故そんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。それでも今日、彼女とこのまま別れたくないと思った。ついさっきまで、この関係を終わらせることすら考えていたというのに。
(……だって、離したくない)
オロオロした雛乃は一瞬石田の方を見て、それから俊介に向き直った。
「え……で、でも……わ、私、門限が」
「でも、花火見たいんでしょう」
「……」
「雛乃さんが望むなら、どこにだって連れて行ってあげます。今の俺は、雛乃さんの恋人ですから」
俊介の言葉に、雛乃は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。そして躊躇いつつも、こくんと小さく頷く。
「…………見たい、です。花火」
彼女が望むなら、悩むことは何もない。俊介は石田に向かって深々と頭を下げる。
「石田さん、すみません。もう少しだけ、お嬢さんと一緒にいさせてください」
「……それはなりません。十九時までに雛乃様をご自宅に送り届けるよう、仰せつかっておりますので」
ぴしゃりと跳ね除けられた。ケチ! と叫びたくなるのをぐっと堪える。石田だって仕事でしているのだから、彼を責めるのはお門違いだ。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
「そもそも十九時門限って、早すぎなんですよ。そんなに心配しなくても、ちょっと花火見て二十一時までには帰りますから。ね、なんとかなりません?」
「……」
俊介の訴えに、石田は眉を寄せて苦悶の表情を浮かべている。そのあいだも雛乃はぎゅうっと、指の色を失うぐらいにきつく、俊介の手を握りしめている。彼女もきっと、俊介と同じ気持ちでいてくれている。
「石田、お願い……私、もう少しだけ俊介と一緒にいたい」
絞り出すように、雛乃が言った。しばしの沈黙のあと、石田はやれやれと頭を振って、深い溜息をつく。それから、眼鏡の向こうの目をギラリと光らせながら言った。
「……二十時半にお迎えに参ります。それ以上は誤魔化しきれません」
「! ありがとう、石田!」
雛乃がぱっと表情を輝かせて、勢いよく石田に抱きつく。微笑ましい光景ではあったが、俊介はなんだか面白くない気持ちになって、雛乃を石田から引き剥がした。
「山科様、くれぐれも遅れることのございませんように。今回はあくまでも特別措置でございますから」
「はいはい、わかってますとも。ありがとうございます。雛乃さん、急がないと打ち上げに間に合わなくなりますよ」
「あ、は、はい」
俊介は腕に巻いたデジタル時計を確認する。時刻は十八時五分。業務時間は過ぎてしまった。雛乃もそのことに気付いたのか、申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめんなさい、俊介……あの、時間外手当は支払いますから」
「……いりませんよ」
「でも」
「俺が言い出したことですから、サービス残業させてください」
俊介はそう言うと、雛乃の手を引いて足早に歩き出す。タダ働きは大嫌いだが、今から二時間半の魔法が解けるまでのあいだ、サービス残業でも何でもしてやろうじゃないか。
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