05.お嬢さんと初デート
駅前を行き交うカップルや家族連れは、皆一様に楽しげな笑みを浮かべていた。この駅を利用する人間の大半の目的地は、ここから歩いてすぐの場所にある水族館である。足元のタイルにはイルカやアザラシのイラストが描かれているが、経年劣化によるためか少し剥げていた。
まだ午前中だというのに気温は高く、じりじりと焦げつくような日差しが降り注いでいる。駅前の噴水が太陽の光を反射して、小さな虹を作っている。梅雨真っ盛りとは思えないほどに清々しく晴れ渡った今日は、まさに絶好の初デート日和といえよう。
合コンの数日後、ホテルのラウンジに呼び出された俊介は、雛乃との恋人契約を正式に受け入れた。
期限は半年間。時給は三千円。基本的にはシフト制。週に一回の業務時間中は、御陵雛乃の恋人として振る舞うこと。デートの二日前までにプランニングシートを提出し、当日の準備を行うこと。
きちんと契約書まで作成してきた雛乃に驚いたが、雇用主に対する信頼は深まった。これならおそらく、給料を踏み倒されるようなことはないだろう。
そして今日――六月十一日の土曜日は、記念すべき初
太陽の眩しさに目を細めていると、俊介の目の前で白いロールスロイスが音もなく停車した。時刻は十時五十五分。待ち合わせのきっかり五分前だ。
運転手が後部座席の扉を開けると、白いレースワンピースを着た女が車から降りてきた。踵の高いパンプスのヒールがカツンと音を立てて、スカートが風を孕んでふわりと揺れる。この世で一番白いワンピースの似合う女性だな、と俊介は感嘆した。
「ごきげんよう」
「……オハヨーゴザイマス」
四十五度の綺麗なお辞儀をした雛乃につられるように、俊介も頭を下げる。ごきげんよう、という挨拶を実際に耳にしたのは初めてだ。
通りかかった女子二人組が雛乃を見て、「ドラマの撮影?」とひそひそ話しているのが聞こえた。気持ちはわからなくもない。それほどまでに、このお嬢様の雰囲気は浮世離れしている。待ち合わせのたびにこんなに悪目立ちするのは考えものだ。
しかし雛乃が目立つのは、執事のごとく傍に控えている運転手(彼女には石田と呼ばれている)のせいもあるだろう。白髪をぴっちりとオールバックにして、シルバーフレームの眼鏡をかけた初老の男は、掘りが深く彫刻のような顔立ちをしている。若い頃はさぞかし美青年だったのだろう。
まじまじと観察していると、石田は胸に手を当ててお辞儀をしてきた。
「山科様。本日は雛乃様のことをよろしくお願いいたします」
「え? ああ、はい」
「雛乃様の門限は十九時です。くれぐれも、遅れることのなきよう」
口調は穏やかだが、眼鏡の向こうの瞳がギラリと光る。まるで俊介を牽制するような口ぶりに、ややムッとした。
「わかってますよ。俺の今日のシフトは十一時から十八時です。時間外労働する気はありませんから」
「それでは雛乃様、十八時にお迎えにあがります」
「ありがとう、石田」
石田は最後にもう一度頭を下げてから、車に乗り込んだ。白いロールスロイスがすっかり見えなくなってから、俊介は小さく溜息をつく。
「ずいぶん過保護な運転手ですね。門限十九時って、小学生じゃあるまいし」
「石田は心配性なのです。昔から私のことを可愛がってくれていますから、親代わりのようなものですね」
そのとき、駅前にある大時計からからくり人形が飛び出してきて、軽快な音楽が流れ始めた。十一時だ。さて、仕事の始まりである。
「ではお嬢さん、参りましょうか」
「よろしくお願いします」
俊介がすっと左手を差し出すと、雛乃は不思議そうに瞬きをした。頭上にハテナマークを浮かべながら、まるで握手をするように俊介の手をしっかりと握る。俊介は耐えきれずに吹き出した。
「違いますよ、お嬢さん。恋人同士は手を繋ぐもんでしょ」
俊介がひらひら手を振ってみせると、雛乃は神妙な表情で頷いた。
「それはたしかに、そうですね。加点して差し上げます」
「え、加点方式なんですか? もしかして一定の点数超えたらボーナス出たりします?」
「検討しておきましょう。ただし、恋人として相応しくない言動があった場合は容赦なく減点させていただきますね」
「イエス、マァム」
「早速ですが、先ほど笑ったことで減点しておきます」
拗ねたように言った雛乃の機嫌を取るように、俊介は「すみませんって」と愛想笑いをする。彼女の右手を取ると、こわごわと握り返された。
今からおよそ七時間、山科俊介は御陵雛乃の恋人だ。頑張って時給三千円ぶんの働きはさせていただきますよ、お嬢さん。
三日前に提出した初デートのプランを、雛乃は却下することなく一発採用した。何度かボツを食らう腹積りでいたので、「承知しました。楽しみにしています」というメールが返ってきたとき、俊介は少なからず驚いた。
俊介のデートプランは、海の見えるカフェでランチを食べたあと水族館に行って、夕暮れどきに海辺を散歩するというベタベタなものだった。初デートの参考書なんてものがあれば、凡例として三番目ぐらいに掲載されているだろう。
駅のそばにあるカフェはハワイの砂浜をイメージしているらしく、明るい店内は白いウッド調で統一されていた。御陵コンツェルンの社長令嬢は本物のハワイに何度も行ったことがあるのだろうな、と俊介はぼんやり考える。
十一時のオープンとほぼ同時に入店した俊介と雛乃は、窓際のソファ席に案内される。雛乃は腕時計に視線を落としてから、不思議そうに尋ねてきた。
「先日プランを拝見したときにも思ったのですが……昼食には少し早い時間ですね」
「十二時前後は混みますからね。お嬢さん、長時間並ぶの嫌でしょ」
俊介の言葉がピンときていないらしく、雛乃はキョトンと瞬きをする。金持ちは混雑を避けるために、昼のピーク時間を避けるということをしないのだろうか。予約のできるような店にしか行かないのか。たしかに、お嬢様が行列に並んでいるところは想像できないが。
説明するのを諦めた俊介は、店員に手渡されたメニュー表を開く。ランチのメニューはおおむね千円から二千円。ものすごく高いわけではないが、普段の俊介ならまず立ち寄らない価格帯の店である。
「一応確認しますけど、俺が食うぶんも経費精算していいんですよね」
「はい、どうぞ」
「じゃあこれにします。ハワイアンステーキプレート、飲み物はマンゴージュースで」
ここぞとばかりに一番高いメニューを選んだが、雛乃は嫌な顔ひとつしなかった。彼女はしばらく悩んだあと、ロコモコプレートとキャラメルラテを注文した。
ややあって運ばれてきた飲み物と料理は、洒落た器に美しく盛られていた。ドリンクのグラスには真っ赤なハイビスカスが飾られている。器の大きさの割に中身が少ないな、と俊介は思ったが、雛乃は「まあ、素敵」と口元に手を当てた。
「では、いただきます」
先日の合コンのときにも思ったが、食事のときには基本的に会話をしないタイプらしい。俊介も心ゆくまでステーキを楽しみたかったので、黙ってフォークとナイフを動かしていた。柔らかな肉に甘酸っぱいソースが絡んで美味い。タダだと思うと余計に美味い。
二人がちょうど食べ終わったタイミングで、隣のテーブルにパンケーキが運ばれてきた。生クリームのたっぷり乗った皿をチラリと見て、雛乃がぽつりと呟く。
「あちらのパンケーキも美味しそうですね……」
「追加で注文します? 半分こしましょうか」
自分が払うわけではないので、いくらでも無責任なことが言える。雛乃はしばらく考え込んでいたが、ふるふると首を横に振った。
「……いえ。残念ですが……そんなに食べられそうにありません。残すのも嫌ですし、またの機会にします」
彼女ほどのお嬢様なら、いつでも好きなものを好きなだけ食べられるだろうに、パンケーキごときで本気で悔しそうにしているのがなんだか面白い。
ニヤニヤしているのがバレたのか、軽く睨まれてしまった。
「……何か、おかしいですか?」
「いえ。可愛いなーと思ってただけです」
「か、かわ」
恋人らしいリップサービスのつもりだったが、多少は本音も含まれている。かあっと赤く頰を染めた雛乃は、ぷいっと視線を逸らしてしまった。そんな仕草がまた可愛らしくて、俊介は笑って彼女の顔を覗き込む。
「お嬢さん、加点は?」
「ありません!」
膨れっ面の雛乃に、ぴしゃりと叱られてしまった。どうやら彼女は、クールで高飛車なお嬢様というわけではないらしい。またしても、意外な一面を知ってしまった。
伝票を持ってレジに向かい、電子マネーで会計を済ませる。当然、「領収書ください」と伝えることも忘れない。雛乃は店員に向かって「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げる。
十二時すぎということもあり、店を出るとずらりと列ができていた。カンカン照りの中で辛抱強く待っている人々を見た雛乃は、驚いたように手に口を当てる。
「まあ、早めに来たのはこういうことだったのですね……」
「ね? だから言ったでしょ」
「素晴らしい段取りです。加点しましょう」
「お褒めに預かり光栄です」
そう言って笑った俊介は、雛乃の手をさりげなく取って歩き出す。二人の初デートは、まだ始まったばかりだ。
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