37.お嬢さんの休日

 しばらくするとオーブンから良い匂いが漂ってきて、二十分後にはピザが焼きあがった。

 巨大なピザに包丁を入れて、サラダとともにローテーブルの上に乗せる。クッションの上に正座した雛乃は、「美味しそう」と頬を綻ばせた。


「いただきます。あの……ナイフとフォークは?」

「え? ピザは手で食べるもんでしょ」

「そ、そうなのですね……では失礼して」


 雛乃は緊張の面持ちでピザに手を伸ばすと、こんがり焼けたチーズがびよーんと伸びる。雛乃はアワアワしながらも、控えめにピザを咥えた。上の具材だけが、ずるりと皿の上に落ちる。


「! あ、あら」

「雛乃さん、ラーメンだけじゃなくてピザ食べるのも下手くそなんですね」

「……こんなに熱々のものを手で食べるのは、難易度が高いのではないかしら」

「ナイフとフォーク出します? たぶんあったと思いますけど……」


 思えば一人暮らしを始めてから、ナイフを使った記憶がない。どこに仕舞ったかと記憶の糸を手繰り寄せていると、雛乃が首を横に振った。


「……いえ、結構です。こういった場では、手で食べるのが〝普通〟でしょう」


 やけに「普通」の部分を強調しながら、雛乃は言った。少しムキになっているようにも見えるが、お嬢様の好きにさせてやろう。

 俊介も手掴みでピザに齧りつく。スーパーで買った市販の生地とトマトソースでも、具材のたっぷり乗った焼きたてピザはさすがに美味かった。雛乃も同じ気持ちだったらしく、熱々のピザと格闘しつつ頷いている。


「やはりピザは、焼きたてに限りますね」

「そうすね。でも雛乃さん、どーせイタリアとかでもっといいやつ食ったことあるんでしょ? 今は記憶失ってくださいね」

「ええ、本場ナポリで窯焼きのピッツァをいただいたことがあります。たしかに美味しかったですが……あなたと二人で作ったピザと比較できるものではありませんもの」


 そう言って雛乃は微笑む。「オーストラリアの深海の景色と比べるとずいぶん見劣りする」なんて言っていた初めてのデートのことを思うと、うんと柔らかな表情をするようになったものだ。

 俊介は雛乃の顔をまっすぐ見られなくて、俯きがちにピザを頬張った。




 ピザを食べて後片付けを終えると、雛乃が持ってきていたバッグの中から何かを取り出した。

 手渡されたものを見ると、どうやら映画のディスクのようだった。パッケージには、バイクに二人乗りする男女の姿がある。タイトルはローマン・ホリディ――ローマの休日、である。


「俊介と観ようと思って、持ってきたのです。二人で映画を見るのは、おうちデートの定番と聞きましたので」

「あー、好きって言ってましたもんね」

「……しかし俊介、先ほどから思っていたのですが……この部屋、テレビはないのですか?」


 雛乃が不思議そうに、狭苦しい部屋をキョロキョロと見回した。そんなに必死で探さなくても、スイッチひとつで隠し部屋が出てくるようなことはありえない。四畳半の部屋には、必要最低限の家具しか置かれていないのだ。


「俺あんまテレビ見ないんで、買ってないんすよ。だいたいスマホで事足りるし」

「! まあ、どうしましょう……再生機器のことを、まったく想定していませんでした。申し訳ありません」


 しょんぼりと肩を落とす雛乃に、俊介は慌てて言った。


「それブルーレイですよね? 俺のパソコンで再生できるかも」


 先輩から譲り受けたノートパソコンは、なかなか高性能だったはずだ。俊介は値切りに値切って格安で買い叩いたのだが、「これ高かったんだからな!」と血涙を流していたのをよく覚えている。

 パソコンを立ち上げて確認してみると、どうやらブルーレイドライブが内蔵されているらしかった。「再生できそうです」と言うと、雛乃がぱっと表情を輝かせる。


「よかったです! 是非、俊介にも観ていただきたかったので」

「じゃあ観ましょうか。雛乃さん、ちょっと立って」


 俊介は雛乃を立ち上がらせると、代わりにクッションの上に腰を下ろした。キョトンとしている雛乃の手を引いて、自分の足のあいだに座らせる。腕の中にすっぽり収まった雛乃の身体が、かちんと固まる。


「しゅ、俊介……」

「二時間正座してんのも、しんどいでしょ。俺のこと背もたれにしてくれていいですよ」


 怒られるかな、と思いつつ、雛乃の腹のあたりにそっと腕を回す。頬を寄せたツヤツヤの黒髪からは、高貴な花のような香りが漂ってくる。シャンプーや香水の匂いだろうか、それとも雛乃自身から漂う匂いなのだろうか。

 しばらく戸惑っていた雛乃は躊躇いつつも、おそるおそる俊介の胸に頭を預けてくる。力いっぱい抱きしめたい衝動を堪えながら、「流しますよ」と耳元で囁いて再生ボタンを押した。


 有名な作品ゆえに、なんとなくのあらすじと結末は知っていたが、改めて見ると面白いものだった。「王女様が一日だけ庶民の生活を満喫する」という今となっては定番のストーリーであるが、多くの作品のインスパイア元となるのもよくわかる。

 なにより、ヒロインであるアン王女の透明感が素晴らしい。くるくる変わる無邪気な表情を見ていると、最初はスクープ目当てだった新聞記者のブラッドレイが惹かれるのもよくわかる。


(というか、わかりすぎて辛い……)


 感情移入していた俊介はだんだん、身につまされて苦しくなってきた。身分違いの恋にずぶずぶとはまっていく男の姿が、今の俊介にとっては他人事とは思えない。

 視線を動かして、腕の中にいる雛乃を盗み見る。おそらく何度も観ている作品なのだろうが、彼女は膝の上で拳を握り締めたまま、真剣なまなざしで画面を見つめていた。


 なんとか奇跡が起きて結ばれてくれないかという俊介の願いは届かず、物語の結末は美しくも切ないものだった。エンドロールのあと、俊介は緩慢な動作で停止ボタンを押す。


「いい映画でしたね」

「……はい。俊介にも気に入っていただけて、嬉しいです」


 雛乃は言ったが、その表情はどこか晴れない。俊介は彼女の顔を覗き込んで「どうしました?」と尋ねる。雛乃は膝の上で拳をぎゅっと握り締めたまま、呟いた。


「……私。今までこの作品のことを、ハッピーエンドだと思っていたのです。一日限りの恋を通じて大人になった王女が、自らの責務を果たすべく前に歩き出す物語だと」

「はあ」

「……でも、今日は何故だか……この二人が結ばれれば良かったのに、と思ってしまいました。素敵な結末であることに変わりはないのに、不思議ですね」


 雛乃は悲しげに目を伏せて俯いた。さらりと頬にかかった黒髪を、俊介は優しくかきあげてやる。

 彼女もきっと、俊介と同じように――身分違いの恋に身を焦がした王女に、自分を重ねたのだろう。決して振り向くことなく別れた二人の姿は、一週間のちの俊介と雛乃の未来である。

 しんみりとした空気を吹き飛ばすように、俊介はあえて明るい声を出した。


「そうだ、雛乃さん。ケーキ食べましょうか」

「ケーキ? まあ、用意してくださったのですか?」

「まあ、誕生日ですから。こないだ雛乃さんが美味いって言ってたケーキ屋行きましたよ」


 今朝はわざわざ電車に乗って銀座に向かい、雛乃おすすめのパティスリーに行ってきたのだ。人気店だとは聞いていたが、開店前から人が並んでいたのには仰天した。俊介は悩んだ結果、小さなイチゴのショートケーキをふたつ購入した。

 冷蔵庫から出したケーキを、崩さないように慎重に皿の上に乗せる。ショーケースに並んでいるときは立派に見えたものだが、安物の皿の上に乗せるとややみすぼらしく感じる。高級店のケーキが、巨大な皿に乗せられている理由がわかった。


「嬉しいです。ありがとうございます……! 嬉しい!」


 しかし雛乃はショートケーキを前に、興奮気味にスマホのシャッターを押した。そんなに喜んでもらえるなら、朝から並んだ甲斐もあるというものだ。

 俊介は「あと、これ」と言って、部屋の隅に隠していた包みを持ってきた。


「一応、プレゼントです。二十歳の誕生日、おめでとうございます」

「ありがとう。開けてもよろしいでしょうか?」

「もちろん」


 雛乃が銀色のリボンを解くのを、俊介は緊張の面持ちで見守っていた。中から出てきた小さな箱を開けると、パールのついた清楚なバレッタが出てくる。

 いつだったか雛乃に連れられた百貨店のサロンで見かけたもの――には程遠い。似たようなデザインのものを、若者向けのアクセサリーブランドで購入した。大学生の彼女に対するプレゼントの相場としては平均的なものだと思うが、雛乃にとっては安物である。


「……すみません。その……大したモンじゃなくて」

「いえ! とっても素敵です。早速付けてみますね」


 雛乃は頬を紅潮させ、嬉しそうにバレッタを手に取った。今つけていた髪飾りを外して、編み込んだ髪が崩れないよう、器用な手つきでバレッタを付け直す。俊介の方を見ると、小首を傾げて微笑んだ。


「どうかしら?」

「……可愛いです」


 雛乃さんが、と心の中で付け加える。安物のヘアアクセサリーだとしても、雛乃が身につけるとまるで本物の宝石のように輝きだすのだ。


「たくさん、悩んでくれましたか?」

「……そりゃあもう。お望み通り、死ぬほど悩んで買いましたよ」

「うふふ、ありがとう。私にとっては、それだけで充分です。後日、領収書を出しておいてくださいね」


 雛乃がさらりと言った言葉が、俊介の胸に鋭く突き刺さる。渇いた唇を素早く湿らせ、「そのこと、なんですが」と口を開いた。


「……これは、経費で落とさなくてもいいです」

「えっ」

「プレゼントもケーキも。最初から、そのつもりで買いました」


 こればかりは、経費として精算したくなかった。これは俊介が雛乃のために選んで、雛乃のために購入したプレゼントだ。契約上の恋人関係を、盛り上げるためのアイテムではない。

 嘘に塗れた二人の関係の中で、たったひとつだけでも〝本物〟を残したかった。


「……いや、まあ……雛乃さんから給料貰ってる以上、あんま変わんないのかもしれないですけど……」

「……いいえ。では、お言葉に甘えます。ありがとう……」


 雛乃はそう言って、俊介の両手をぎゅっと握り締めた。小さな手のぬくもりを感じながら、俊介はこの関係の終わりのことを思っていた。


(……身分違いの恋には、前向きな別離だけでない、別のハッピーエンドの形もあるんだろうか)


 御陵雛乃の長い休日は、一週間後には終わってしまう。もしも、雛乃が振り向いてくれたなら――契約ではない関係を築きたいと、思ってくれたなら。俊介は彼女を力いっぱい抱きしめて、もう二度と離しはしないのに。

 俊介は彼女の手をきつく握り締めながら、身分違いの二人が離れ離れにならずに結ばれる方法を、必死で考えている。

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