06.お嬢さんと水族館
水族館は冷房が効いているのか、ひやりと冷たい空気に満ちていた。涼しげな青色のライトに包まれているせいもあるのかもしれない。蒸し暑い初夏のデートにはぴったりだ。
壁から天井までぐるりとガラスの水槽に囲まれたトンネルを、俊介と雛乃は手を繋いでゆっくりと歩く。巨大なマンボウがのんびりと頭上を泳いでいくのは、なんだか奇妙な光景だ。鱗をキラキラと輝かせながら泳ぐ、色とりどりの魚群は美しかったが、それを見つめる彼女の横顔の方がよほど美しい。
「綺麗ですね」
ふいに、雛乃の瞳がこちらを向いた。心のうちを読み取られたようでギクリとするが、平静を装って「そりゃよかったです」と答える。
「お嬢さん、魚好きなんですか?」
「ええ、ノドグロが特に。煮付けも良いですが、やはりお寿司でいただくのが最高です。あ、今の季節だと鱧なんかも良いですね」
「いや、食べる方じゃなくて」
ややズレた回答をした雛乃に、俊介は吹き出した。パンケーキの件といい、意外と食い意地が張っているお嬢様なのかもしれない。雛乃は頰を赤らめて、「わ、わかっています」と付け加えた。
「もちろん、見る方も好きです。オーストラリアでスキューバダイビングをしたこともあります。視界がすべて真っ青な世界に包まれて、色とりどりの魚たちが目の前を……」
「ちょっ、急にスケールデカくすんのやめてくださいよ」
「……たしかに、あのときの光景と比べるとずいぶん見劣りしますね」
「そんなんと比べられたら困ります。いったん、今だけ記憶失ってください」
本物の深海の景色を知っているお嬢様にしてみれば、水族館の巨大水槽などオモチャのようなものだろう。ここは海の底ではないし、隣にいる男は時給につられた契約彼氏だ。
とはいえ雛乃だって、全部ニセモノだとわかったうえでこの状況を楽しんでいるのだ。文句を言われる筋合いはない。俊介にできることは、せいぜい彼女に夢を見せてやることだけである。
二人は手を繋いだままのんびり歩いて、トンネル水槽を抜けた。ゆるやかな坂を下ると、正面にサメが泳ぐ巨大な水槽が現れる。
「あ。お嬢さん、サメがいますよ」
水槽を指差した俊介をチラリと一瞥した雛乃は、不服そうに唇をへの字に曲げた。
「山科さん。今のあなたは、私の何かしら?」
「え? 彼氏ですけど」
「ずっと気になっていたのですけれど、その〝お嬢さん〟という呼びかけは、いかがなものかと。減点です」
「え」
減点、という単語に俊介は慌てた。あまりにも〝お嬢さん〟呼びがしっくりきていたので気にしていなかったのだが、たしかに恋人への呼びかけとしては不適切だろう。勤務時間中だけでも改めなければ。
「じゃあなんて呼びましょうか」
「それを考えるのが
ツンと澄ました顔で突き放される。仕方ない、
(……雛乃? 雛乃ちゃん? ひな? ひなちゃん? いや、それはない……どれも違うな……)
歴代の彼女のことは、大抵ファーストネームで呼び捨てることが多かった。しかし目の前のお嬢様に対して、そんな気安い呼びかけをするのは畏れ多い。雇用主であるということを差し置いても、謎の威圧感がある女なのだ。
「……じゃあ、雛乃さん、で」
悩んだ結果、無難なところに落ち着いた。雛乃に異論はなかったらしく、満足げに頷く。
「ふむ。良しとしましょうか」
どうやら減点は免れたらしい。俊介は内心ほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ俺のことも俊介でいいですよ。恋人なんですし」
「そうですね。では俊介で」
雛乃は少しの躊躇もなく、俊介のことをファーストネームで呼び捨てた。一応俊介の方がひとつ歳上なのだが、こういうときに変に遠慮をしない彼女の潔さは、わりと好ましい。
二人並んで、水槽の中のジンベイザメをつぶさに観察する。こうして見ると、横に広がった大きな口などはなかなか愛嬌がある。デートの定番ということで選んだのだが、たまには水族館も悪くない。
(そういや、水族館なんて久々に来たな……)
水族館に来たのは大昔の家族旅行以来だ。幼い自分は、歩き疲れたとダダを捏ねていたような気がする。仕方ないなあと自分をおんぶする背中を朧げに思い出して、俊介は知らず奥歯を噛み締めていた。
「俊介は、サメ映画をご覧になったことは?」
「へ? は、ああ、サメ映画……まったく見ないですね」
雛乃に話しかけられ、俊介は遠い記憶を慌てて脳内から追い払った。サメから視線を剥がした雛乃は、じっとこちらを見つめている。
「まあ! ジョーズも?」
「名前ぐらいは知ってますよ。人間がサメに襲われるんですよね」
「そんなに大雑把に言われてしまうと、大抵のサメ映画がそれで説明がついてしまいます」
「雛乃さん、サメ映画観るんですか?」
「ええ。B級の極めつけのような、思い切り馬鹿馬鹿しいものが好きですね。サメは鼻の周りにロレンチーニ器官という弱点があるので、襲われたときはそこを狙うと良いそうですよ」
「その前に、サメに襲われるシチュエーションに遭遇しないことを願います」
大真面目な顔でサメの蘊蓄を語る雛乃に、俊介は吹き出した。それにしても、こんなにも楚々としたお嬢様がB級サメ映画を嗜むとは意外だ。ローマの休日といい、もしかすると映画が好きなのかもしれない。来週は映画デートにしてみようか、と俊介は考える。
「そういえば、二時半からイルカショーがあるみたいですよ。観ましょうか」
「まあ、是非」
イルカショーの会場は、開始の二十分前だというのに大勢の人が集まっていた。前の方の席は既に埋まっているが、後方の端っこの席は空いている。雛乃の真っ白いレースワンピースが汚れるのが気にかかり、ベンチの上にタオルを敷いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
雛乃は礼を言って、美しい所作でタオルの上に腰を下ろす。彼女が着ている服も、きっと信じられないぐらい高価なのだろう。彼女のワンピースのクリーニング代だけで、俊介の今日のコーディネートがすべて賄えてしまいそうだ。
そういえば、俊介は今日の彼女の服装に一度も言及していない。彼女の服装を褒めるのは彼氏の基本ではないだろうか。タイミング的にいまさらかな、と思いつつ、俊介は口を開く。
「雛乃さん、その服似合ってますね」
もう少し歯の浮くような台詞が並べられたらいいのだが、これが俊介の精一杯である。凡庸な褒め言葉だったが、雛乃は頰を染めて胸に手を当てた。
「……初デートなので張り切りました。白いワンピースが嫌いな殿方はいない、と聞いたので」
「どこ情報ですか、それ」
「石田です」
「え、マジ?」
仏頂面の運転手の顔を思い出して、俊介は声をたてて笑った。感覚が半世紀ほど古くないですかね、とも思ったが、あながち外れてもいないあたりが悔しい。清楚な白いワンピースを見た雛乃には、どんな男も夢中にさせてしまうような魅力があった。
「俊介は、白いワンピースはお好きですか?」
「そうですね。俺って意外とベタが好きだったんだなと、今気付きました」
俊介が言うと、雛乃が得意げにふふんと鼻を鳴らす。
そのとき、軽快な音楽とともに飼育員がステージに現れたので、雛乃は拍手とともにそれを迎えた。飼育員の合図とともに、二頭のイルカが挨拶代わりの大ジャンプを決める。ばしゃんと跳ねた飛沫を見つめる彼女の瞳は、宝石のようにキラキラと輝いていた。
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