36.お嬢さんと新婚さんごっこ

 本日十二月三日の土曜日は、御陵雛乃の二十歳の誕生日……の、前日である。

 本来ならば誕生日当日に祝いたいところだったが、雛乃に予定があるのだから仕方ない。イエスキリストの誕生日だって、前夜祭であるクリスマスイブの方が盛り上がっているのだから、別に良いではないか。


 朝六時に起きて、四畳半の部屋を隅から隅まで掃除した俊介は、ソワソワと雛乃のことを待っていた。なんだか落ち着かず、狭苦しい部屋をぐるぐると歩き回ってしまう。

 九時五十五分、業務開始の五分前に、部屋のインターホンが鳴った。俊介は逸る気持ちを抑えながら、勢いよく扉を開ける。


「雛乃さ」

「山科様。おはようございます」


 満面の笑みで扉を開けた俊介の前に立ちはだかったのは、仏頂面の石田だった。俊介は露骨にげんなり表情を歪め、「オハヨーゴザイマス」と棒読みで返す。

 石田は白い手袋をはめた手でメガネをくいっと持ち上げ、怖い顔で俊介を睨みつけてくる。


「いまさら言うまでもないことですが、くれぐれも、くれぐれもご自身の立場を弁えていただきますよう」

「はいはい、わかってますってば」

「雛乃様が嫌がることや、雛乃様を傷つけることは絶対になさらないようにお願いします」

「それって、お互い合意のうえならオッケーってことになりません?」

「なりません!」


 俊介の軽口に、石田は珍しく語気を荒げた。このままだと、今にも俊介を捻り上げてちょん切ってしまいそうな勢いだ。俊介は慌てて、「冗談ですって」と取り繕う。


「石田さんが心配してるようなことは、何もしないって約束します。そういう契約ですからね」

「……よろしく、お願いいたします」

「ねえ石田、もういいかしら」


 石田の後ろから、雛乃がひょっこりと顔を出す。誕生日だからだろうか、ハーフアップの髪にはいつもより凝ったアレンジが施されていた。お嬢様らしい襟付きのツイードワンピースがよく似合っている。


「雛乃様、やはり私も同席を……」

「絶対に嫌です。運転手同伴のおうちデートだなんて、聞いたことがありません」

「しかし」

「あら、もう十時になりますよ。では石田、本日は十八時に迎えに来てくださいね」


 雛乃はそう言って石田の背中を押すと、後ろ手でがちゃんと扉を閉めた。踵の高いパンプスを脱いで綺麗に揃えると、「お邪魔します」と頭を下げる。俊介は高級そうなロングコートを受け取り、皺にならないよう慎重にハンガーに掛けた。


「……ふふ。やっと二人きりになれましたね」


(……かっわいい……ぎゅっとしたい……)


 はにかむ雛乃を見ていると、石田との約束なんて反故にしてしまいたくなる。今にも抱きしめそうになる腕をぐっと押さえ込んで、ニコッと笑ってみせた。


「いらっしゃい。狭いとこですけど、どうぞ」

「ありがとうございます」


 雛乃はワンピースの裾を可憐に押さえると、畳の上に置かれたクッションに座った。先週、雛乃のために購入したものだ。安物だが、ないよりはマシだろう。

 お行儀良く正座をした雛乃は、安物のティーパックで入れた緑茶を飲んでいる。前回看病に来てもらったときにも思ったが、自分が日頃生活しているオンボロアパートに雛乃がいるという光景に現実感がなさすぎる。背景だけグリーンバックで合成したんじゃないかという不自然さだ。


「今日のお昼は、デリバリーピザを注文するのですよね?」


 そう言って雛乃が首を傾げる。どうやらお嬢様は、「二人でピザを食べたり映画を観たりするおうちデート」をご所望らしい。爛れたおうちデートしかしてこなかった俊介には、雛乃の純粋さが眩しすぎる。

 

「ああ、それなんですけど……よかったら俺、作ります」

「え? あなたが?」

「店で注文するよりは安上がりでしょ。でも、雛乃さんが嫌なら買いましょうか」

「いえ、とんでもないです! よろしければ、私もお手伝いさせてください」


 瞳をキラキラと輝かせた雛乃が、そう言って胸に手を当てる。俊介はスマホをエコバッグに突っ込むと、「じゃあ、行きましょう」と言った。


「どちらに行くのですか?」

「近所のスーパーですよ。材料買いに」

「まあ! お供します」


 雛乃は脱いだばかりのロングコートを羽織ると、玄関でいそいそとパンプスを履く。雛乃に向かって左手を差し出すと、彼女は嬉しそうにその手を握り返してくれた。




 雛乃と手を繋いだままスーパーへと向かう道を歩くのは、なんとも言えずくすぐったく楽しいものだった。毎日見ているはずの風景が、特別なものに感じられる。


「雛乃さんって、スーパーで買い物したことあるんですか?」

「あります。見くびらないでください」


 雛乃は自信満々にそう言ったが、おそらくデパ地下や高級スーパーの類なのだろう。その証拠に、俊介の行きつけの庶民派スーパーに到着した途端、雛乃はややまごついた様子を見せた。


「雛乃さん、そこのカゴ取って」

「あ、は、はい」


 雛乃から買い物カゴを受け取ると、俊介は勝手知ったるスーパーの中を歩き出した。まずは入り口のすぐそばにある野菜売り場からだ。昨日のうちにスマホでレシピは調べておいたので、買うものはだいたい決めている。

 値段を吟味しながら商品をカゴに放り込む俊介のことを、雛乃は興味深そうに眺めている。ちょこちょこと後ろをついてくるさまは、なかなか可愛らしい。


「ピザを作るのなら、チーズも買いますよね?」

「雛乃さん、ストップ。量と値段を比較すると、そっちの方が二十円高いです。右のやつにしてください」


 商品に手を伸ばした雛乃を制する。雛乃は「なるほど、勉強になります」と呟いて、俊介の指示通りにチーズをカゴに入れた。きっとお嬢様は、買い物をするときに数十円の差など気にしたことはないのだろう。


「……もしかして、ケチ臭いと思ってます?」

「いいえ、ちっとも。以前から思っていましたが、お金を大切にするところは、あなたの長所だと思います」


 曇りのない瞳でまっすぐに射抜かれて、俊介は頭を掻いた。金銭感覚の差はいまさら埋めようもないが、雛乃が不快に思っていないのならそれで良い。


 セルフレジで手際良く会計を済ませたあと、エコバッグに商品を詰めてスーパーを出た。俊介の手を握りしめた雛乃が、「サラダのドレッシングは私が作りますね」と微笑む。彼女の美しい黒髪が、柔らかく穏やかな陽の光を浴びて輝いている。


(……なんかこうしてると、新婚夫婦みたいだな)


 そんな馬鹿げたことを考えて浮かれたあと、すぐ現実に引き戻されて落ち込んでしまった。




 アパートに戻ってきた俊介と雛乃は、狭苦しいキッチンスペースに二人並んで立った。顔を見合わせて「狭いですね」と笑うことすら楽しい。浮かれているな、とこっそり自嘲する。

 俊介が野菜を洗って包丁で切っていると、雛乃が手元を覗き込んできた。


「俊介は料理もできるのですね」

「切って焼くか煮るぐらいならできますよ。それ以上のことは全然」

「いえ、なかなかの手際だと思います。見事なピーマンの輪切りですね」


 出逢ったときからずっとそうだが、雛乃に褒められると妙に誇らしい気持ちになる。女王様の賞賛を受ける従僕のようなものだ。ああ、ありがたき幸せ。


 ピザ生地を手作りするのは発酵が面倒だったので、土台だけは出来合いのものを購入した。調理工程は、材料を切ってピザソースを塗って具材を乗せるだけである。それでも、雛乃と二人でワイワイ言いながら料理をするのは楽しかった。


「俊介、そちらにピーマンを乗せなくてもいいのですか?」

「この一角はツナマヨコーンにするんですよ。雛乃さん、そっちにトマト置いて」

「お待ちください。ミニトマトは最後に乗せた方が、彩りが美しいと思います」

「腹の中に入れば一緒でしょ、んなもん」


 そんなことを言い合いながら完成したピザを、余熱しておいたオーブンに突っ込む。今までレンジ機能しか使ったことがないが、珍しいことをしてブレーカーが落ちないか心配だ。

 二人してオーブンの中を覗き込んでいると、隣で雛乃が「うふふ」と肩を揺らして笑う。


「どうしたんですか? 雛乃さん」

「いえ……あの、笑わないでくださいね」


 恥ずかしそうに頬を染めた雛乃が、上目遣いに見つめてくる。約束できないなと思ったけれど、俊介は一応「はい」と頷いた。


「……なんだか新婚さんのようだな、と思っていたのです」


 唇と唇が触れ合いそうな距離で、雛乃がはにかんだ。その瞬間、突然周囲の酸素が薄くなったかのように、胸が苦しくなる。こみ上げてくる感情を必死で押し殺しながら、俊介は「俺もです」と笑ってみせた。

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